第5話 シロの恩返し

「おお、石松よ。たまには私の話を聞いてくれるかい。」


「もちろんだよ先生。」


「そうかい、さて私も開業して30年以上たつんだが、今だに忘れることのできない動物たちや飼主さんが沢山いるんだけど、中でもふとした時に幾度となく思い出す症例の話だ。

 その猫はシロと言って、私が開業してまだ1、2年の頃だったかな。

 病院に連れてこられた時にはすでにFIP、つまり猫伝染性腹膜炎を発症していたんだ。

 薬で一時的に全身状態が上向いたものの、やがて神経症状が出て、四肢が動かなくなり、寝たきりになってしまった。それでもまだ熱発はしていたが目つきはしっかりとして食欲もそこそこあったんだ。しかし回復する見込みは無かったので、飼い主さんは安楽死を希望されたんだな。

 ただ、私にはどうしても安楽死ができなかった。

 その時はシロはすでに入院治療中だったんだが、入院室に入っていくと頭だけ持ち上げて、こっちを見て目を合わせてくれるんだ。食餌も口先まで持って行くとゴロゴロ言いながらよく食べていてくれたんだ。

 そんな状況で安楽死できないよな。

 飼主さんには治療費はいらないからしばらく面倒をみたいとお願いしたんだ。

 どうだい、石松だってその状況で死を望まないだろう。」


「そうだな。やっぱ、経験してみないと分からないが、俺は食欲があるうちは死にたくはないかな、でも飼い主さんは見ていられなかったんだろうな。」


「そんなある日の朝、いつものようにシロに食事をさせて、診療が終ってその日の手術、それは猫の避妊手術での出来事だった。術式は常法通り開腹して卵巣子宮を摘出するんだが、子宮頸部を結紮するときにトラブルが起きたんだ。強く締めすぎて、縫合糸で子宮が断裂し、大出血したんだ。

 その猫は出産後の野良さんで栄養状態もあまりよくなかったので、組織が脆くなっていたんだな。

 今なら冷静に対処できると思うが、当時はまだ経験も浅く、助手もいなくて一人で手術していた時なのでパニクッてしまった。頭の中が真っ白になり手先の感覚も無くなってしまったんだ。

 その時だ、それまで五感で感じたことがない、うまく言葉では説明できないような何かを感じ取りながら、勝手に手が動き出し、鉗子で止血し、そこを結紮して、気が付いたら無事に手術を終えていた。麻酔からも無事に覚醒し、その瞬間は自信に満ち溢れた自分であったように覚えているよ。」


「しかしだ、やがて冷静になって振り返ってみると急に不安に襲われたんだ。

 はたして止血処置の際に他の組織を巻き込まなかったか?

 特に子宮頸部に近いところにある尿管をだ。

 もし尿管も一緒に結紮していたり、損傷していたら尿が膀胱に流れずに命取りになるからね。そう思うとずんずん不安だけが先行して、いてもたってもいられなくなってしまったんだ。

 もう一度麻酔をかけ、開腹して確認するにはリスクが大きかったので、まずは尿路造影を試みた。それは造影剤を注射して、それが腎臓でろ過され、尿管を通って、膀胱に溜まるのをレントゲン写真で確認する検査なんだ。

 結果を見るまでとても不安だったけど、運が良かったのか尿管の損傷は認められず安堵したんだ。

 さて、そんな手術のトラブルがあった翌日。シロがいつもより食欲が無いなと思ったら、目にすっかり力が無くなり、あっという間に眠るように息を引き取ったんだ。

 それは偶然の出来事だろうと言われるかもしれないが、シロは避妊手術時の窮地から私を救ってくれて、しかもその猫の身代わりになって旅立ってくれたと今でも私は思っているんだ。

 石松はどう思う。」


「先生が、そんなスピリチュアルな世界を信じる人とは思わなかったが、確かに科学では証明できない現象が起こったのかもしれないな。

 人間でも普通の人には見えないものが見えたり感じたり、また、生まれつき特異な能力を持っている人がいるよね。

 我々の猫の世界でも特殊な能力を持った猫が稀にいるんだ。俺もそのはしくれだと思うが。

 俺が思うには、シロはその手術を受けている猫が生命の危機にさらされていることを感じ取り、残された命を懸けて全力でパワーを送ったと思う。そして、体力を消耗したことでFIPによる死期が早まったんだと思うぜ。

 安楽死をせずに最後まで美味しい食事の世話をしてくれた先生へのせめてもの恩返しをしたのさ、シロは。

 30年たった今でもシロのことを思い出してくれてるなんて、何よりの供養だとおもうぜ。先生に惚れちゃいそうだよ。」


「おいおい、やめてくれよ。」

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