第11章 出会いと絆

 松原優希は今日も学校帰りに等々力公園にいた。

 打ち込んでいる部活は無く、いわゆる帰宅部であった。かといって学業に専念しているわけでもなく、ただ時が過ぎるのに身を委ねるだけのような日々を送っていた。

 高校2年の終わりが迫り、将来の進路について方向性を見出していなければいけない頃であるが、具体的な夢や希望が見つからない自分に苛立ちを感じながらも、前に進めないでいた。

 家に帰れば一人娘がゆえ、両親から受ける大きな愛情が時には精神的なプレッシャーにもなり、自然と会話を避けるようになり、自分の部屋にこもることが多くなっていた。

 そんな優希にとってはこの場所で猫と戯れている時が唯一心が落ち着くひと時であった。


「あら、トラちゃん久しぶり。」


 トラは石松の以前の呼び名だった。トラのことはボランティア仲間の早坂氏から聞いていたので、片目が無くなっていたことには驚かなかった。


「トラちゃん・・・。いやイシマツちゃんに改名したんだってね。大変だったね、もう痛くない?」


 以前の石松はエサをあげる時だけは寄ってくるが、それ以外は顔見知りの優希にさえ近づかず、体を触ることなど出来なかった。

 だが、その日を境に石松は優希に徐々に近づいてくるようになり、体も触らせてくれるようになった。早坂氏からはお腹の中の睾丸を摘出して、完全に去勢したから温和になったと聞かされていたが、優希はそうとは思っていなかった。

 石松に対しては他の地域猫たちとは異なる因縁を優希は感じていた。


 やがて石松はいつも優希に寄り添うようになり、帰る時も名残惜しそうにずっと彼女のことを見つめるようになっていた。

 優希の方も石松と常に一緒にいたいという思いが日に日に強くなっていった。

 たぶん親は許してくれないだろう。特に母親は以前飼っていた猫が縦隔リンパ腫で苦しみながら死んでいったことがトラウマになっていて、それ以降動物を飼うことは許してくれなかった。

 また、最近親とのコミュニケーションがうまく取れていない優希にとっては、親を説得する自信もなかった。

 そんな優希に勇気を与えたのは石松だったのかもしれない。片目になり、去勢されたとはいえ、凛とした姿勢で辺りを見回す姿には親分としての威厳と風格が失われていなかった。

 また、その頃優希には小さな希望の光が見え始めていた。将来、動物に携わる仕事がしたいと。

 優希は勇気をもって両親と向き合い話し合った。石松のこと、そして将来のこと。

 両親は石松を飼うことを許してくれた。石松に対する思いや将来の夢について語る眼差しは明らかに以前の優希とは違っていたことは、両親にはすぐに分かり認めてくれたのだ。


 石松が松原家の一員になって間もなくのこと、ソファで寛ぐ優希の足元で寝そべっていた石松は、彼女の足の脛に大きな傷跡があることに気が付いた。

 優希は9歳の夏休みに清水の祖父母の家に遊びに行っていたときに事故に遭い重傷を負っていた。今でも古傷が痛むことがあり、また、心の傷も完全には癒えていなかった。

 犠牲になった猫は、自分が自転車で轢いてしまったことが原因でトラックに巻き込まれたと思っていた。その懺悔の念をずっと持ち続けていた。

 そんな訳で、優希は夏でもハイソックスをはいて傷跡を保護していた。というより、他人からあまり触れられたくないという思いから隠していたという方が強いかもしれない。


 傷跡に気付いた石松は突然そこを舐め始めた。舐めて傷を治そうという本能からだろう。

「この傷跡は舐めても消えないから舐めてくれなくても大丈夫よ。」と優希は石松に止めさせようとしたが、石松はしきりに舐めていた。

 それを見て優希は、その傷跡の由来を説明し、

「この傷は治らなくていいのよ、一生私が背負っていく心の傷だから。この傷を見るたびに私のために犠牲になった野良猫ちゃんを思い出し、謝っているのよ。」と語った。


 それを聞いた石松は、優希を見上げ、身動ぎもせず見つめながら、眼球を摘出した方の目から止めどなく涙を流し始めた。

 何という偶然だろうか。その野良猫が自分の父親であることを確信したのである。

 そして、その事と野良猫が亡くなったのは優希のせいではないことを、石松は彼女にどうしても伝えたかったのだろう。その強い思いが眼の無い方からだけ涙を流すという奇跡の現象を生み出したのだった。


「イシマツ、どうしたの?」


 あり得ない現象に、優希はまだ術後の傷が完治してないのかと思ったが、そんな考えは一瞬にしてかき消された。


「あなた、私の言葉が分かるの?分かるのね!ありがとう、ありがとう・・・」


 優希は感じていた。石松とは何かの縁で引き寄せられ、時間を共有する中で彼は人の言葉を理解しているのではと薄々感じてはいたが、それが確信に変わった。

 優希にとっては、犠牲になった野良猫がまさか石松の父親だったことまでは分からなかったが、長年持ち続けていた心の痛みを猫である石松に分かってもらえたということが大きかった。

 優希も泣きながら石松を抱きしめながら、心の傷が癒されていくのを感じていた。



 ♬ 清水港の名物はお茶の香りと男伊達・・・ ♬


 つけたままのテレビではいつの間にか昭和歌謡の歌番組が流れていて、氷川きよしが「旅姿三人男」を歌っていた。

 古い曲ではあるが優希には聞き覚えがあった。親戚が集まると祖父がカラオケでいつも歌っていたからである。


 ♬ 腕と度胸じゃ負けないが

 人情絡めばついほろり

 見えぬ片目に出る涙

 森の石松 森の石松 良い男 ♬


 3番の歌詞を聴き終えた優希はハットした表情で石松の方を向き、


「イシマツって名前、森の石松からとったの?」


 優希には石松がほほ笑んだように見えた。



 *     *     *     *     *



 数年後、タムラ動物病院ではいつものように診察を待つ患畜であふれていた。


「松原さん、山崎リンちゃんのスクリーニングにT4を加えといてください。」


「はい、分かりました。院長。」

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