第9章 石松両親の武勇伝
「先生よ、この話をするときは冷静な気分ではいられなくなるのだけど、決して先生に怒っているのではないからね。聞いてくれ。
俺の親父とお袋は情が深くて、ものすごく仲が良くて、夫婦喧嘩もしたことがなかったとお袋から聞いているよ。というのも親父は俺がお袋の腹にいるときに亡くなっているから、親父のことは一切知らねーが、お袋から子守歌代わりに詳しく聞かされてきたのさ。
ある日二人はいつもの日課で散歩していると、公園で中学生が同い年くらいの奴らに絡まれていたのさ、どちらかというと男勝りのお袋が、一番悪そうなやつに飛びついて噛みついてやったらしい。その時に2番目に悪そうなやつが木刀でお袋の前足の骨を粉々にしやがったのさ。
驚いた親父は2番目の悪の背中に飛びついて首に思いっきり噛みついたそうな。そ奴は大声で泣きだし、驚いた中学生たちは散らばってどこかへ逃げちまったとさ。
そこに残されたお袋は意識はしっかりとしていたが、前足が痛くてもがき苦しんでいた。それを見た、絡まれていた少年は近寄ってきて、自分の飼い猫がお世話になっている動物病院、その名もドクター前田動物クリニックに電話したら、すぐに連れてくるようにと言われたらしい。少年は制服を脱ぐとお袋を優しくその中に包み込み一目散にクリニックに駆け込んだのさ。
クリニックでの話はお袋から聞いた通り、やや盛りながら面白く、先生が退屈しないように話すからな。」
『ドクター、いつもお世話になっています。今日はこの子を助けてもらえませんか。右の前足が痛がって歩けないでいます。』
『おお、君か。どこで拾ってきたんだい。だいぶ傷んでそうだけど。』
『公園で、僕がいじめられているところを助けようとして、不良たちに飛び掛かっていったときに、木刀で足を殴られたんだ。物凄い音がしたから折れてるんじゃないかなあ。』
『そうだったのか、人間不信に落ちっている目つきだと思っていたけど、それはしょうがないな、人間のほうが悪い。今度会ったらとっちめてやろう。』
『それはいいんです。この子の彼氏が木刀の奴の首に思いっきり噛みつきましたから。』
『まあいいだろう、そういう奴らは死なない程度に痛めつけとかないと、何度でもやるからな。
レントゲンを撮ってみるからしばらく待っていてくれないか。』
『かならず治してくださいね、ドクター。』
『さあ、見てみるか。うわー、これはひどいな。さぞ痛かっただろうね。今も痛いのだろうね。取り敢えず、痛みを緩和する注射を先に打ってやろうね。じゃないと痛くてかわいそうだからな。
よし、この画面のここのところ、左手の写真とはかなり違うだろ。右の肘が粉砕骨折してバラバラになっちまったな。この関節はもはや使い物にはならないね。』
『ドクター、それどういう意味ですか。わかりやすく説明してください。』
『そうだね。君も私も同じだけど、肘の関節の可動域、つまりどのくらい曲がるかは良くわかっているよね。猫も正常ならば同じくらい曲がるけど、関節がここまで傷んでしまうと、手術しても正常な関節の機能を回復させるのは難しいんだ。それよりも最も本猫が使いやすい角度で関節を固定して、バラバラになっている骨同士を固着させてしまうのが、現段階の治療法としては最善かと思う。
運が良ければ多少はリハビリによって可動するかもしれないが、生涯歩行がぎこちなくなることは受け入れてもらうしかないね。でも幸い4本の足で歩行するから、案外軽快には走ったりはできると思うよ。』
『僕のために身体障害猫になってしまうのだね、あんまりだ。アイツらぶっ殺してやる。』
『おいおい、君を助けてくれたこの子の気持ちを考えてものを言いなさい。命の大切さを教えてもらったと思いなさい。復讐からは何も生まれないよ。まず君がやらなければならないことは、この子をできるだけ元の状態になるまで元気に養生させて、彼氏のもとに返してあげることだろ。
それができたら今度は公園で生活しているすべての動物たちが人にいじめられていたら助けてあげたらどうだい。それが復讐などとは比較にならない価値のある恩返しというものだよ。』
『ド、ドクター。そ、それですね。僕はずっと思っていました。いじめられているだけでは何も解決しないけれど、受けた恩をより弱いものに返していくことなら、今の僕にもできます。
まずは、精いっぱい看病して、この子を何とか彼氏の下で生活できるようにまで回復させてみせます。』
『よくぞ理解してくれた。頑張ろう。』
「数日後、お袋が多少元気になったころ合いを見て、麻酔がかけられて、関節固定手術が行われた。今、そこのクリニックで可能な最善の方法だったようだ。
約1か月過ぎ、痛みもなくなり、固定していたバンデージも短いものになったら、だいぶ歩行も自由になってきた。そこで、少年の家にいったん退院という形でお袋は面倒を見てもらうことになった。
少年の家ではケージレストといって、狭いケージの中で運動を制限される治療が、約1か月続いた。その間、親父は毎日少年の家に庭に面会に通ったらしい。少年もそれにこたえて、庭から見える部屋にケージを設置してくれていた。1か月後すべてバンデージがとられ、6畳の部屋での歩行訓練、少年が必死に覚えた患肢のマッサージが来る日も来る日もおこなわれた。そしてさらに3か月が過ぎ、お袋はついに親父の待つ公園に戻されることとなった。
この話は少年の友人らがSNSで毎日写真付きで仲間たちに伝わっていたので、お袋が公園デビューする日には多くの少年少女が集まって勇気を与えてくれた。その中には奴らもいたそうだ。それを聞いた少年は、やつらにあくる日から、自分と一緒に毎日、猫に食事をやらないかと誘ってみたが、断られたそうだ。世の中、物語みたいにはいかないものだから、それは仕方ないよな。でもさ、ドラマみたいになってしまったこともあるんだよ、これが。
公園デビューに次の日に少年はドクターを訪ねた。少年の両親も付き添っていた。」
『ドクター、長い間本当にお世話になりました。僕が思っていた以上に足も良くなりました。ドクターのおかげです。今日は治療費の清算をしていただきにきました。いったん両親に立て替えてもらいますが、かならず高校に入ったらバイトして返すつもりです。手術もしていただいているし、覚悟はできています。おいくらですか。』
『103万円だね。入院も長かったし随分と掛かってしまって申し訳ない。』
『ええー!、ドクター・・・。お父さん、大丈夫?』
『もちろんだよ。おまえが、得られた経験を考えたら、安いものだ。時には人生、金に換えられない貴重な体験というものがあることを忘れるんじゃないよ。ねえ、お母さん。』
『そうね、ドクター、本当にありがとうございました。感謝しております。ところで、カードでもよろしいでしょうか、お支払い。』
『ええー。もちろん大金ですから、何でもいいのですが。ちょっと待ってくださいね。お話がトントン拍子に進んでしまいまして、口を挟めなかったのですが、103万円いただけたら、そりゃ、うれしいのですけれど、実はお支払いは完了しているのですよ。まずはその内訳を聞いてください。
今回の話を聞いたボランティアが募金活動をしてくれました、総額3万円。少年の危機を救った勇気ある猫たちの行動に敬意を表して、私が50万円。そして、その猫に危機に十分すぎるほど手助けをした少年の行動に敬意を表して、私が50万円を出させていただきました。以上でお支払いは済んでおります。』
『ドクター、そんなにいい人だったのですね。僕びっくりしました。でも103万円って高すぎますよね。』
『確かにそうかもしれないな。私がそのような値段をつけたのは、私の治療というよりも、私たち全員が、それだけの価値あることをしたという証みたいなものに値を付けたのさ、そこはどうでもいいことだよ。』
『ドクター、息子と猫を本当にありがとうございました。この御恩は一生忘れません。』
「どうだい先生。こんな話だけど。ここで聞きたいことは、俺のお袋は生涯右の前足が不自由になっちまったのだけど、これで治療は良かったのかい、ピンとかプレートとかボルトとか入れて治すだろ、今の治療は。障害が残らない完ぺきな治療はできなかったのかい。」
「お答えしましょう。石松さん。久しぶりに感動したよ。いい話じゃないか。
なんかもっと適切な治療法がなかったかって、それは愚問だよ。
動物と場合によっては人の心の傷まで治してしまうのが、本当の名医というものだよ。これ以上、このドクターに何を望むのだ。素晴らしいドクターじゃないか。私は忘れないよ、このドクターのことは。
スキルに長けた整形外科の先生は探せばいくらでもいるかもしれないが、心の傷を治せる先生は中々いないよ。」
「それはそうと、親父さんはどうして亡くなられたんだ。」
「親父か・・・。母親に聞いたんだが、俺がまだお袋の腹にいたころの話さ。
前足が悪くて、しかもお腹が大きくて、動きが鈍くなってきていたお袋に付き添って親父が散歩していた時、自転車に乗った小学生の少女が交差点を渡りかけていた。そこへ右折しようとした大型トラックが勢いよく突っ込んできた。
周りにいた人々は止めようもなく、もはやこれまで、と思ったとき、お袋が大声で叫んだ、『あなた自転車を止めて。』
この声が終わらないうちに、親父は少女の自転車の前輪に体当たりし、そのまま大型トラックの前輪に巻き込まれ、悲惨な状態で亡くなってしまった。
もちろん即死。少女も右足に大けがをしたが、何とか命は助かったようだ。
しかし、もし親父が自転車に体当たりしなければ、少女は確実に大型トラックに巻き込まれ、最悪の結果になっていただろう。少女は救急車で運ばれていった。
先生、話はこれからだ。
事故を見ていた通行人の一人が、親父の亡骸をタオルに巻き、段ボールに入れて出血し汚れた体を丹念に奇麗にしてくれたんだ。
ほどなくもう1人が近所で花を買ってきてくれて、段ボールにいっぱいに入れてくれた。そして現場を見た人々が皆、親父に感謝の言葉をかけてくれたと聞いている。
そればかりでなく、皆でお金を出し合って、動物霊園に迎えに来てもらい、個別で埋葬してもらったということだ。
親父を無残にも殺してしまった人間を俺は恨んでいたが、お袋は俺に言ってたもんさ、『人を恨むんじゃないよ、優しい人もいるのだから、お父さんは、人を恨んだりしてないと思うよ。』
こんな過去があるから、俺の猫性も複雑になっちまったわけよ。」
「そんなことがあったのか・・・。
石松の人間性じゃなくて猫性は今わかったけど両親から引き継いでいるのだね。立派な御両親だ。両親とも正義を貫く強い意志があったようだ。人の社会では徐々に欠落してきている。お前さんたちのような猫を見て、人ももう一度道徳感のようなことを思い出してほしいな。」
いつの間にか、多村は石松をケージから出し抱きしめていた。
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