第8章 石松の爺さんまだまだ元気

「実は身内の話だけど、俺の爺さんのことだけど江戸っ子で気風が良くて皆から好かれていたのよ。昔の猫で18歳まで生きたのは立派だったと思わないかい、先生。

 長生きは良かったけれど、それが10歳の時、飼い主が誕生日の記念にと健康診断を受けさせに主治医の所に連れて行ったらしい。親切な飼い主さんに恵まれたよね。そこで血液検査と超音波エコー、胸部のレントゲンをやってもらったそうだ。

 残念なことに病気が出てしまった。ALTとかいう肝臓の酵素が正常値の上限の2倍くらいあり、肝臓が悪いという主治医の見解だった。それから毎日薬を飲まされて月一回の血液検査という日々が始まってしまい、外出禁止という爺さんにとっては地獄の刑に値する生活がやってきてしまった。

 そして5年が経過し、爺さん15歳、元気、食欲極めてあり、夜中は外出したいと叫びまわる日々が続いていたが、なぜか5年余りで体重が半分になってしまい、歳のせいだねと飼い主も思っていたが、どうもおかしい。元気すぎるし、毛艶も悪すぎる、水も飲みすぎるようだ。ということでいつもの真(ま)谷(だに)動物病院ではなく、セカンドオピニオンを仰いでみようと、最近評判が極めてアップしているエリート動物病院のすべての人種に優しく接してくれる先生の所に連れてかれたのだ。

 爺さんも、この選択には納得していたようだ。大人しくキャリアーに入り受診した。その時の獣医師と看護師の会話を爺さんは一言一句漏らさずに覚えていたので実況中継的にしてみよう。ちょっと面白おかしく盛ってみるか。先生も飽きてきたようだから。」



『先生、この爺さん猫、5年前からALTが高くて肝臓の薬を服用しています。主治医は蚤(のみ)谷(や)先生です。痩せてますね。脱水もしているし。元気っぽく見える割には調子が悪そうね。目だけぎらついて、私の超年下の元彼みたいだわ。嫌ねこの子ったら、私に興味あるみたいだわ。』


『看護師さん、訂正が何か所かありますよ。まず、主治医は真谷先生よ、ノミじゃなくてマダニ先生。殺虫剤の種類は同じでも、名前だから全然違うのよ、気をつけなさい。いずれにせよ、ノミやダニの言うことは信じちゃだめよ。しっかりと検査してみましょうね。私も相当勉強しているから、昔みたいな隙はないわよ。あ、忘れそうだったわ。この子はあなたに興味があるわけじゃなく、どうやらテンションが高くなっているだけみたいよ。今の私にはすでに病気の目星はついているわよ。さあ、血液の一般検査とGGTとT4も入れておいてね。』


『先生、T4は甲状腺の値だから、甲状腺機能亢進症を疑っているのね。そこに目をつけるなんて、確かに変ったわね。昔の先生なら見落としていたはずよ。でもGGTをいれたのはなぜかしら。あまり使わない検査だけど。』


『あら、あなたほどのキャリアでもわからないこともあるのね。猫ちゃんは肝臓に問題があるとかならずといっていいほど上昇するのがこれよ。知っておきなさい。つまりは、甲状腺機能亢進症の猫様はほとんどALTが上昇しているのよ。だからそれが肝疾患によるものかどうかをGGTで確認するのよ。私の診断、スマートかしら。』


『じゃあ、先生甲状腺機能亢進症の猫様も値が治療でコントロールされたらALTは正常値になるのかしら。』


『さすが、うちの看護師さんは出来が違うな。普段から私を見て勉強しているからね。その通りよ。もともと肝疾患でなかったALTの上昇なら下がるはずです。』


『先生、結果が出ました。ALTとT4は高値、GGTとその他は正常です。』


『うーん。想像通りだね。これは肝臓の薬を止めて、甲状腺の値を下げる薬を開始しなければいけません。』


『先生、飼い主様にどう説明しますか。5年間騙されていたこと、はっきり言っていいの。私は知りませんよ。揉めるとすぐに私を頼りにするのだから先生は。』


『あなた、それは仕方ないことよ。私は人様に嫌われたくないし、それどころか愛されたいのよ。あなたはその美貌があるじゃない。相変わらず意地悪ね、あなたは。』


『いいですよ、わかりました。私が説明しますよ。女の武器を使ってソフトに優しく。』


『それなら私も得意よ。』



 そして、飼い主のおばさんが診察室に呼ばれると、先生からこんなお話があった。


『お宅の猫ちゃんの病気は甲状腺機能亢進症です。通常、この病気は内服で甲状腺の値をコントロールしていきます。うまくいったらALTも正常値になるはずです。御心配なく。』


『先生、内の子は肝臓が悪いのではなかったのですか。5年間。』


『いや、それはわかりません。肝臓の薬で良くなったかもしれませんが、今は2次的にALTが上昇しているだけなので、これは正常値に戻ってくると思います。』


『ということは、どういうふうに私どもは解釈したらよいのですか。5年間、そこそこ治療費もかかっているのですが、しかも毎月の検査代も。』



「先生よー。これって詐欺みたいな状況だよな。これでいいのかい、だめだよねー、本当は。ちなみにその後、爺さんのT4の値が薬によって正常値に下がり安定してきたら体重も増えてきて普通の健康な時の体に戻り、異常な行動もなくなり、その上ALTも正常値になったと聞いているからねー。いったいどう解釈したらいいのだ。せめて5年分の薬代だけでも返還できないかね。和解ってことで。」


「親分、そのような話は山のようにあるさ。もちろん人の医療でもね。

 例えば、人の話になるけど、国民健康保険がパンクしそうになっていることは誰でも知っているけど、政治家がしっかりと現実を把握して対策を練らないといけないのだけれど、相も変わらず自分たちの利益に繋がることばかり考えているから、一向に良い方向には進まない。

 その一例をあげると、よく調剤薬局の待合室で御年配の方々が山のように薬を持っていく風景を目にするけど、これって全部持って帰った人の胃に収まりきれるのか、はなはだ疑問なのですが、こんなに薬飲んでいたら、食べ物も食えなくなってしまいませんか。事実、どの家庭でもかならず量の差こそあれ医者が処方した薬が余っていることでしょう

 ここで問題なのが、この余った大量の薬は、有効期限が切れたら捨てるしかないということで、その費用のほとんどが健康保険で支払われているのが現実なのだよ。何を言いたいか。それは飲まなくても同じような薬なら処方するな。それでも欲しいというなら保険を使わせるな。

 さて興奮してしまって話が本筋から大きく外れてしまったけど、ここでは、実は無駄な薬を不必要と立証することが困難だと言いたいのだよ。分かる?

 つまり、爺さん10歳の時に検査で、わかったこと事実は、ALTが高かったこと。その結果に対して薬が処方されたわけだから、何が悪いかという話さ。もっと言うなら、このときから肝臓に良いといって、ビタミン剤やサプリメントのようなものを山ほど処方されなくてよかったね、という話さ。人なら処方されていたね。健康保険がカバーしてくれるものも多いから。

 もっとわかりやすい例えをしよう。

 若い猫ちゃんが前肢の先端がパンパンに腫れた状態で動物病院にやってきた。それを見た獣医師は飼い主様に事細かく稟告、つまり原因として考えられる環境要因や食べ物のことなど、を聞きました。しかしなぜ足が腫れたかどうにも見当がつきませんでした。そこで検査です。まず血液検査、レントゲン、それでもわかりません。それでは消炎鎮痛剤を注射して、明日もう一度診てみましょうということに。結構診療代は高額になりました。 

 その日飼い主様が家に帰ると、あることに気が付きました。おもちゃについていた長い紐が、ぐちゃぐちゃとよだれがついていて、固まって丸くなっていました。良く見ると猫ちゃんの短い毛が引きちぎれて絡み合っていました。

 そうです。猫ちゃんの足に紐が巻きついて、足先がうっ血して腫れあがっていたのです。飼い主様が稟告をとるときにそのことに気が付いていれば、お話されていて、獣医師はきっと無駄な検査はせずに、もしかしたら注射も打たなかったかもしれない。しかし、ここでもう一言付け加えるなら、しっかりと触診をし、浮腫の感じで見極める獣医師もいることはいるよ。

 だから、良い主治医を選択することが、良い診療に繋がるわけだ。

 ということで今回の話は訴えても勝ち目はないね。収穫といえばエリート動物病院の先生が着実に名医の道を歩んでいるようで、今後も期待したいね。」


「先生、一つ聞きたいことがあるのだが。

 血液検査を看護師さんに先生が依頼するとき、何と何と何って早口で言うけど、何を考えて言っているのかい?」


「ああ。よくやるね。まずそれはオーダーするという。注文ってことだね。私たち獣医師は、まず前にも言ったけど、詳しく稟告をとることから始める。まず完璧に稟告をとれるようになるまでには、よく頑張った人でも5年はかかると思うよ。なぜ稟告が大事かといえば、動物はしゃべることができないから、状況証拠を積み上げていくことが、診断への近道になるからだ。

 次はバイタルチェック、触診、一般身体検査など、ここで難しいのは触診。これも完璧になるのには5年は必要。もちろん稟告と足して10年ではなく、これらは並行して身に着けるものだ。

 さて、触診はじっくりと行うが、このあたりで獣医師の頭の中には徐々に作戦が出来上がってくる。そして触診が終わると一斉にオーダーとなるので、早口で吐き出すように、機関銃のように検査してもらいたい項目が口から飛び出してくるのだよ。

 結局、このオーダーの項目が正確な診断に繋がるキーポイントになるわけだ。」


「なるほどね。オーダーの項目に何を入れるかの判断が獣医師の能力の差ということだね。ということは爺さんの主治医だった真谷先生は、最初にT4の値をオーダーする判断ができなかったというわけだな。」


「待て待て、親分。エリート動物病院の先生も5年前だったらきっとT4をオーダーしていなかったと思うよ。またオーダーしていたとしても高値とは限らないね。本当の問題は、当時は臨床症状だけで甲状腺機能亢進症を完全に除外していたかどうか、そして、5年も診ているのだから途中で甲状腺の疾患をなぜチェックしなかったのかという2点にある。普通の獣医師なら、5年も毎月診ていたら、早期にこの疾患は発見できると思うよ。

 ということは、告訴は無理だけど、猫仲間には蚤谷先生はイマイチだと流しておいた方がよさそうだな。でもな、名前からすると、ノミやダニの治療に異常に優れている先生かもしれないから、調査してみたらどうだい。」


「でも先生、ノミダニには最近安全で良く効く薬があるから問題ないよ。蚤谷じゃなくて真谷先生だけど。」



 石松は大きく息を吸い吐き出したかと思うと、しばらく目を閉じて思いに耽っていた。術後の体には少し負担であったのか、あるいは思い抱いていた様々な疑念について、多村と語り尽くした満足感であろうか、あるいは亡くなっていった仲間たちに対する追悼の思いであろうか・・・。

 やがて、ゆっくりと目を開けまた語り始めた。


「先生、俺の話を聞いてくれてありがとう。感謝しているよ。

 先生に出会えて本当に良かったと思っているよ。」


「私も君と話ができて良かったよ。今まで君たちの感情を何となく読み取ることは出来ても、君のようにはっきりと会話ができたのは初めてだったのでびっくりしている。

 いろいろなエピソードを聞かせてもらって、君たちは人間の言葉をよく理解していることを知ることが出来たよ。

 どうだい、少しは我々獣医に対する見方は変わったかい?」


「そうだな・・・。治療結果には納得できない所もあるが、その経緯には少しは理解できたつもりだ。確かにどの先生も俺たちの病気を治そうと思ってやってくれていることだからな。まさか初めから悪くしてやろうと思っている先生はいない訳だし・・・。

 俺たち人間社会で地域猫として生きてきたものの性だな。

 猫ボラの人たちのたくさんの愛が無ければ俺達はここまで生きられなかった半面、虐待や捕獲され殺処分された仲間のことを思うと、100%人間を信用出来なくなってしまっているんだ。

 その点は分かって欲しい。」


「それはよく分かっているつもりだ。

 君たちにとって住みにくい環境を作り出し、天寿を全うできない仲間がたくさんいる状況を作り出しているのは我々人間のせいだからな。その点は申し訳なく思っているよ。

 ただ、これまで行政、獣医師会、ボランティア団体が協力して改善されてきたところもあるので、さらに人と動物との理想的な共存の実現に向けて、我々も努力することを約束するよ。」


「ありがとう。先生、最後にもう1つだけ聞いてほしい話があるのよ。俺の両親のことなんだが。親父は俺が産まれる前に亡くなっちまって、お袋はまだ清水で暮らしているんだ。もう10歳になるかな、若いころ怪我したところを助けてくれた当時中学生の家で世話になっているんだ。

 その中学生も今は大学生になり大阪の獣医大学に行っていると聞いた。」

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