第7章 港町のボス猫はなぜ死んだ
「先生は良く知っていると思うけど、東海道の清水港のちょっと東京寄りの所に由比という港町がある。ここは桜エビで有名な所で、魚も多く取れるので俺たち渡世猫にとっても道中楽しみな所なのだが、交通量が激しいわりに道幅が狭くて、俺たちはいつも注意していなければならない難所でもある。
そこいらを仕切っていたボス猫のおやっさん、俺もよく知っている義理堅いボスだったが、交通事故で即死ではなかったが、病院で処置中に亡くなっちまったんだ。急死だったので、桜エビの利権も絡んで一荒れしそうだったから、俺が道中の親分連中を連れて、しばらく何も起こらないように治めていたが、その時おやっさんの死亡原因で変なうわさが流れてきた。気になっていたが、慣れない場所で知り合いもいなかったから、そのままになっちまったのだけど。先生に聞いて貰いたいのよ。
おやっさんは、俺たちの猫缶メーカーのイナバ食品の御膝元、由比の町で生まれ育った地域のボス猫だ。そんなわけでかねてより東海道を取り仕切っていた俺とは義兄弟という関係だったわけだ。彼は慎重な性格だったから交通事故にあったと聞いてびっくりとしたけど、話を聞いて納得した。信号無視で突っ込んできた暴走族のバイクの兄ちゃんに跳ねられたらしい。おやっさんの怪我は確かに深刻だったと聞いている。
事故を目撃していた親切なお姉さんが、近所にある動物病院、その名も由比桜エビペットクリニックに運んで行ってくれた。その時は意識もなく、ぐったりとしていたが、呼吸はしていたとのことだった。
幸いにも診療時間内でスタッフもそろっていたので、優先的に治療が進められたそうだ。心電図モニターが付けられ、血管に管が入れられ、酸素吸入が開始され、並行して血液検査、血圧、レントゲン、腹部のエコーと交通事故の多い場所なので、こういった症例の扱いは慣れているみたいだったらしい。そうこうしているうちに、地域の餌やりの猫おばさんと連絡がとれ、これは病院のベテラン看護師の配慮だったらしいのだけど、おばさんが到着した。そして現状の説明が先生から猫おばさんに告げられた。
おやっさんは、目撃者によると、バイクにはねられて10メートル以上飛ばされて、スーパーの駐車場に止めてあった車のボンネットの上にたたきつけられたらしい。その時から意識はなく、出血はなかったが、全身の力が抜けてしまってだらっとしていたらしい。呼吸は弱いながらもあったとのこと。
検査の結果、両前肢橈骨遠位の骨折以外はバイタルもほぼ正常であったが、頭部を激しく打撲したらしく昏睡状態だった。そのクリニックではCTやMRIが設置されていないため頭部内の検査ができなかったが、バイタルが維持されていたので、取り敢えず対症療法で意識回復を待つのが良いのではないかということであった。
そして入院してから2日経過した。その間に点滴の治療だけが行われていた。おやっさんは意識がなく、みかけはただ眠っているような状態であったそうだ。体温、呼吸、血圧などのバイタルはすべて正常だった。
そこで、いつになったら意識が回復するかわからないので、栄養補給のために胃瘻チューブというものを設置し、外から直接、胃に栄養の液体を注入できるようにすることを先生から提案され、おばさんも受け入れた。
その時までは、おやっさんの意識が回復して元気になることを皆が信じていたらしい。もちろん先生も。
そして胃瘻チューブを設置する処置が行われた。軽い鎮静だけでできるはずだったが、無意識での反射が強く出たので、麻酔薬が導入されたらしい。無事設置が終わり、麻酔が覚め始めてバイタルも正常になり始めた時、異変が起きた。
おやっさんの体が激しく痙攣し始めた。あわてて皆で抑えて、すぐに先生が駆けつけて、抗痙攣薬を投与してくれた。数分が経過したがおさまる気配がなかったので、もう一回、そしてもう一回。だめだった。違う薬、最後は麻酔薬と言っていた。すぐに効果がみられ痙攣はおさまった。が、次の瞬間呼吸が止まってしまい、口から気管チューブが挿管され、人工呼吸器に繋がれ、人工呼吸がはじまった。
心臓はリズミカルに打っていたらしいが、その日の夜中に心停止し、還らぬ猫になってしまった。
先生の話では、事故で頭を打っていたらしく、バイタルの維持がこれ以上正常にはできなくなってしまったようだ。痙攣が起きたのは頭からきている。強い麻酔薬を使わなければ痙攣が止まらなかったので、仕方なく投与したけれど、負担になったかな。という感じの話だったそうだ。
先生、おやっさん、なんとかならなかったなー。教えてくれ、本音で。」
「私はいつも、親分の前では本音で答えているぜ。だから心配なんだよ、人にしゃべっちまいはしないかと。私にも立場というものがあるからね。
今回のことは、おやっさん、かわいそうだったな。普通このような事故では、人の場合は救急で大きな病院に運ばれるから、意識がないようなら当然CTやMRIをまず撮るから、そこで問題がないようならば、じっくりと意識が回復するのを待てばよいけれど、動物の場合、そんな装置がある施設は滅多にないから仕方ないけど、頭の中に問題があったかもね。
いずれにしても数日観察してから色んな処置を開始してもよかったかもね。こればっかりは獣医師の判断に委ねるしかないね。確かに猫の場合早く食べさせておきたいという場合があることはたしかだね。飢餓状態が脂肪肝につながり、そのまま食べなくなっていく猫も沢山いるから、これもまた厄介なことだぜ。胃瘻チューブを取り付けたくなる気持ちもわからんでもないな。
しかしねー、桜エビという特産品をクリニックの名前にしているとは、驚きのパターンだね、例えば名勝、富士とか田子の浦とか、を入れているところは多いけどね。このあたりはちょっといじりたくなるような名前だな。
もし、私だったら、おやっさんは安静にさせて、経過観察していたと思うよ。何か強制給餌するための手段にしても、麻酔は使わなくても設置が可能な、経鼻カテーテルを選択していたと思うし、太い血管から高カロリー輸液をしていくだけでも良かったかもしれない。
何せ頭をやられている可能性が強いおやっさんに全身麻酔などかけようとは、はなから考えないのが、どちらかといえばノーマルかもね。だけど、それを選択していたら展開が変わっていたかどうかは、わからないよ。
頭内損傷の程度がどんなものであったかが問題だったけど、調べようもないからね。また、そのときわかったとしても、頭内の手術は猫ではまだまだ一般的ではないから、やれる先生も少ないのが現状だ。
ということで、残念だけど仕方なかったかもしれないな。動物の医療に限界があるのは技術面だけではなく、保険制度が人のようにしっかりとしていないので、どうしても診察料が高額になってしまう。実際にかかる費用は人のそれと大きな差はないのだが、すべてのことがいわば保険適応外と同じになってしまうために、そういう印象を与えてしまうのだ。
結果、できうることやなすべきことでも、費用のことを考えて、どうしても頭打ちになってしまう現実があるのはしかたないことだね。だけど最近は民間の保険制度も充実してきているから、もしもおやっさんが保険に入っていたら、MRIやCTの可能な病院に回されていたかもしれないけど、相当条件の良い地域でないとまだまだかもしれないね。
そういう時代が近い将来きっと来ると思うよ。現実では桜エビは良くやったと思うよ。あいかわらず上から目線的なコメントで申し訳ないが。」
「先生よー。人間でも診てもらう医者によって診断や治療法が違ってくることがあるのかい。」
「あるさ。だからセカンドオピニオン、最近ではサードーオピニオンも珍しくない。つまりは一人のあるいは一か所の医療施設の診断に頼らずに2件3件と別の施設に行き診断や治療をしてもらうわけよ。それでどこを選ぶかは本人次第だけど、最初の病院にもどることを選択する場合もあるけど、それは他の医者の意見を仰いだうえでの結論ということで、無駄な経過をとっているとは言えないと思う。
しかしここで重要なことは、あまりこのことを繰り返したり、他人の言葉に翻弄されたりしていると、いわゆる医療難民といって、計画的な治療ができなくなり、結局うまくいかなくなってしまうことも多いのも事実だ。
つまりは信頼できる主治医のアドバイスで行動し、本筋からずれないような治療をしていくことが本来は正しいのかもしれないけど。溺れる者は藁をもつかむ。というように、都合の良い話があると、つい手を出したくなるのが人の常で、またそういう状況につけ込むような商売も横行しているのが社会の現実だ。
私の所にも怪しいサプリメントを売りに来る業者も多いし、また怪しい治療法を実践している輩もいるから、これには要注意だな。」
「どこの先生に診てもらうかによって自分の運命が決まってしまうってことだな。普段から後悔しないように、医者も選んでおく必要があるわけだ。俺たちの情報網もこまめにアップデートしておかないといけないな。」
「親分よー。子分がお前さんを親分と決めたのはなぜだい?何か特別な理由があるのかい。それともお前さんが、日本で一番立派な親分だからかい。」
「先生。それはまた唐突な質問だなー。自分の口からは言いづらいけど、俺は子分の面倒はよくみるし、なにより子分のミスはいつだって責任をとってきたよ。そんな行動を見て、下の者が集まってきているのだと思うよ。もちろん日本一なんてことはあり得ない。」
「私もおまえさんが言うとおりだと思っている。医者選びというのも、所詮そんなもんだ。皆が感じている、その人の歩んできた道を見て決めればよいこと。難しいことじゃない。子分のミスの責任をとるなんてことは親分としては立派なことだな。その点、政治家とはえらい違いだ。」
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