第6章 眼が白くなった

「俺の兄貴分のヤスサンのことだけど、2年前に道玄坂の路上で若い奴らに囲まれてぼこぼこにされたことがあるんだ。まあそれは仕方ない。俺たち渡世猫には守らなければならないルールがあり、どこの路上も気安く歩いたりすることは御法度なんだ。

 当然兄貴も知っていたと思うが、時として、かわいい姉ちゃんたちにつられていってしまうこともあるんだ。そんな時、運が悪いとやられちまう。だけどよ、他の猫のシマで暴れちまうと後が厄介だから、兄貴は適当にやられちまっていたみたいだったんだ。それを見ていた道玄坂の猫おばさんが早速兄貴をエリート動物病院というできたてほやほやの所に試に連れて行ったんだ。兄貴も病院情報がまだなかったのでおとなしくキャリアーに入って様子を見ることにしたんだ。最も体が痛くてそれどころではなかったようだが。

 ここからは、兄貴が入院したエリートでの先生と看護師との会話を兄貴に聞いたとおりにできるだけ忠実に話すからな。」


 診察台に兄貴が乗せられ、男勝りの美形の看護師さんががっちりと兄貴を保定しているところへ院長がやってくる。


『大将、ずいぶん派手にやられたね。こりゃー、さては道玄坂の悪たちの仕業だろう。私は傷口を見れば大体わかるから。あんたも相当な悪だね。あら、玉ちゃんがないね、去勢済みか。おとなしくしてればいいのに、みんな去勢が済むとおとなしくしているよ。睨まれたら逃げればいいのよ。雄としてのプライドは気のせいだから、捨てていいのよ、そんなもの。

 ここだけの話よ。うちの先生を見習うといいわ。先生は、あんたと同じなのよ。ただし自らの意思でその道を選択して、カミングアウトもホームページでしているわよ。立派な方よ。

 しゃべり方に癖があるけど笑ったり、怒ったりしないでよ。ナイーブな人だから。先生は本当にいい人よ、セクハラなんかも一度もないし、そう時々私に逆にパワハラ受けて涙ぐんでることもあるのよ。私も相当気を使っているつもりなんだけどね。いいわかった、絶対に爪は立てないでね。私が許さないからね。

 先生ー、お願いします。大将、お待ちです。去勢してありまーす。』


『お待たせー、同胞って呼んでいいかい、大将。』


『それが先生、この傷見てくださいよ。激しい喧嘩の証拠になりますね。このぶんじゃ、まだまだ雄に未練があるようですよ。先生の経験に基づいた貴重なアドバイスが必要です。』


『あれあれ、困った大将さんねー。お仕置きしたいけど、これだけやられていると、もうかわいそうになっちゃう。傷口の洗浄からしましょうね。そして、抗生物質のお注射の特大サイズを一本打ちましょうね。アドバイスは独房でね。じっくりと、時間はあるから。たっぷりと。』


『承知しました。独房の準備はすでに整っています。トイレはどうしますか。猫砂だと傷口が汚れますので、ペットシーツにしますか。多分大将は砂に慣れているのでペットシーツはストレスになると思うのですが。我慢させますか。』


『去勢が済んでいるということは、私のように身のこなし方も、何となくしなやかにしてもらいたいですね。そっとペットシーツで用を足し、誰にも気づかれないようにトイレから出てくるのが理想の去勢猫のたち振る舞いですよ。教育しましょう。外に出ても指導者として生きていかなくてはいけませんから。この子は特に。』


『先生、この子は特別ですか。なぜ。』


『そこは、それよ、あれなのよ。同じ匂いがするもの同士、種を越えた何かを感じるものよ。この子は立派な去勢オスとして地域猫の手本、つまりキューバのカストロみたいにならなくてはならないのよ。あなたには分からないでしょうね。』


『先生、私はキューバと言えば、チェ・ゲバラのほうが好きだわ。』


『当たり前でしょ。私だって憧れているわよ。あなたよりも情熱的よ。でもね、それは殿方としてみればのことよ。この子にそれを望んではいけないのよ、もはや。

 カストロだって立派な指導者として生きてきた方よ、そういう人間いや猫になってもらいたいということなの。殿方としてもそこそこ魅力的だったけどね。カストロ。』



 こんな感じの病院だったということだが、ある日看護師さんが兄貴の目の異変に気がついたんだ。その時の様子を忠実に再現してみよう。



『先生。大変です。大将の左の目の中心部分がまるーく白内障になっています。』


『あー、本当だ。ところで君は白内障って見たことあるの。』


『もちろんですよ。ここに来る前は10年間の経歴がありますから。白内障の一つや二つ診てますとも。眼科の得意な先生と仕事をしたことはありませんでしたけど。でも、白内障は犬だけだったかなー。なーんか最近歳のせいか忘れるなー。』


『実は私は眼科は苦手なのよ。今までは何とか避けてきた分野よ。だから猫ちゃんの白内障など見たことも聞いたこともないのよ。ところで白内障って、急に白くなってくるのかい。徐々に白くなってくると思ってたわ。不思議な病ね。』


『先生、何でもいいから治してやってください。どうもこの子痛そうにしている時があるんです。先生、治せますよね。白内障。』


『あなた私を誰だと思っていたの。業界では超有名人よ。治せない病はございませんことよ。』


『不安です。それは違う業界です。でもちょっとおかしいな、白内障に痛みがあったかなー。そもそもこれって手術以外に治療法あったかなー。』


『今更うろ覚えの情報など要りませんよ。私の本能と底力でなんとかこの窮地を切り抜けるわ。意地でもやるわ。とりあえず、抗生物質と目を保護する点眼をこまめにしておいてください。』


『先生、その治療いつものやつと同じですが、よろしいでしょうか。』


『まずは基本に戻ることが、何でも大事なのよ、治療って。多分悪くなることはないでしょう。少なくとも。でもこれは重要なことよ。自分の力で治るまで時間稼ぎすることも私たちプロの大事な仕事なのよ。知ってると思うけど。』



「こんな感じで、白内障の治療が進んだらしいが、すぐにそれは治ってしまい、元通りのきれいな目になったらしい。しかし治ったようだが、白内障は治らない病気だから生涯目薬をつけるように言われて半年以上たつが未だにつけているそうだ。これってありかい。どこかおかしいよな、きっと。」


「面白い病院だな。楽しそうでいいじゃないか。偉い人がときどき、いったん口にしたことを後で間違ったからと分かっても、なかなか潔く訂正できないことがある。医療現場でもよくあることだけど、そんな時、ベテランの看護師長さんがいたりすると偉い先生の気持ちを忖度し、うまく事が運ぶこともあるのだが、なかなかトップダウンの業界だからトップが認めないことを進めていくことは難しい。ということで今回の場合は明らかに診断に問題があったようだね。

 つまり、そもそも猫の白内障は非常にレアーな疾患で、眼科の症例の多い所でも、そんなに診ることはないので、最初からあまり考えなくてもよかったと思うよ。その上に、白内障は点眼では治らない、あるいはほぼ治らない疾患なので、治った時点で違う病気であったと判断すべきだったと思うよ。

 それよりも、獣医師だったら、症状を見もしないで、苦手な分野だったとしても、看護師さんの診断をうのみにしてことを進めていくのはいかがかなと思うよ。

 今回は結果と状況から判断すると、角膜混濁、それも恐らく喧嘩の際にできた角膜の傷が原因だろう。普通の開業医なら見ただけで、白内障、つまり水晶体の白濁か、角膜の白濁かの区別など一瞬で分かるし、表面を染色すれば傷があるかどうかも確認はできることだ。

 いくら苦手な分野だったとしても、素人とは違うところがないと獣医師とは言えない。ちょっと厳しい言い方になってしまったが、結果がたまたま良かったけれど、いつもうまくいくとは限らない。取り返しがつかなくなることもきっと近い将来おこるぞ。

 当然だけど、点眼は止めてよし。ということだな。かくいう私も苦手な分野はあるよ。」


「それにしても先生よ。苦手な分野があるのはしかたないけど、例えば人間だって、眼科もあれば耳鼻科もあるけど、一応、犬と猫の専門病院として開業しているのだから、少なくとも獣医が診てから、わからなければいろいろと調べたり、同業者に聞いたり、方法は色々とあるだろうに、どうだい先生。」


「その通りだと思うよ。実は立派な先生ほど、そういうことはいとも簡単にできるのだけど中途半端なプライドがあると意外にできなくなってしまうんだな。困ったことに。だから、人には、こんなことわざがあるんだよ。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥。分かるだろ、この感じ。」


「いや、俺たちには到底わからない。獣医師なんだから、治療に全力を尽くすべきだと思うけど。後にも先にも、それだけだろうが。この際先生側の事情など二の次だろ、いやどうでもいいことだな。」


「まあそうだな。同業者としては、なんとも返す言葉がない。どうやら、このドクターは、言葉使いと言い、看護師さんとの関係といい、とっても優しくて私とは大違いだけど、眼科はたとえ1次病院だとしても、避けてはいけない分野だから今後精進してもらいたいな。難しい症例は仕方ないとしても、多くの症例は勉強すれば本人の力できっと治療できるはずだ。男女の隔たりなく気安く通える病院、最高じゃないか。

 できる先生を探すことより人の好い先生を探すほうが難しい業界だからな、自分で言うのもなんだけど。頑張ってもらいたい先生の一人だね。」

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