第5章 癌との闘いで散った石松の舎弟

「俺の舎弟が死んで3年になるが、今でも痛みに苦しんで死んでいった最後が忘れられないよ。俺たちみたいに東海道の荒くれ者で喧嘩に明け暮れ、しょっちゅう怪我をしていたけれど、せめて死ぬ時くらいは安らかに逝かせてやりたかった。

 6年前に去勢をして名古屋のおばさんの家に草鞋を脱ぎ、渡世稼業からも完全に足をあらって、外には出ない家猫として幸せに暮らしていたんだ。去勢をした病院が、NIAMCと言って、日本語では名古屋国際動物医療センターっていうらしい。やたらとでかい立派なつくりで、スタッフも何十人もいたようだ。手術をする前の検査で、胸部のレントゲン、心電図、尿検査、血液検査、ウイルス検査をしてもらったらしい。その時は悪いところもなく、ウイルス検査もFIV、FeLVともにマイナスだったと聞いている。

 そこで術前にノミ取りの処置と3種混合ワクチンと猫白血病ワクチンを接種されたらしい。去勢手術も無事に終わり、おばさんの家に戻り、外出はできないものの十分にかわいがられて幸せだったようだ。

 おばさんはまじめな人で、動物病院からワクチン追加接種の案内のはがきが来るたびに毎年必ず同じワクチンを打ちに行っていたんだ。約2年は幸せな日々が流れていった。渡世猫からの連絡はほとんど無かったが、時々届く便りは、兄貴も早く草鞋を脱ぎ、落ち着いたらどうだ、というものばかりだった。

 それがだ、ある日、バイトで飛脚をしている足のめっぽう速い渡世猫が、舎弟が癌で苦しんでいて、最後に兄貴の顔が一目見たいといっている、という話を伝えてきた。俺は当時、遠州のお松という女に面倒見てもらっていたので、名古屋はいってみれば目と鼻の先、2日で着くと即座に思った。取るものも取らず、お松の用意してくれたキャットフードを首輪に着けて、久しぶりの旅に出た。

 最初のダッシュは案外疲れてしまったけれど、一時すぎれば、昔の調子が出てきて、1日半で着いちまった。気が付くと、お松が用意してくれたキャットフードがそのまま残っていた。どうやら俺みたいなデブ猫は長く絶食すると肝臓に良くないと、どこかの有識猫に聞いたみたいで、くれぐれも途中で少しずつでも食べるようにと、お松に出かける直前まで言われていたのに、俺ときたら全くそんなこと忘れちまって、ただただ走り続けてしまった。

 すっかり暗くなった頃、おばさんの家の天井裏に潜り込んで、しばらくおばさんが床に入るまで俺もじっと旅の疲れをとっていた。寝静まった頃、舎弟の部屋を探して、奴のそばまで近づいてじっと見ていると、半分目を開いて、苦しそうな呼吸を繰り返して、時折小さな唸り声のような音を出していた。

 体に触れて声をかけてみたが、わずかに動いた程度だったので、思い切って揺り動かしてみたら、奴は目を開いて、兄貴、兄貴だよな、と叫んだ。どうやら俺が見えてないのだとすぐに理解できた。体を見ると左足が付け根から無かった。手術で断脚したらしい。もう元気なころの黒光りした毛艶も見る影もなくばさばさになっていた。傍らに置かれた水や食べ物は一切手がついていなかった。食欲がないどころか、もう水も飲めないほど弱っていたようだ。奴は俺だと確信すると、どうなっちまったかを話してくれた。

 1年前のこと、毎年、白血病のワクチンを接種している左足の太ももに小さなしこりができたと思ったらそいつがあっという間に親指の頭くらいの塊になっちまった。おばさんがそいつに気づき、あわててNIAMCへと連れて行ったら、最初は若い先生が診ていたが、すぐに腫瘍科のボスが登場し、針を刺して細胞を採ったかと思ったら、ガラスに吹き付けて染色液をつけて顕微鏡を見て、こういったらしい。『アウト、繊維肉腫だ。』

 次に若い先生は、こう返した。『先生、場所からして、ワクチン誘発性の繊維肉腫ですかね』ボスは言った、『そうだな。』てな感じで、悪性のワクチン誘発性の繊維肉腫、つまり癌ということだった。

 進行が早く、悪性度も強いから早く断脚したほうが身のためだということで、次の日には断脚をしてしまった。舎弟は命の代わりに片足を失ったと、前向きに残りの猫生を生きようと思ったそうだ。ただしここまでは。つらいのはこれからだったようだ。しばらくして抗癌剤という強い薬の治療を開始した。中でも3週間ごとに点滴される薬、看護師たちが赤い悪魔と呼んでいた薬を投与されると5匹ぐらいの悪にこてんこてんに殴られるほどの衝撃があり数日間は死んだように眠ってしまったという。

 その治療が3回済んだ頃、急に呼吸が苦しくなり、検査の結果、癌が肺に転移して、胸水が貯留していた。そして、あっという間に全身に痛みがはしり、もはや寝返りすら激痛でできなくなってしまった。それが今の状態だということだった。

 その時は抗がん剤治療は止めており、麻薬で痛みを緩和する治療をしてもらっているとのことだが、それもあまり効いてはいないようだった。

 俺は真面に奴の表情を見ていられなかったよ。息が苦しい、体が痛い、無いはずの左足が特に気持ち悪くなるような痛みがある。兄貴、殺してくれ、と何度も頼まれた。俺は切なかったよ。この時間が早く終わってほしいと思ったけど、何もできなかった。今思えば安楽死をしてもらえばよかったのにな、先生。

 そして俺が名古屋について3日目に奴は苦しみながら死んでいったのさ。

 先生、誰が悪いのだろう、俺たちがさんざん悪さをしてきた罰が当たったのかな。それにしても辛い最後だったし、まだ若かったのも大いに悔やまれる。」


「ずいぶんと壮絶な最後だったようだな。お前さんも、そんな最後を見ちまったら、なかなか立ち直れなかっただろうね。私にはよく分かるよ。

 さて、誰が悪かったか。ちょっと微妙な表現になっちまうかもしれないが、それじゃあいけないな。親分が辛い思いを打ち明けてくれたのだから、私も真摯に受け止めて、できるだけはっきりと回答しよう。

 先に言っちゃうけど、何とかセンターっていう名前はかなり素晴らしい2次施設、つまり設備といい、スタッフといい、文句のつけようのないところと、自分たちだけが勝手にそう呼んでいるだけの、情けない施設と、まさに真っ二つに分かれているのが世の常のようだね。

 しかし両者とも費用は結構掛かってしまうようだ。おばさんも今回の治療費は相当かかったと思う。そういう意味では、お前さんの舎弟は幸せ猫だったようだな。

 さて、今回のワクチン誘発性繊維肉腫の対処法、完璧だと思うよ。上から目線の言い方だけど、私の知る限りでは問題はなかったと思う。

 そもそもFeLV、つまり白血病のワクチンは、お前たちにとっては画期的なものだったと思うんだ。なぜなら白血病に感染するとほとんどが数年で死んでしまうわけだから、感染のリスクがある猫ちゃんは注射を受けていれば、ほぼ感染から免れるわけだから。

 でもね、このワクチン、実はちょっと曲者で、接種した部位に数年すると、ごく一部の子たちに繊維肉腫という結構悪性度の強い転移しやすい癌ができてしまうことがある。

 これがこのワクチンの欠点だ。だから、接種する必要がない、つまり感染する可能性のない場合は接種しない方がいいわけだ。

 私たちは、こういうワクチンをノンコア、つまり非必須のワクチンと呼んでいる。今回、舎弟の左足に腫瘍ができたわけだが、国際ルールに沿って、先生が左足にワクチンを接種していたことになる。もしも、他のワクチンのように頸部の背側に打たれていたら、もっと早くに悪い結果になってしまったかもしれないな。

 何故なら、悪性腫瘍はまず完全の切除が要求される、腫瘍はもちろんその周囲の正常な部分も多く切除することで、完璧な手術ということになる。これをマージンをとるという。それが、頸部の背側ということになると、十分なマージンが確保できないために、術後、抗がん剤に行く前に、放射線療法で完全に癌細胞の絶滅をしなければならないのだ。

 これは結構厄介なことだ。本猫の体力的なこともさることながら、費用も莫大になってしまうんだ。まずは十分にマージンが取れた部分の手術にもっていけたことには、先生に感謝したいな。当たり前のことかもしれないが、このルールを守らない先生も案外いるようだから。また神経質な先生は足どころか尻尾に注射し、もしもの事態により完璧に備える場合もあるのだよ。

 抗癌剤の中でも赤い悪魔と呼ばれている薬、それは塩酸ドキソルビシンといって、抗癌剤の中でも相当効果が期待できる反面副反応も大きいことが知られている。これを投与すると、皆一様に元気がなくなり、ぐったりすることから、そのような名前で呼ばれるのかもしれないな。いずれにせよ、3週間に1度、この薬をスケジュールの中に入れることにより、遠隔転移や再発率がぐっと下がることも事実のようだ。

 ここまでやってきたのに、肺に遠隔転移してしまったのだから、これ以上の治療はあきらめざるを得なかっただろう。そして、方針を変えてQOL、つまり生活の質を落とさないことに切り替えたのは、間違っていないと思う。

 そこで先生が選択したのは、セデーションというもので、麻薬の力で、痛みや不安を取り除き、楽な気分で逝けるようにしたんだろう。とはいっても、癌の末期の痛みや苦しみは簡単には取り除くことができないことも事実だ。特に肺がやられてしまうと呼吸困難になっちまうから、これはなかなか楽にしてあげれないんだ。

 医療ミスはなかったと思うよ。先生方も病院もおばさんも、よく頑張ってくれたと思う。ただし、親分の大事な舎弟のことになると、私もちょっとだけ言いたいことがある。ただし、それをミスと呼ぶには、ちょっと違うかもしれないけど。

 それは、舎弟を去勢して、家に入れるとおばさんが決心したとき、病院で3種のワクチンと白血病のワクチンを打ったことだが、この白血病のワクチンを果たして打つ必要があったかどうかということだ。もしも打っていなかったら、癌にはならなかったことを考えると、必要性がなければ避けるべきであったと私は考えるわけだ。

 そこで、おばさんの家の環境なんだが、舎弟以外の猫はいなかった。つまり他の猫からうつるということは、空気感染ではなく接触感染というこの病気の特徴を考えるとあり得ない。また、おばさんはもう二度と外に出さずに生活させる決心をしていたのだから、他の猫との接触は極めて考えづらい。このような状況を、先生が理解していたら、このノンコアのワクチンを接種することは避けられていたのではないかと考えるのだ。

 しかし、避けられなかったことには、それなりの理由があるのかもしれない。野良猫だったから、再び外の生活に戻すと先生が思って、感染のリスクのあるワクチンをあえて打っておいた。 

 また、大きい病院では最初から、白血病の検査でマイナスと出ている子にはすべてワクチンを打つというところもある。もちろんワクチン誘発性の繊維肉腫の発現率が非常に低いことが、そのような決まり事をうんでしまうのかもしれない。それでも、こういうむごい結果を知ってしまうと、今後打つべき理由が明確にない限りは打つべきでないというのが、私の考えである。そのことは、もちろん犬でも同じで、コアワクチンを必要最低限打つことがベストだと考えている。」


「先生よー。切ないなー。どうして舎弟があんな目に合わなければならねーんだ。処置は適当だったかもしれねーが、どう考えても白血病のワクチンなんかいらなかったろう。なぜ打っちまったんだろう。誰からうつるというんだ。俺には学はないけど、おかしいことは、おかしいと主張したい猫でいたいよ。なあ、先生だったら注射したかい、白血病のワクチン。」


「私ならこの状況では打たないな。それは。

 理由は私が町の小さな動物病院の獣医師で患者様の情報を細かいところまで、頭にインプットしているということ、これがすべてだと思う。現在、2次病院がちらほら増えていて、私たちのような1次病院の紹介の患者様のみを診るというシステムになっている。したがって2次病院では、1次病院で一般的に行われるような、避妊手術や去勢手術、ワクチン接種などの予防医学に関することなどは行わないのが一般的になっている。

 ところが、ちょっとこの暗黙のルールに一石を投じてきたものが出始めているんだ、それが今回の動物病院のような1.5次病院と俗にいうもので、基本的には1次病院でありながら、高度な医療も、ものによってはやります。というなんとも中途半端なシステム。

 しかし、飼い主様側からすると、2次病院は金額面や予約制などのシステム、また交通の利便性などから敷居が高いようで、見かけも1次病院のクリニックよりちょっと大型でスタッフも沢山いる1.5次病院が案外流行っているようだ。

 メリットはさておき、デメリットとしては主治医としてのきめ細かなサービスがやや手薄になる傾向になる点かも。そこで考えられたのが、ルーティーンワークの確立、要するに入院室に入れる子には例外なく決められたワクチンと血液検査をすることを義務つけたりするなどなど多岐にわたり、必ず行うことを決めておくことだ。そのことにより例外や特別な対応が一切できなくなるのである。しかし、そのことは業務の円滑化に繋がるというメリットにもなりうる。ただホームドクターの考え方とはかなり隔たりがあるのは事実である。このようなわけで、今回のように白血病ワクチンを打つ、打たないということに見解の相違が出てきてしまうわけだ。

 私だったら、お前さんの舎弟の面倒を見ていたおばさんの家の環境や状況を十分理解した上でワクチンの内容まで決めることまでできたけれど、それを要求することはちょっと、今回の病院では無理だったかもね。」


「でもよー、先生。たとえ病院のルールとはいえ俺たちにしてみれば命がかかっている重要なことだぜ、担当医の判断で決められないかい。融通の利かない奴らの集団みたいな所だな。」


「確かにお前さんの言う通りかもしれない。一つ一つの内容を吟味して、フレキシブルに担当医が判断していいという部分を増やしていっても実害はないかもしれないな。その分、担当医の仕事は増えるかもしれないけど、より良い仕事が可能になるわけだから頑張れると思うけど。いずれ経営者の判断になるだろうね。」


「どうしてもわからない、というか理解できないのは俺が馬鹿だからかもしれないが、先生だけでも賛成してもらいたいのだけれど。

 感染する可能性がほぼない病気のワクチン、ノミやダニがつく心配のない環境でのそれらの予防薬、こんなものは俺たちにとって必要なのか。要らないよな。」


「要らないな。特にお前らのコアワクチンも3年に1度で良いという時代に突入しているし、要らないことだらけで、私たちは仕事が減って小説でも書かなければ生きていけない時代がきているようだ。私みたいに。」


「先生の小説が売れるように渡世猫に宣伝しておくから、がめつい先生にはならないでおくれ。」


「本当に、頼むよ。九州、四国の売れ行きが今一なんだよ。最悪な場合はK学園を褒めるコメントも書いてみようかとも考えているけど、やっぱり嘘はかけないな。」

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