第4章 不妊手術したのに妊娠?

「今度の聞いてみたいことは、噂話だから本当かどうかは定かじゃねえけど、結構笑えちゃう話だぜ。

 俺の弟分が代々木公園に棲んでいたんだが、どうにも喧嘩っ早くて、食事を持ってくるおばさんたちも、それこそ去勢しようと思っていたけど、すばしっこくて、そのうえ悪知恵が発達していて、どうにもおばさんたちには捕まらなくて困っていたんだ。

 そんな時ある猫好きのホームレスから、その子なら俺のブルーテントで毎日昼寝しているという貴重な情報を貰い、次の日に油断して昼寝をしていた奴は御用になり、多分2つあった睾丸は無事に摘出されたそうな。

 いや、話がずれちまったが、噂話は、こいつのことではなく、奴の嫁さんの話なんだ。奴の嫁さんはシャムネコのハーフでそれはそれは美人でかわいい上に発情のときはものすごく妖艶な声で鳴くんだぜ。

 公園の野郎たちが黙っているわけがないだろう。そんなわけで自然と奴も喧嘩っ早くなってしまうんだ。それに気づいた猫ボラおばさんも、あわてて嫁さんを病院に連れて行って避妊手術をしてもらったんだ。

 たまたま嫁さんが捕まった日、いつもの病院が休みで、すぐに手術をやってくれる病院が、避妊去勢格安病院とかいうところで、そこしかやってくれなかったので、名前に不安があったけどお願いしたそうだ。そして無事に退院して数か月、代々木公園にも平穏な時間が流れ、猫ボラのおばさんたち、ブルーテントの住人、棲みついている猫たちも、すっかりと油断していた。

 そんな時、まさにそんな時事件が起きた。奴の嫁さんの腹が少しずつ大きくなってきたんだ。その原因が何かを知る猫が公園には2匹いたらしい。そいつらの話によると。

 奴の嫁、その40日ほど前にかよわいが確かに発情の時に発する例の妖艶な鳴き声を喉から出していたらしい。そんな時、間髪をいれずに、歌舞伎町方面からやってきたギラギラした目の若い衆と情を交わしていたらしい。何かを感じた若い衆は歌舞伎町方面に戻って行っちまって、今は影すらない。

 しばらくして、嫁はかわいらしい子を2匹生んだのさ。面白くないのは弟分だ。だけど去勢してからめっきり元気がなくて、大した問題も起こらなかったようだ。

 そこで先生、なぜ奴の嫁は避妊手術したのに子供ができちまったんだ。そんな話ってあるのかい。ちなみに嫁は腹に手術の傷跡もあったらしいぜ。

 俺の停留睾丸みたいなことが雌にもあるのかねーねーねー。」


「親分、その人間をばかにしたような言い方は止めてくれないか。

 とにかく、そんなこと起こりうるわけがない、絶対にありえない。と、言いたいところだが、この際お前を騙しきれるとは思っていないので、本当の情報をしゃべっちまうことにしよう。

 しかし、これから話すことはまさにトップシークレット。ばれたら動物病院界の秩序が崩壊してしまう恐れもあるからな。注意して守ってくれよ、くれぐれも。

 くどいようだけど、もう一言付け加えておく。この手の話は、結構面白いのが世の常というもんだ。絶対に誰かに話したくなる気持ちは止めようもないんだ。私にはよく分かる。そこで、もしそのような状況が近い将来きたとしても、ニュースソース、つまり私から聞いたとは絶対に言わないでくれ。どうしても言わなければならない状況だったら、記憶の限りでは覚えていない、という答弁が国会では通用しているようだから、その手を使いなさい。

 さて、前置きが長くなってしまったが、まず猫の避妊手術の術式について説明しよう。避妊手術の目的は、妊娠させないこと、発情を抑制すること、この2つだ。この目的を達するためには、大きく言うと2つの術式がある。1つは卵巣摘出術、もう1つは卵巣・子宮摘出術。

 卵巣は卵子を作り発情に関係するホルモンを分泌し、子宮は精子と受精した卵子を着床させ妊娠を維持するための場所となる。したがって、理屈では卵巣を摘出すれば妊娠できない。

 ただ、一般的には卵巣・子宮摘出術を選択する先生がほとんどだ。なぜなら、この2つの臓器は繋がっており、あえて子宮だけ体内に残す意味がなく、そのうえ手術時間や切開創の大きさにさほど差がないからだ。ということで、私自身もこの術式で行っている。

 そしてこの術式を受けた雌猫ちゃんは絶対に妊娠はしない。一方、卵巣摘出術のみを受けた猫ちゃんには、滅多にないことではあるが、あるいはあってはいけないことではあるが、術後一定の期間を過ぎてから発情が戻り妊娠したという話を実は聞いたことがあるのは事実だよ。

 では、稀ではあるが、手術を受けた猫がなぜ不運にも妊娠してしまったかを解説しよう。

 何も複雑に考えることはない。卵巣摘出が不完全だと、残した卵巣組織がわずかでも、いずれ再生し妊娠する可能性があるということだ。私も若いころ1例だが経験したことがあるが、幸いにも子宮を摘出していたので妊娠はしなかったが、発情は数か月して回帰してしまったんだ。その症例は再手術でお腹を開いたら取ったはずの卵巣がほぼ同じ大きさで再生していたのが驚きだった。それから十分に注意して手術していることもあり経験はないが、不運にも取り残してしまうことは絶対にないとは限らない。」


「先生の解説、理解はしたけど、俺たちからすると、全身麻酔をかけられて、腹にメスまで入れられて、避妊してもらったはずが妊娠して子供ができてしまうなんて、そんなことありえないだろう。そんな獣医は訴えてやりたいと思うけど、おかしいかい、先生。」


「うーん。そうだなー、お前たちのことは知らないけどさ、人間界には必ずミスや予想外のことが起きるのだなーこれが。だけど、そんな体験や経験を次に生かすのもまた人間だよね。

 今回の医療行為についても、確かに卵巣の摘出が不完全だったかもしれないが、不可抗力という症例も極まれにあるんだ。副卵巣といって先天的に卵巣が3つある症例だ。しかも3つ目は肉眼では確認できないような小さな組織のこともある。避妊手術でお腹を開けた時にそれを見逃すなというのは無理なことだ。

 重要なのは、もしも卵巣の摘出が不完全で発情が回帰してしまうような事態が生じた場合でも、担当した獣医師が誠意をもった対応をすれば問題は最小限になると思うよ。不測の事態はあるさ。しかしその時の病院や獣医師の対応こそが、その後の状況を左右するのだと思う。

 つまり、私の言いたいことは、何度も同じことをやっちまっているようなら、訴えられてもしょうがないかなーなんて思うけど、一度くらいならイエローカードくらいでどうかなって。多分余程のアホでない限りは打開策を検討するだろう。私も多くの機会でそのように対処してきたよ。実は。」


「分かったよ先生。で、その避妊去勢格安病院でいうのはどうなんだ。そこは病院だけでなくペットホテル、トリミング、ペットグッズの販売なども行っているようだが。」


「知っているよ、商売熱心な先生だよ。避妊手術は卵巣のみの摘出だと自ら言っていた。そして私自身も、この病院で避妊した猫が妊娠したという事実を2例ほど確認しているよ。

 私は開業前にある先輩先生から『食べていけるなら、診療だけに頑張りなさい。トリミングなどに手を出している病院もあるけど、そんな余力やスペースがあるのなら、スマートな診療を極めていきなさい。』と助言してくださった。それから、獣医師たるもの診療のみで生きていけなければ廃業してもいいという信念を持った。また看護師兼トリマーなどという変な言葉もあるが、看護師も看護の仕事だけに集中する者と一緒にやっていきたいと考えている。

 どうだ、俺ってイケてると思わないか。

 大体、変な名前の動物病院には要注意というのが私からのアドバイスだな。おっと、ちょっと言い過ぎたかな。」


「俺もその意見には賛成だよ。先生の名字とか、所在地名なんかをつけてる病院が割と評判がいいようだぜ、俺の経験では。そうそう、ペットショップの中にくっついてる病院があるだろ。あれは評判が良くないものが多いぜ。」


「そうだな。私もよく耳にする。あれは政治家と官僚みたいな関係だな、言ってみれば。獣医がショップ側の顔色を見ながら忖度しているみたいで、同業者としては情けない。ここはくっついてはいけない関係だな。私も若いころペットショップからおいしい条件をもちかけられたことがあったけど、金で魂を売らなくてよかったと、今は後悔してない。」


「さすが、先生、おっしゃることが違いますね。」


「あったり前よ。俺を誰だと思ってるんだ。」

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