第3章 石松の目に何が起きた

「他でもないまたもや俺の話だけどな、先生が手術で取っちまった片目のことだよ。もう痛みがすっかり引いて本当に感謝しているけど、この目はもう俺が子供の頃から悪くて、おばさんたちに連れられてあっちこっちの動物病院の先生に診てもらってきたんだ。

 最初は、子猫のとき、兄弟が皆一斉に風邪をひいて目と鼻がぐしゃぐしゃになり、咳がひどく、喉が痛くて食事が食べられなくなってしまい、5匹の兄弟のうち3匹が死んじまったよ。

 それをみかねたボランティアのおばさんが、たしかBペットクリニックというところへ連れて行ってくれた。そこの獣医さんはすごく優しかった。注射と飲み薬そして哺乳のやり方をおばさんに教えてくれていた。俺の片目はひどい結膜炎だといって、目薬もだしてくれて、なんとか命拾いしたことを覚えているよ。おばさんの看護で目も鼻も咳もある程度回復し、食欲も出てきたけど、鼻と目はその時から体調が悪くなると必ずグシュグシュしてきて、よくおばさんたちに病院へ連れて行ってもらい治療をうけていた。

 何年もその繰り返しだった。そして半年くらい前のことだけど、ものすごく寒い日、いつものように鼻と目がグシュグシュしてきたと思っていたら、あっというまに目が赤く結膜炎になってしまった。それを見たおばさんが、これは大変、いつもの病院が休みだから動物病院きり子に行きましょう。と言って連れて行ってくれた。

 そこで診てもらったところ、結膜が腫れすぎて目の中がどうなっているのかわからないから、抗生物質とステロイドの点眼で少し様子を見ようということになった。

 その時は本当に目が痛くて涙がぽろぽろと出ていた。でも目薬をおばさんに何度も入れてもらったら、驚くほど楽になって、結膜の腫れも引いてきたから、名医にあたったと喜んでいたんだ。それも束の間、痛みがぶり返し、腫れは引いたものの、目の表面がずんずん白くなり初めたかと思ったら、痛くて痛くて目を開いていられなくなってしまった。

 それを見たおばさんは、大慌てで、いつものBペットクリニックに俺を連れて行ったんだ。いつものようにここの先生は優しかったけど、俺は痛くてしょうがなかったので、触られたとき噛みついたんだ。悪気はなかったけど、つい反射的にやってしまった。そういうことってあるよな。

 先生が言うには、この子は凶暴でよく診させてくれないけど、角膜が白濁して、ちょっと隆起しているみたいだから、ステロイドの点眼は止めて、抗生剤と角膜潰瘍に効く目薬を出しておくから、頻繁に点眼してみてください。ということで様子を見ていたら今回みたいに目が飛び出してきたので、先生の病院に、ちょっと遠いけど、おばさんが誰かに紹介してもらってわざわざ来たんだ。

 そして、先生は冷酷にも、『処置なし、すぐに摘出!』という宣告をして手術に至ったというわけさ。

 どこかでどうにか、こうなる前に治るチャンスはなかったものかね。どうだい、先生。」


「お前さんの目と鼻は子猫のときに感染したヘルペスウイルスが局所に残ってしまったために、体調が悪くなったりすると慢性的な症状が出てきてしまうようだな。

 それにしても緊急で行った動物病院きり子。知ってるよ、その病院。相当昔からあるから、ママ、いや医院長も相当お歳かもしれないな。もう、チーママ、いや跡継ぎが診療しているのかな。

 最初にその名前を聞いたときは、さすがに驚いたよ。初診料が受付に座っただけで5万円取られるというデマが流れていたのを思い出すよ。そのデマは結局、獣医師会のボスと呼ばれていたやつが、銀座のバーきり子と間違えて流したデマだと後に判明したのだけど、それにしてもひどい勘違いだ。せめて、前後を逆にして、きり子動物病院にしたほうがよかったかな。

 冗談はさておき、眼球を温存できるかできないかは本人、いや本猫にとっては大事だな。まして親分みたいに東海道を行き来している旅の猫にとっては両目が見えているのといないのでは命にかかわることもあるだろう。お前さんも、私の所で草鞋(わらじ)を永遠に脱いだらどうだ。

 さて、親分が目を失わなくてもよかったかもしれないチャンスはあったといえばあったようだ。でも今回は前の話と違って皆が親分の目を治そうと思って一生懸命にやった結果だから、結果だけでああだこうだは、さすがに私も言いたかないが、動物病院きり子は名前が面白いので、ちょっとだけいじりたくなってしまうな。ということで。

 ステロイドの点眼、実はこれが結構曲者と言える。うまく使えば、こんなに素晴らしい薬はないが,ひとたび適応を間違えると大変なことになる。その見極めが簡単な時もあれば厄介な時もあるのが診療の難しい点で、豊富な経験とスキルを頼りにするしかない。

 それでは親分にもわかるように解説しよう。ここで使うステロイドとは副腎皮質ホルモンのことで、その作用としては強い抗炎症作用がある。つまり炎症を和らげるということ。

 お前さんがきり子さん、いや失礼、ドクターきり子に診ていただいたときは、結膜が腫れあがって目の中が見えなかったと言っていたよね、だからドクターは結膜の炎症を抑える目的でステロイドの点眼薬を処方したんだな。そのおかげでお前さんの結膜の炎症はあっという間に抑えられて、ぐっと楽になったわけだ。

 ただしそれも一時的にね。恐らくは結膜が腫れていて目の中が見えにくかったのは事実だったようだが、残念なことにその見えにくかった部分の角膜の表面に傷があったのではないかと私は思うんだ。

 ヘルペスウイルスでは、よくあることだけど、ここが問題で、傷がある角膜にステロイドの点眼薬をつけると大変よろしくない事態になってしまう時がある。つまりお前さんが体験したように、角膜が混濁し、潰瘍になり、運が悪いとそこが破れてしまい、さらに細菌感染を起こして眼内炎を起こすと目が飛び出したりもする。そうなってしまったら摘出が待っているということだよ。

 私たちは、こういった事態が怖いので、結膜が腫れあがって、角膜の検査が不可能な症例にはステロイドの点眼薬は使わないことにしている。絶対にというわけではないけど、ドクターきり子は使わないほうが良かったと思うね。そのために非ステロイド系の消炎目薬もあるしね。まあ、Bペットクリニックのドクターは良くわかっていたようだね。でも手遅れでした。

 でもさっきも言ったけど、悪意は感じられないから許してやったらどうだい。あきらかに停留睾丸の話とは違うからさ。残された目を大事にしていこう。私もしっかり勉強して今後協力していくから。」


「先生、どこの病院を選ぶかによって治療の内容が違うっていうのはおかしくないか。」


「ううーん。それはおかしくはないよ。いや、もしかしたら本当はおかしいのかもしれないね。しかし、世の中っておかしくないと成り立たないんだな、これが。例えばどこの動物病院でも診断や治療が全く同じ、さらにそれにかかる費用も全く同じだったら、自由診療とはいえないし、ドクターも企業努力を怠ってしまうだろ。

 そもそも、最も入学が難しいとされる東京大学、世界レベルの獣医師を養成するはずの新設大学など様々な教育を受けた様々な能力のある獣医師が社会に出てくるのに、皆同じ診療を要求するほうが難しいのではないか。もちろん、明らかな医療ミスや先生と呼ばれるのにふさわしくない行為など我々はしてはいけないことは肝に銘じておく必要はあるが。

 また、治療を山登りに例えれば、完治である頂上を目指すルートはいくつかあって当然だろう。重要なのは一緒に登る飼主であるパートナーの協力がなければ頂上にはたどり着けないということだと思う。そのためには飼主さんとの信頼関係が最も重要と考えている。」


「先生よ。俺が言いたいのは、そこかもしれないな。患者からしてみると、まずどのような診療をしてくれるかよりも、信頼が欲しい。」


「信頼が欲しい。さすが仁義を重んじる世界で生きてきた親分のいい言葉だ。私も最近歳をとったせいか、言葉の重みを痛感するときがあるが、素晴らしい言葉だ。」

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