第2章 去勢したのに精力衰えず

「俺が1歳になった頃、喧嘩と女に明け暮れていた。そんな時、俺たち野良猫のために毎日食事を配ってくれていたおばさんが、俺を見るにみかねて去勢をしようかね、と提案してくれた。おばさんが言うには、去勢をすると、喧嘩する意欲がなくなり、女にも興味がなくなり穏やかな猫生活が送れるようになるらしい。今までおばさんは何十匹も去勢して感謝してもらったよ、と話していた。女に興味がなくなるはずはないなと思いつつも、喧嘩の日々に疲れていた俺は、騙されたと思って、その手術を受けてみようと思い、おばさんにA動物愛護病院に連れて行ってもらった。急に決まったこともあり、病院の選択は100パーセントおばさんに委ねていた。

 手術の前日からおばさんの家にお世話になり、当日の朝食は抜きで動物病院に、おとなしくキャリアーに入り向かった。動物病院は初めてではなかったけど、手術はしてもらったことがないので、それはそれは恐ろしかったのを覚えているよ。

 その時だけど、ふと、思い出した。情報屋のタマの話を。『動物病院の名前で、何とか動物愛護病院ってな感じ、つまり簡単に言うと、愛護が名前についてるところは、要注意ですよ。そもそも自分のことをきれいだという奴に限ってきれいな奴はいないというようなものですよ。』

 なんで今更こんなこと思い出してしまったのかと、後悔しても後の祭り。あれよあれよという間に病院につき、有無も言わさずに俺は手術室に連れて行かれ、注射を打たれてからは、寝ている間にハイ、終了。多分数分で終わってしまったようだった。その後麻酔が覚めかけてボーとしているとき、先生と看護師がこんな会話をしていたんだ。」



『先生、この子、睾丸が1つでしたね。私、こういうの初めて見ましたけど、こういう子もありですか?』


『そうだな。猫では珍しいけど、たま、だけにたまにはいるよ。当然、睾丸はふたつあるのが一般的だけど、たまに、陰嚢、つまり睾丸が収まっている袋に一つもないことや、この子のように一つしかない場合がある。こういうのを陰睾、あるいは停留睾丸などと言って、欠損している睾丸は胎児期にあったお腹にそのまま停滞しているか、あるいは陰嚢付近の皮下に隠れているか、どちらかなんだ。この子の場合皮下にはないようだったから、恐らくお腹に停滞していると思うよ。』


『なるほど、わかりました、先生。じゃあ、右の睾丸は取ったから残っている左側の睾丸は、そのままにしておいても体に何か悪い影響はないのですか?』


『うーん、私には難しい質問だね。野良だから外に出ている睾丸だけとっておけばいいんじゃない。誰も気が付かないだろう。どうせ私の腕ではここまでだ。』



「麻酔が完全に覚めて退院し、腹いっぱい食事をして俺はまた旅に出た。去勢してもらったけど、おばさんの言うような変化は一切なく、そればかりか、俺の女に対する興味はますます増すばかり、喧嘩にいたっては今や東海道では知らない猫はいないほど有名になっちまったよ。

 おばさんの言っていたことは嘘だったのかい、それとも、医者がミスったのか。教えてくれよ、先生。俺としてはA動物愛護病院の看護師が術後、先生に質問していたことが、どうも気になってしかたない。」


「おいおい、のっけから面白い話、いや興味深い話を聞かせてもらったね。A動物愛護病院といえば、猫ボラさん、つまり地域猫が住みやすいように活動してくれているボランティアさんたちが良く利用している評判の動物病院じゃないか。最初から答えにくい話題になっちまったが、あそこの病院、どうやら看護師はまともな人のようだね。せめてもの救いだ。それにしても獣医師の答え方はまるで国会に呼ばれた証人喚問みたいだね。

 まずはお前さん、8年間も腹腔内に停留睾丸を持ち続けていたら、さぞつらかったろうね。というのは、所定の位置、つまり陰嚢に収まっている睾丸は正常に機能するけど、お腹は陰嚢より温度が高いため、正常に機能しないんだ。つまり、精子の産生は低下するものの、男性ホルモンの分泌は活発になってしまう。簡単に表現すると、異常に女性に興味があり、雄猫には喧嘩を吹っ掛けたりしたくなるが子供はできにくいということだね。其ればかりか、停留睾丸は癌化し易いといわれている。

 絶対に取るべきでだったね。ということで、さっそく手術してあげるから。A動物病院の看護師さんが大ヒントを残してくれたから手術も簡単に終わるよ。左の睾丸がお腹にあるといっていたね。これはありがたい。左だけ探せばいいのだから気が楽だ。さあ、仰向けになりなさい、無麻酔でやっちまおう。冗談でっせ。」


「先生よー。話は理解できたけど、俺の身にもなってくれよ。いったい7年前の手術はなんだったんだ。俺が野良だから手を抜いたのか。俺は本当に7年間苦しんできたんだ。どうして俺は女に異常に興味があるのか、どうして俺は雄猫を見ただけで喧嘩をふっかけたくなるのか。こんな風貌だから女には確かにもてたよ。東海道の港町には必ず1匹は俺の女が待っていることは確かだ。だけどそれも結構大変なことだぜ。仲間のオスには、平成のディープインパクトキャット、なんて陰口も言われていた。去勢してある子分も沢山いるから、さすがに俺の座を狙うやつはいなかったけど、いいかげん楽になりたいよ先生。昔、おばさんが言っていたようになれるよな、俺。手遅れじゃないよなー俺・・・ ・・・。」


「私としては多少羨ましい点もあるけど、ディープインパクトみたいに毎日雌馬、しかも色んなタイプを相手にしていたら確かに身が持たないな。到底わからないが、わかるような気もする。喧嘩っ早いことだけど、これも男性ホルモンに負うところが多いだろうな。生まれ持った性格というやつも多少はあるかもしれんが。

 私が好きな韓流ドラマで歴史ものを見ていると、よく皇帝につかえている宦官が登場するんだ。宦官とは去勢した男性のことだけど、皇帝の周りのお世話をする男性を宦官にしていたのは、それなりの意味のあることだろうから、お前も、そんな感じの人生、いや猫生が待っているはずだよ。

 手術の前に言っておくけど、お腹の睾丸がすでに癌化していたら、もう知らないよ。腫瘍専門医にでも行ってくれ。責任は持てないからね。」


「それで先生、いつ手術してくれるんだい。」


「そうだな、金にならない仕事となると途端にモチベーションが下がるのが私のクリニックの特徴だからな。麻酔医と助手の機嫌がいい時に提案してみるから、少々お待ちくださいませ。

 そういえば、忘れていた。明日、超美人の若い、しかもギンギンに発情している雌猫ちゃんの避妊手術が入っているから、お前を独房に移しておかないとな。三国看護師長に言っておこう。悪く思うなよ。院内の安全のためだ。」


「先生、冗談きついぜ。今日手術してくれよ、今日。」


「それはだめだよ。わが病院にも厳しいコンプライアンスというものがあるから。緊急疾患でもない限り、早坂さんへの説明と同意がないとオペは出来ないんだ。あしからず。」


「そんなー。やっぱり先生は優しさが足りないんじゃないか、俺たち猫に対する。」


「昔、付き合ってた女性にも言われたなー。その言葉。」

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