最終章③
いったい俺はどれくらいここで夕陽の余韻に酔いしれていたのだろう?
廃墟の教会には薄暗い街灯が灯り、ここだけ中世になってしまったようだ。置いてけぼりを食らった地球で最後の一人の子供の気持ちで地平線から目をそらすと、蒸し蒸しとした生ぬるい風にカユアピアピの葉が音を立てて騒めき始め、空には低い雲が集まり、不機嫌そうにメキメキと背骨が折れるような音ともに雷光が光り始めた。
驟雨の予感。
俺は、これを待っていたのかも知れない。
雨は最初、一滴一滴遠慮深そうに落ちていたが、三十秒もしないうちに何百万もの斜線で視界を消す絶え間ない驟雨に変わり、驟雨以外は何も見えなくなり、雨音以外はもう何も聴こえなくなった。
俺は、これを待っていたのかもしれない。
何の苦痛なく盲目になり、何の苦痛もなく記憶喪失になり、何の苦痛もなく死んでゆくこと。
マラッカの夕陽という人生最大にして最高にして最後の絶景が見れたことで俺は満たされたまま終わってしまえばいいと渇望したが、そんな都合のいいことなど起こりえるわけがない。終わらせるだけなら欄干から飛び降りてしまえば話は別だが、痛いのは金井の拷問で懲りている。
それにしても、真っ直ぐで交じりっ気のない美しい雨だ。
雨に濡れることがこんなにも幸福だなんて、雨に降られるだけで一日中機嫌の悪くなる人が多いこの世界で誰が信じようか?
驟雨よ。生き延びるために重ねてしまった汚泥のような罪を洗い流してくれ。そして、それを紺碧というには少し澱んだマラッカの海に流してくれ。俺はこの人生のことを何も覚えていたくない。
「ふん。金子光晴にでもなったつもり?ずいぶん勝手なことを言ってくれるじゃないの」
驟雨の音しか聴こえないはずなのに、俺を金縛りにさせるその声の主は言うまでもない。
やはり、悪夢は去ったわけでも諦めたわけでもなかったのだ。地の果てまで追いつめて、報復がしたいのだろう。一旦引いたかに見せかけて、隙をついて現れる。なんという執着心!それも自分の蒔いた種であるので、責めることも詰ることもできない。
振り向くと、そこにはヨーコはおらず、とぐろをまいて、細く長い割れた舌を出して「シャー」と毒牙を剥く、角の生えた一メートルくらいの白蛇がいる。憎しみと執着で蛇に姿を変えてしまったのだろう。「かわいそうに」とは思わないが、流石に少し申し訳ない気分になる。
俺は情と赦しのない白蛇の目を正視できない。きっと見詰めてしまうと本当に動けなくなってしまってガブリと一撃だろうし、何を言っても火に油を注ぐことになるのも容易に想像がつく。
「黙らないでよ。何か言いなさいよ」
本当に何か言ったら、逆上されて、咬みつかれ、ハイそれまでヨだ。
しかし、俺はもう逃れたいとも赦されたいとも思っていない。マラッカの夕陽を見れたから、もうここで終わってもいいと思う。
「俺はやってない。いったい何があったんだ?」
案の定、白蛇は静かな怒りを露わにして、地を這い、俺の足元から絡みつき、ぬるぬると生臭い欲情のように気持ち悪く体を伝い、やがて首に巻き付いた。首を噛まれたら心臓に一気に毒が回って、三十分もしないうちに今回の人生は強制終了になるというリアルな予感も最早、意味がない。
「あんたは余計なことをせずに寿に行けばそれでよかったのに、それなのに、それなのに……」
息絶えるまでは決して諦めも妥協もない何万回でも毒殺しようと狙ってきそうな赦しのない目。私怨で濁った目。狙われるものは弱い。
「理由を教えてくれる気はないのか?」
恐怖と首の苦しさで声が掠れる。驟雨で水中にいるみたいに視線がぼやけて、ヨーコは白く滲んで見えるだけだ。
「詳細を教えるつもりはないけど、あたしが殺されることは決まっていた。だからあんたは、あんただけは逃がそうとしたのに、死姦してタイに逃げるなんて、裏切者はどっちよ?」
理由もなく人生の落伍者の集落である寿になど行きたくなかったが、貧者の群衆に紛れていれば、俺には害が及ばないという考えだったのだろうか?
よくよく考えれば、あの場でヨーコだけ殺されるのは不自然だ。
実は、俺のことは見逃すように真犯人とは話をつけていて、それで、あんな他愛もないことで激高して俺を放逐しようとしたのだろう。聡明なヨーコのことだ。それくらいの計算と演技、息を吸って吐くくらい簡単なことだろう。すると、あの朝のエージェントからの電話は逃げ方と今後の身の振り方を俺に指示する内容だったに違いない。突然の緊急事態で気が動転していたとはいえ、ただただ、俺の浅墓さが恨めしい。
「ごめん。ただ……」
「ただ何よ?」
「ヨーコさんが綺麗だったから……」
沈黙が流れ、ただ激しい熱帯の驟雨の音だけが聴こえる。
雨なのか涙なのか、白蛇の目は濡れている。
涙に見えるのだとしたら、ただの自惚れだ。
「残念ながら、最終弁論は終ったようね。その顔はやっとすべてを理解したみたいだけど、少し遅すぎたようね。さようなら」
ツベルクリンかBCGのようなちくっとした少し涙ぐむような痛みが首筋に走る。一年以上に亘ったヨーコの報復と俺の逃亡もこのひと咬みで終わった。足や手ならともかく、首は心臓に近すぎるので、応急処置ができない代わりに苦しむ時間は少なくてすむ。クレオパトラみたいに白蛇に自らの乳房を咬ませれば、この一年という一本の映画が最高のクライマックスとエンディングが約束されるのに、それは外道となり果てた俺にはふさわしくない。
白蛇もとい、ヨーコは俺の軀を離れ、雨の中に見えなくなった。
恋と青春と魚と女は逃げ足が速く、いつの間にかいなくなってしまうものだ。そう。いなくなっただけなのだ。いなくなっただけなのに、軀が深い海の底へ沈んでいくみたいだ。そして、俺はもうじきいなくなるだろう。毒が回るのが存外早い。胸が苦しくなってきた。
それでも俺にはマラッカの夕陽の記憶がある。ネロが最後に観たルーベンスの絵よりも美しく、憧れに満ちた夕陽の記憶がある。その記憶だけを持って御魂はきっと日出処の国へと帰ってゆくだろう。そして、御魂は当然の如く帰還を冷たく拒まれるだろう。
赦されることなどなくてもいい。
穢れたままでいい。
驟雨に打たれながら、驟雨を聴きながら、一万年でも。
俺は左胸を抑えて蹲った。
息が止まるくらいに痛い。猛烈に苦しい。
もう時間はないらしい。
俺は左胸を抑えたままで前のめりに倒れ、地面にキスをした。
体温が奪われているのだろう。あんなに優しく美しい驟雨がだんだん重く、冷たくなってきた。まるで生きたままコンクリートに詰められて鈍色の冬の東京湾にでも身を沈められていくようだ。
寒い。
こんなに暑い国にいるのに寒い。
雨なのか?吹雪なのか?
熱帯というやつはどこまでも気まぐれだ。
はは。
もう駄目らしいや。
胸が猛毒で詰まって言葉が発せない。呼吸もできなくなってきた。
生まれてきたことも、生きてきたことも、罪を重ねてきたことも、今ここで驟雨に打たれながら死んでゆくことも何も意味なんかなかった。愛された記憶も何かに守られた記憶もなく、ただただ裸だ。畜生と変わりはしない。
はは。
面白い。一寸した喜劇だったな。
はは。
なぜか軀が熱くなってきやがった。
はは。
呼吸ができない。いよいよ駄目だな。
あはは。
驟雨の音が途絶え、何も見えなくなる一刹那、わずかに夕陽の残照を額に感じた。
了
最後の旅 野田詠月 @boggie999
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