第1話 アムシャー職人エルナ

 春は終わりを告げ、夏の気配が漂い始めたフォーグナーの森は、清々しい空気で満ちていた。木々は青々とした葉を茂らせ、どこか嬉しそうに天に向かって真っすぐ枝を伸ばす。

 

 その木々の間を縫うように、一人の少女が歩いていた。

 頭には風船帽をかぶり、肩までの栗色の髪を無造作に下ろしている。青いエプロンドレスに身を包み、戦利品をたくさん収容できる年季の入った革鞄を肩から掛け、腕には林檎がゆうに十個は詰め込めるのではないかといほど大きな籠を下げている。中には、水筒やランタン、軽食にする林檎や蜜柑がごろりと転がっていた。


 少女の名はエルナ・アルメン。フォーグナーの森の端に住む、十六歳のアムシャー職人だ。

 エルナの右肩には毛玉のような白いものが乗っており、左右の足元には獣が歩いている。


「今日は良い天気ねぇ、エルナ」


 肩の上の毛玉——のように見えるのは、白くてふわふわの毛並みを持つ、手のひらサイズの小鳥だ。雪と見まごう程の全身を覆う純白の羽に、つぶらな真っ黒なおめめ。綺麗に畳まれた小ぶりにみえる羽も黒く、白黒のお洒落な姿だが、ちょこんとついた嘴だけは黒ではあるものの、若干黄色みがかっている。彼女の名前はマシロ。エルナと暮らす妖精動物フェーンティーアの一羽だ。


 妖精動物とは、動物の姿をした妖精のことで、普通の動物と違い、人間と言葉を交わすことができる。ただ、言葉を交わすことのできる人間は限られており、エルナの住むファーレンの村——もっとも、エルナの住む家はファーレンの村の集落からかなり離れてはいるが——でも、妖精動物と話すことができるのは百数人いる村人の中でも十人程度だ。その多くは魔法を操る者たちだった。


「こんな日はゆっくり日向ぼっこでもしてぇなぁ」


 エルナの右手側を歩く、まっくろな黒猫がぼやく。艶やかな毛並みが美しい、黒猫のクロミツだ。満月にも引けを取らぬほど輝く琥珀色の瞳が、今は眠そうに細められている。


「ダメダメ。こんな日こそ、活動しなくちゃ!」


 跳ねるように歩くのは、左側を歩く茶色い巻き毛の犬、チャチャ。クロミツの三倍程の大きさだ。


 小鳥の女の子マシロ、黒猫の男の子クロミツ、茶色い犬の男の子チャチャの、一羽と二匹の妖精動物が、エルナと暮らす唯一の家族だった。


「そうそう! 頑張って、働こう!」

 

 エルナは無意識にちらっと周囲を確認してから、目深に被っていた風船帽の鍔をぐいっと持ち上げた。視界が開けた。今まで広めの鍔で影になっていた目元が日にさらされる。一際目立つ、深緑色しんりょくいろの大きな瞳がきらりと輝いた。

 エルナは平凡ではあるが、可愛らしい顔立ちをしている。目立つわけではないが、優しい雰囲気を纏った女の子らしい顔だ。だが、その瞳は異彩を放っている。深い森を閉じ込めたような深緑色しんりょくいろで、光がなくても日を浴びた宝石のような輝きを放つ。一目見ると、そのまま数秒は見入ってしまうのだが、そのうちに何か得体の知れない恐怖が襲ってきて、目を逸らさずにはいられなくなる。まるで吸い込まれそうな、妙な恐怖心が胸の内で湧き上がってくるのだ。

 その異様な瞳は〈妖精の瞳〉と呼ばれた。美しいが、恐ろしい。まるで妖精の持つ魔力のようだと、賛美と畏怖の交じり合った呼び名だった。


 気にせず付き合ってくれる村人もいたが、恐れからあえて避ける者もいた。

 物心がついてから、エルナは子供心に傷つき、次第に村に近づくことは減っていった。

 だから、外出時は、目元を隠せる鍔の広い風船帽を被るようにしていた。行き会った人に、〈妖精の瞳〉を見せないようにという配慮の為。というより、どちらかといえば、〈妖精の瞳〉で恐れる人々の視線を避けるためだったのかもしれない。


 半年前までは祖母が存命で、その母方の祖母とエルナ、そして一羽と二匹の妖精動物との暮らしだった。祖母は、美しい瞳なのだから隠すことはないと言っていた。母譲りの綺麗な色の瞳だし、恥じることはないのだと。


 エルナの両親は、彼女が幼い時に亡くなった。そのため、エルナには両親の記憶がない。だから、顔さえ思い出すことのできない母と同色の瞳だと言われれば、誇れるようになりたい。でも、急に黙り込んで瞳を覗き込まれ、そのあと我に返って怯えたようにさっと顔を背かれる光景を思い出すと、胸に切られたような痛みが走るのだ。


 十六歳になった今も、まだ胸を張って、〈妖精の瞳〉を誇れる自信がない。

 エルナは帽子を目深に被り直した。森で村人に行き会うことなどほとんどないのだが、外出時は目元を隠すほど目深に被らないとどうにも落ち着かないのだ。


「それで、今日は一体どこへ行くの?」


 右肩に乗ったマシロが耳元で歌うように聞いてくる。


「洞窟だよ」


 エルナが腕から下げる籠の中のランタンに目を落とすと、足元のクロミツが不満そうに呻いた。


「えー……めんど」


 一方、うなだれ気味のクロミツの反対側を歩く、巻き毛の可愛らしいチャチャは目を輝かせて嬉しそうだ。


「冒険だね! 冒険!」


 正反対の反応を示す二匹を見下ろし、エルナは軽く笑った。


 水の神バサエルに守護される西の大陸——そこを支配する国、イーリア。そのイーリア西部にある、フォーグナー森付近に、エルナの住む小さな家があった。アムシャー工房も兼ねているので、小さいながらも、住宅兼工房である。職人は、十六歳の駆け出し職人であるエルナただひとり。

 

 半年前、唯一の肉親である祖母のエルザが亡くなった。生前も、エルザとエルナだけの、たった二人の小さな工房だったのに、今では経験の浅いエルナ一人だ。

 妖精動物の、マシロ、クロミツ、チャチャが何かと手伝ってくれるのだが、職人が一人であることに変わりはない。


 この半年、エルナは何とか工房を切り盛りしていた。もとから、エルザがエルナにアムシャー作りから、工房の経営に至るまで、あらゆることを叩き込んでくれていたおかげで、エルザ亡き後も、人手が足りなくなったというだけで、問題なく運営できていた。

 だが、胸にぽっかり空いた穴はどうしようもない。


 作業時に、エルザが座っていた椅子は、作業台に仕舞われたままで、彼女の作りかけていたアムシャーも片づけられないまま、棚にぽつんと置いてある。


 工房だけではない。家の中にも、エルザが生きていたときの気配や温もりが漂っている気がして、ふとしたときに胸が詰まり、涙ぐんでしまうことがある。そんなとき、マシロが肩に乗って頬に温かくてふわふわの体をそっと寄せてくれたり、クロミツが足元にやってきて、体を擦り付け、チャチャが優しく鼻先をちょんと膝の裏にくっつけてくれたりして、それぞれのやり方で慰めてくれるのだ。


 彼らの存在がとても有難かった。


 それに、何より生活があった。家に貯えなどほとんどない。アムシャー職人は、アムシャーを作り続けなければ生活が立ち行かないのだ。いつまでも感傷に浸っている場合ではない。

 エルザのことを思い出し、涙してしまうとき、目の前に仕事があって良かったと心底思う。がむしゃらに働かなくてはいけない環境が、家族を亡くした悲しみを紛らわせてくれるから。


「今のうちに素材を集めておかないとね」


 地下の素材置き場を思い浮かべ、エルナは嘆息した。素材を詰めた瓶や、籠、木箱がずいぶん寂しくなってきていたのだ。


「てんやわんやになる前に」


 イーリアの国では、春と秋の年に二度、水の神バサエルを讃える祝日がある。

その日には、どの家庭でもアムシャーを飾る。


 アムシャーとは、草花や鉱物、貝殻などの自然の美しい恵みを、透明な瓶に入れ、聖水で満たし、まじないの力を込めた物のことをいう。瓶の中の自然の恵みは、不思議な模様を描き出し、全体がぼうっと青い光を湛える。人々はアムシャーに願をかけ、静かに水の神バサエルに感謝の思いを抱きながら、祝日を過ごすのだ。


 アムシャー職人は誰でもなれるわけではない。

 職人には、まじないの力を込められる特別な力〈アム〉を有する者しかいない。エルザとエルナも〈アム〉を持っていたが、エルザの娘であるエルナの母親は何の力も有していなかったそうだ。


 アムシャーをアムシャー足らしめるのは、アムシャー職人の〈アム〉により込められるまじないの力。


 アムシャー職人でない者が、いくら瓶に草花などを入れ、聖水を満たしても、瓶底に石が沈み込み、軽い花などがぷかりと浮かぶだけだ。素材が特別な模様を描き出すことも、不思議と心を静めてくれるような美しい青い光を宿すこともない。


 エルザは腕の良いアムシャー職人だった。その孫であるエルナもまた祖母譲りの優れた腕を持っていた。当のエルナは自分の生み出すアムシャーにそこまでの自信はなかったのだが、エルザも、エルナを指名してアムシャーを依頼する村の人々も、エルナの作るアムシャーを褒めてくれた。


 エルナは祖母に育てられた。そのため、小さい時からエルザのアムシャー作りを間近で見ながら育った。エルザの作業する工房はエルナの遊び場所でもあったため、自然とアムシャーについてのあれこれが身についていたのだ。エルナにとって、アムシャー作りは日常だった。〈アム〉があるとわかってからは、みっちりと技術を叩き込まれた。そうして、エルナは工房を手伝うようになり、そのまま当たり前のようにアムシャー職人となったのだ。


 春の祝日が終わった現在、アムシャー職人にとって一息つける時期だ。

 朝から晩まで瓶や素材とにらめっこしている繁忙期と違い、ゆっくりと素材集めに専念できる、いわば閑散期。他の職人たちにとっては違うかもしれないが、少なくともエルナにとって素材集めは楽しいものだった。森や洞窟に足を伸ばして、清々しい空気を吸いながら、体を動かすことができる。工房に籠って、ひたすらアムシャーを作り続けるよりはよっぽど体が楽だった。

 

 フォーグナーの森は、豊かな恵みを与えてくれる最高の森だ。中央には聖なる湖と呼ばれる、由緒正しき湖があり、アムシャーに必要な聖水はここで汲んでいる。湖の周囲を囲むように広がる草原には、美しい草花が多く咲き乱れ、森を流れるささやかな川の傍では、丸みを帯びた綺麗な石も豊富に採れる。洞窟もいくつか点在していて、そこでは鉱物を採掘することも可能だ。正にアムシャー職人にとって絶好の採集場所なのだ。

 

 エルナの家が、ファーレンの村から外れ、フォーグナーの森の端に建っているのも、ひとえに森の恩恵を受けるためだ。


 今日も素材集めのために、一羽と二匹の妖精動物をお供に森へ入った。

洞窟に行くのは久しぶりだ。


 最後に行ったのは、祖母が生きていたころ。素材集めが好きなエルナにとっても、洞窟はなかなか気の進まない場所だった。暗闇の中では、ランタンなしで進むことはどうあがいても不可能であるし、足元もじめじめとしていて、足を取られることもしばしば。蝙蝠たちの住処でもあるため、彼らを驚かせて、一斉に飛び立たせるのも心臓に悪い。やはり、暗闇の中というのは、どことなく不気味なものだ。それに、洞窟に行き着くまでもそれなりに距離がある。洞窟は森の端に位置しているのでかなり歩くのだ。ようやく洞窟を目に捕らええても、今度は小舟を漕いで、湖を渡らなくてはならない。それらすべてが、エルナを洞窟採掘から遠ざけていた。

 

 とはいっても、綺麗な石は必要な素材だ。いつかは行かなくてはと思いつつも、瓶底の石をちらっと確認して、まだ大丈夫と言い聞かせながら、今日まで来てしまった。だが、現在の貯蔵分では、秋の祝日用アムシャーには到底足りない。


「さすがにもう後回しにはできないよね」


 エルナは自分に言い聞かせるように小さく呟いて、籠の中で軽食と仲良く並んでいるランタンに目を落とし、人知れず頷いた。



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