UNSTOPPABLE〜40歳公務員男性ラップバトル伝説〜

おいも

第1話 クソッタレチェンジマイライフ

 遠くで煌めくあの飛行機の、大きな羽に乗ってみたい。雲の上じゃなくて、乱気流に巻き込まれてみたい。ぐらぐらと揺れる機体に振り落とされたって構わない。一度でいいから、漫画のキャラクターみたいに破天荒に生きてみたかった。

 街路灯だけが心もとなく照らす帰り道。車の行き来もなく、団地にある住宅群も背の低いアパートも真っ黒に塗りつぶされている。この街のすべての人が寝静まっているかのようで、足元では鈴虫だかコオロギだか、名前も知らない何かがころころと鳴いていた。時計を見るのも億劫で、ただ、予想よりずっと遅い帰宅になるのだと思った。吐く息も白くなる。足取りは重いが、歩かなければ帰りつけない。外気に触れて冷たくなった鼻を手で覆い、勢いよく空気を吸い込みながら鼻水をずるずると飲み込む。髭を剃り忘れたかもしれない、と手のひらに刺激を感じた。

 私は、今年で40歳になることを思い出した。何もかも虚しい、そんな残業帰りはここ数年だと久しぶりだ。懐かしい。

 重たい瞼をこすりながら、しばらくの間虚しい、という言葉が私の脳内に繰り返し響いていた。生活は軌道に乗り、あまりにも平凡にただただ通り過ぎていくが、理想の生き方は到底できないと思い知らされてきて、だからといって何を変えることもない。ようやくここまで死なずに生きてきたというのに、いまや感情の起伏すら失って毎日を無為に過ごしている。戦う前から敗北しているような己など、少年時代には想像もしなかった現実が待っていたものだ。寒さから併発する鬱々とした気分。だから、やはり冬は好きになれない。

「こんばんは。」

ふと、張りのある高い声が閑散とした住宅街に響いた。大きな声ではなかったが、それでもこちらを驚かせ視線をあげさせるには十分だった。何しろ声の距離が近すぎるのだ。周囲に対してもう少し警戒すべきなのだろうか、と恐る恐る目線を声の主に合わせる。

 こんばんは、と目の前の女性はもう一度言った。つい先ほどと同じ言葉であったが、今度はさっきのように注意をひくためのあの甲高い音ではない。その物言いはまるで名簿などの読み合わせのような無機質な調子であったが、それと同時に存在感があり、硬質で突き刺さるようだった。

 奇妙な女だ、といって片づけてしまえば簡単なのだが、かける言葉も失うほど目を奪われる存在なのだ。まずどう奇妙かといえば、とにかく若いことだった。事実から先に整理するならば、彼女は女子高生だ。暗がりでもはっきりと認識できる制服や体格から明らかである。

 だが、どうにも違和感を覚える程度には全体的にアンバランスな学生だった。身体は成熟しているのに声音はまだ小学生のように無邪気で、真っ赤な口紅が際立つ濃い化粧は、この年齢にしてはあまりに過剰だと感じる。明るく染めている頭髪も、清潔感があるとは言い難いほどあちこち傷んでいる。

「あの。」

「うん?」

狙ってもいないのに同時に言葉を発してしまい、ああしまった、と取り繕うこともできないまま相手の反応をうかがう。彼女は特に気にした様子もなく、薄らと作り笑いを顔に張り付けていた。

「タクシー、呼んでくれませんか。」

たった一言、それだけだった。その言葉だけを信じるならばタクシーを呼んでほしいというお願いなのだが、含みのある言い方である。さらに言うと、彼女は断られるとはまったく思っていないのだろう、ということだけがわかる。表情が悪びれなく、どこか自信に満ちているからだ。

「タクシーを?」

聞き返すふりをしながら、どうにか様子を見ている。すでにこの身は好奇心に囚われて、不思議で珍妙な女子高生から目が離せなくなっていることに気づかないでいた。

「はい。お願いできますか。」

有無を言わさない。その頼み方では強引さを感じずにはいられず、やはり頭の中には疑問符が渦巻いていた。冬が近づきつつある真夜中の郊外のはずれにて、長袖の冬用制服とはいえかすかに震えている彼女は、この場所には不釣り合いなほど生気を宿した目をしている。

「わかった。…いいよ。」

神妙な顔をして黙ってしまった彼女に合わせて、できるだけ真面目な姿勢を見せるために頷く。だが、同時に己の中で関わることを避けるべきだという直感があった。この出会いはおそらく偶然であり、わたしではなくても彼女は震えながら誰かに声をかけたに違いない。これから何か起きるとして、彼女に選ばれたこの身に災厄が降り注ぐことになるかもしれない。この若者は切羽詰まった様子もなく、助けを求めているわけでもない。表情と薄ら笑いから伝わってきてしまう。だが、何か強い覚悟を決めている目と、張り詰めた糸のように真っすぐで通る声が、化粧の厚くて生意気な態度の若者というフィルターをすり抜けて、希少な宝石のような魅力を伝えてくる。言い換えれば物珍しい程度のことなのに、それでは終わらない、彼女には波紋のように心に響く何かがある。それが何か、わたしは生きてきて一度も名前をつけたことのない感情だと思った。

 この近辺でのタクシーの呼び出しなど慣れたもので、顔なじみの運転手だっているくらいだ。公務員である以上避けられない職場関係の飲み会の度に利用してきたし、深夜というよりほぼ夜明けになるとネットカフェに泊まることも多かった。登録先の電話番号に親指を滑らせ、スマートフォンを耳に当てて所在地を滑らかに伝える。

「これでいいかな。」

彼女は唾を飲み込んで頷いた。声をかけてきた瞬間よりも緊張しているのだろう。指先を組んだり広げたりと忙しなく動かしつつ、何かを言い出したい、という視線を感じる。幸い車の到着まで猶予がある。彼女ならきっとそれまでには決断して動くだろう、という確信もあった。

 冷たい夜風が鼻をかすめて、もう一度手で顔を覆う。すると、こんな夜中に遠くで犬が吠えた。

 何かが動き出すなら今だろう、という予感がした。

「あの、よかったら一緒に来てください。」

お願いします、と頭を下げて彼女は言った。おそらく出会った瞬間からどうにか伝えようとしていた言葉を、少しだけ後回しにして口にするという選択をしたのだ。それを無意味だとかまどろっこしいだとかそう思えてしまうのは、彼女を子どもとして見てしまうからなのかもしれない。若さゆえの理由のない行動や不可解な言動だろう。

「これから帰るところなんだが…。」

やんわりと断る言葉を口にしながら、笑ってしまうほど心はそれに反している。ここまでの人生を振り返って、20代の頃には捨て去っていたはずの衝動が胸を騒がせた。何か、人生を台無しにしてしまうものに出会いたいという妄想の類い。彼女ならこの願いの行きつく先の答えを知っているかもしれないと、無自覚に自分の過去と比較しながら希望を抱いたのだ。

「長くはかかりません。」

そして彼女の声が震えていたことに気が付いた時には、もう勝手に口が動いていた。

「あまり付き合えないけど、それでもいいなら。」

出会った時から言いたかった言葉がもう我慢ならず飛び出した。一目見た時からこうなるのではないかと思い描いていた。この決まりきった平凡な日常を揺るがす君を、私は何年渇望していたのかとさえ思った。

 口に出すには抵抗がある言葉は、なるべく口にしないで生きてきたから、これからもきっとそうだろうなという確信だけが密かにある。だから、こんな寒い夜に震える彼女を心配するような言葉も、かけてあげられるけれど言わない。強い拒絶を示せばこの無知で不遜な女子高生を深く傷つけることも可能だろうと思う。そういうことを頭の片隅で想像しながら、同時に明るい結末になるように助けてあげたいと願う気持ちが芽生えた。これは、彼女のことを何も知らないからこそ勝手に考えてしまうことだし、上から目線のエゴなのかもしれないし、若者風に言うならばうるさいお節介であると思う。

 到着したタクシーの助手席には自分が乗ることにした。彼女はするりと後部座席に座り、行き先を告げた後に耳打ちするように名前を名乗ってきた。増田麗子、と他人の名前のように言う。

「みんなからはレイコって。」

車が走り出してからは車内がエンジン音とラジオで満たされるなか、決して大きな声ではないのに耳に届く。雑音の中にあっても冴えわたるようなその声は、やはり聞き心地が良い。彼女とはかなりの年齢差や異性であることなど立場の違いがあるはずだが、お構いなしの気安い調子で話しかけてくる。自分の高校時代を思い出して、大人に対してこんな態度だったか?と自問する。そんな思い出もせいぜい写真数枚程度のフラッシュバックに留めて、適当に相槌を返した。

「うん。」

彼女の顔をバックミラー越しに見つめる。あちこち跳ねた傷んだ毛先、マスカラで威嚇するように強く印象付ける目元、肌に対してやっていることが水商売の女なのにまだ学生服で、それでいて倒錯的な薄ら笑いがよく似合う。生きてきた過程で決定的に何かが狂った女なのだと思うのだが、もうその本性はすっかり隠さなくなったようだ。

「好きな名前なんです、レーコ。響きがわかりやすくって。おじさんは何て呼んだらいいですか?」

ぐ、と言葉に詰まる。世間一般からは”おじさん”と言って差し支えない年齢だと痛感しているからこそ、この妙にファンキーな若者に言われるのはショックだ。この麗子が老けていく様が想像できないのは、化粧が厚くて元の顔がわからないというのもあったが、こういう激しく燃える花火のような若人は、年食う前に死んでしまうタイプの人間だと思ったからだ。

「ヤナイだよ。弓矢のヤ、に、内側の内の字でナイ。」

「ヤナイさん。」

後部座席に車窓の外から光線のように照明が差し込んだ。繁華街は明るく、ネオンが輝いて視覚的に強烈な印象を残していく。ラブホテル、ネットカフェ、無料案内所、スナック、ガールズバー、居酒屋、バー、パブ、過ぎる景色は各々の魅力を押し合い、渋滞する視覚情報に目が回る。疲れた体には毒だが、この刺激的で暴力的な光の文字列はそれだけで夜の街の顔である。ここを通って街の体内に飲み込まれていくのだ。夜明けに追い出されてしまうまで。

「矢内さん、このままお話聞いてくれますか?」

「いいけど、その前に一つ聞いていいかい。」

「はい。」

「今から行くところって、何があるの?」

刹那、目を丸くしたあどけない表情で彼女は吹き出していた。

「ついてきたときから思ったけど、矢内さん、変!」

「そう?まあ…よく言われるよ。」

「それ自分で言っちゃうの!」

肩を震わせながら右手を口元に寄せ、目を細めて口角を上げて笑う。本当に、小さな子どものような無垢な微笑みである。その顔だけ見ていれば、常に彼女の背後に付きまとう不気味な不吉さからは遠くかけ離れている。

しかし、外気に触れていた時間の長さからか、彼女の肌は青白く、瞼の上にははっきりと茶色の線を引いて、濃いチークも毒々しい。態度にしても開けっ広げで恥ずかしげもない様子が、見ていて少し恥ずかしくなるほどだ。

「このまま会場に向かいます。古着屋の裏の空き地、あそこが最近のたまり場。」

「会場?」

内容を理解する前に言葉が出てきたが、彼女もそれは承知の上だったのだろう。おもむろに取り出した携帯電話に何やら入力していた。こちらの注意が携帯電話に向いたのに気づいて、少しだけ微笑んだ。

「聞いてみてください、たぶんわかんないと思うけど。」

そうやって笑みを浮かべたまま、右手に持った端末をこちらに近づける。鳴り出したのは

「『三頭龍』じゃないか!」

思わずタクシーの車内だということも忘れ叫んでいた。あまりにも懐かしかったのもあるが、学生時代から心に残っていた音楽という意味では唯一といっていいくらいの存在だったからだ。

「むしろなんで知ってるんだ。これ流行ったの、俺の少し上くらいだぞ!?」

唾を飲み込んでみたが、冷や汗と瞬きが止まらない。かつての憧れであり、ああいう風に生きたいと強く願ったアーティストだった。ポップなアイドルかロックンローラーもどきがヒットチャートを埋め尽くしていたあの頃に、彗星のごとく現れた鬼才のラッパー集団『三頭龍』は、まさに一瞬の輝きを残してすぐに活動を休止したのだ。だからこそあまり世には知られていない、あまりにマイナーな、所謂カルト的人気の存在という認識だった。

「なんでって、それは…。」

彼女の戸惑いと、音を垂れ流す携帯電話がどこか遠くに感じる。軽いパニックに陥っている自分に驚いていた。

「だって、彼らは伝説じゃないですか。…そういうのに憧れた人が集まる、バトルの会場に行くんです。」

きらきらと輝く真っ黒な瞳に、つけまつげは余計だと思う。暑苦しくて鬱陶しい彼女の目が、今は納得できる熱量に思えた。同士、ファン、ヘッズ、どう呼ぶかもう知らないが、こんな女子高生がそうだったなんて、第一印象からは想像しようもない。

 無言で堅い握手でも交わしたくなったところで、タクシーは静かに止まった。いつの間にか目的地についていたらしい。周囲に街灯はないのに周辺が妙に明るいのは、数十人程度の人々が触っているスマートフォンの画面から漏れる光と、発煙筒の煙がちらほらと目に入るからだろう。不安がないわけではなかったが、乗りかかってしまった船だ。チャンスは逃さない。ここまで来たら行くしかない。直前に車内で聞いた好きなアーティストの歌詞を思い出して、支払いを済ませた。そのまま先に下車した彼女の後を追うように急いで降りる。

「これ、つけておいてください。」

「あ、ああ…。」

こちらを振り返った彼女が突然腕を突き出したかと思うと、紐のついたカードが握られていた。観客とイベント参加者の区別をするための証明書のようなものらしい。誰にでもわかるように特徴的な赤い丸のマークが描かれていた。手渡されたそれを首に下げて、その先の言葉を紡ごうとするもうまくいかないほどの緊張が走る。穴だらけの土管に座るフードを被った若者たちと、地面に転がる発煙筒が発火していて物事の異常さを示し、彼女はそういう世界の住人なのだと理解せざるを得ない。不良のたまり場という表現では生易しい、無秩序で無法地帯だと視覚的に訴えてくる場所だった。

「ヒーローは遅れて登場ってかあ?おうおう、遅かったなレーコ!」

変わった抑揚をつけて話しかけてくる男は、顔の半分くらいはありそうな大きいサングラスをかけ、金のネックレスを何重にも首から下げて、さらに肩よりも長い髪を一つに束ねて耳から表に流していた。白いシャツにライダースジャケット、スキニーのジーンズが痛々しい。真っ赤なバッシュに気を取られていると、肩を揺らして何かのリズムに乗りながら近づいてきた。それが生まれつきの癖なのか、それとも薬物でもやって危険な状態にでもなっているのか、初対面ではまったくわからない。発煙筒の明かりのせいで白髪か金髪かまで判別できなかったが、主張の激しい見た目をしていることは他の連中と比べても一目瞭然だった。

「怖気づいてパパでも呼んだのか?」

笑い声をあげたのは取り巻きの不良たちだった。一人ひとりスカジャンや着崩した制服などバラエティに富んだ格好をしていて、統一感の無さに驚かされる。志を共にするというわけではない、あくまでここに集まるしかなかった居場所のない子どもたちなのだと推測する。

「まあいいさ、約束は破らせねえ。お前の無傷も今日までだ。泣き喚くことになる前に、そうだな、命乞いでもすりゃあ許してやるかもな。」

すると調子よく指笛を鳴らし煽るやつも現れて、こいつの周りの不良集団のボルテージは上がっていく一方だった。

「消えな」

ただ一言、叫んでいるわけでもないのに、凛とした声が暗雲を貫く太陽光のようにまっすぐと耳に届いた。声のした方、右隣を見やれば、舌を出した女子高生が中指を立てて正面を睨み上げていた。大した度胸だと思うと同時に、噴き出しそうになるのを必死にこらえた。

「だいたい勝ってから言えよそんなの。」

場の空気を一瞬で冷凍しておいて、彼女はケラケラと笑いながら私の手を握ってきた。その手は温かく、指も手の平も妙に生々しさを感じさせる質感で、相変わらず彼女の本心がわからない。

「じゃあまたあとで!」

やっぱり役者かなにかじゃないのか、というほどの笑顔を振りまきながら彼女は走り出す。不良集団を抜け出すと、そう広くはない空き地の隅に主催者と思しきスーツ姿の大人がいた。その表現をするしかないほど、ここには子どもしかいないのだ。若々しいが間違いなく成人している男がいることに違和感を覚えるほど、ここではみんな幼い顔をしている。彼女が一言二言交わすと、どうやら手続きは終わったらしい。周りでは相変わらず子どもたちが甲高い悲鳴のような笑い声とともに写真を撮ったり手を叩いたりしている。

 周囲の状況が落ち着いたころ、彼女はこの空き地、すなわちこの場所について簡単に説明してくれた。近年失われつつあったラップバトルというものを復活させようという運動だという。こんな狭い区画ではあるが大勢の若者がSNSによって呼びかけ合い集合したのだ。徐々に輪郭が見えてきたが、全貌はまだ明らかではない。これだけの暴力的な情熱を傾けるようなものが、なぜ今また生まれようとしているのか。学校という社会から爪弾きにされた子どもたちの集いにしか見えないが、それならばその最後の居場所は、こんな空き地の隅でいいのだろうか?家庭も社会も放棄して、行き場を失って仕方なく行きつく場所がここであるのなら、なぜこんなにも至る所に火が灯っているのだろう。燻ってはいられない、燃やしたいものがあるのは私もそうだ。こんなところで終わってはいけないのだ。

 そんな動と静が不均衡なこの場所で、存在していることすら許されないような視線を多方から感じる。

「一人はやっぱ怖かったから無理にでも誰か連れてくるつもりだったけど、矢内さんでよかった。」

「…俺は何もしてないよ。さっきのだって、追い払ったのは麗子、きみ自身だ。」

「うん、わからないかもしれないけど…何もしないところがいいの!」

くすくすと笑う彼女には振り回されてばかりだ。

「あと、ここまで来てそのまま帰る人じゃないんだろうなって、なんとなくだけど。だってラップが好きで、バトルも好きなんでしょ?タクシーであんな顔するくらいなんだもん。」

鳩が豆鉄砲ってああいう表情なのかなあ、なんて彼女は暢気に言う。異様な熱気の只中にあってここだけ時の流れが遅いようだった。

「あたしから主催に言ってあるし、代わりに出ていいよ、矢内さん。参加資格はそれ!」

先ほど手渡された首元の社員証みたいなカードを指さす。うん、どういうこと?返答の言葉すら出てこなかった。まさかこの集まりにエントリーしたとでもいうつもりか?こんな未経験の一般人が?というか私に本当に資格はあるのか、こんな飛び入りで誰でも参加できるものなのか。

「それでは本日のルーキーを紹介しよう。新進気鋭の大型新人、ヤナイ!」

遠く、大声でがなり上げる司会が呼んだのは私の名前だった。我に返るために思考の淵から光の速さで帰ってきたが、時すでに遅し、いつの間にかマイクを握らされてビール瓶を入れる黄色い小箱の上に立たされていた。向かい側にはすでに対戦相手が立っており、逃げ場などいくらでもあるのにこの歓声に塞がれては、どこにも逃げられないと思った。

「さっき見かけたあのスーツ、あれおっさんだぞ…何歳くらいだ…」

「リーマンの奴なんてボーズー以来か?」

「最近もいなかったか?ほらあの…名前なんだっけ…」

観衆のざわめきがやけにクリアに聞こえる。こんなことが現実に起きていいはずがない、と顔には出さず頭の中で叫ぶ。しかし同時に、これほどの混乱こそ人生に望んでいた己が無限のアドレナリンを噴出している。

 司会者が携帯電話から流すビートを聞いた後、これから始まるラップバトルの先攻後攻をじゃんけんで決める。テレビや動画で見たことある程度のあの儀式を、今やらなければならない状況に置かれている。結婚式とか法事のマナーのようで、上手く振る舞えたか自信がない。肌を刺すような視線と緊張感から垂れる汗、べっとりとした手を開いて、ひとまずうるさい心臓を落ち着かせようと息を吸って、吐いた。数秒前の記憶すら曖昧だが、どうやらじゃんけんには勝ったらしい。相手がこちらの様子を伺っている。後攻、と小さくつぶやくと、司会者はすぐにそれを汲み取って口上を述べ始めた。

「レディーファイ!」

小さな空き地を埋め尽くす若者の熱気と、司会者が選んだ陳腐なビートに合わせてとりあえず体を揺らす。見様見真似だ。学生時代にテレビにかじりついて見ていた景色を鮮烈に思い出す。規模はずっと小さいが、あの憧れた場所に立っているのだ。浮つく己と対する相手は、かなり慣れた様子で聞き取れない単語を勢いよく繋げていく。頭を冷やさなければ、とよくよく目を凝らせば、さっき彼女に絡んでいたあの男が対面に立っていたのだった。

「バトルに出てくんじゃねえよ雑魚、俺の方がここじゃあ先輩だ」

聞き取れた言葉はたったそれだけだ。しかし、どんな罵詈雑言だろうと、彼では今の自分には届かないだろうと思った。雑魚だろうと初心者だろうと出る権利はあるし、これはルール違反ではない。お互いを対等の立場に置いた舌戦では、人生経験の差が勝負の分かれ目なのだ。

「バトル歴がなに?上いった気になってんならなぜここにいる?」

反撃を開始しろ、と強く思う。想像以上に言葉はすらすらと口から飛び出し、その場に降り注ぐようだ。痛いところを突きつけろ、考えろ、ひねり出せ。観衆に顔の知られていない自分に勝ち目があるとすれば、相手の弱点を突く、その一点しかない。

「エイ、ヨー、無名でも、名称、不明でも、関係、ねえよな!イキるガキもクズも容赦ないキル、それがヤナイ流、だからここにいる」

存在理由を示せ。俺をまだここに立たせてくれ。額に血管を浮かばせて、脳内が破裂寸前の警告のようなけたたましい音を立てている。口から吐き出される熱と言葉は、何もかもリアルで、誤魔化しようのないものだった。目の前の敵とは声量も外見も知名度もスキルも本当に何一つ敵わない。とはいえ、この歳まで生きてきた己の矜持は譲れない。

 今振り返ればなんと味気ない生き方をしてきたのだと思う。こんな刺激的で身を焦がすような場所に立ったことがあっただろうか。命のやり取りを疑似体験しているような、高揚感と焦燥感を味わいながら、人生を夢想する。幸福を感じている。この手にしたことのないギラギラとした眩しい光源は、夢とか希望とかいう類のものに違いないという確信があった。

「見せつけるスキルがまだ足んない?なら俺もっとここに生きてみたい、で、そっから這い上がって見たい!この世界に渡す愛、これがパンチライン。わかってんだろ上がれよマイメン、じゃなきゃ一昨日来やがれパイセン!」

この歳になって柄にもなくおっさんが何をしている、と自分でもそう思う。空から覗くような視点で自らを振り返った時、俺は、俺を止めようとするだろうか?平凡に生きてきたこれまでを否定するのかと、震える手で胸元を掴むだろうか。そのすべてに反吐をぶっかけて、ざまあみろと言い返してやりたかった。

 恐怖心はすっかり消え、あるのはただ目の前の相手と右手が握りこみすぎて震えているマイクだけだった。狙いすましたようにビートが消えて、静寂に包まれる。これは意図的にキメの音を抜いている音源なのだろう。観客も思わず静寂に息を飲んだ。雑音が消えたこの場所は、スローモーションの映画に取り残されたような、非現実的な世界だった。ここに立っているのは誰だ、と己に問いかける。まるで他人の夢を見ているような気分の急降下に、ただでさえ震えている足の力が抜けかけて、思わず唇を噛み締めた。そして、観衆の期待を引き寄せて今、時はゆっくりと動き出し、あのビートが再開してけたたましく鳴り出した。刹那、地の底から湧き上がるような歓声が巻き起こり、濁流となって襲いかかってくる。雄叫びとも悲鳴とも取れない、その拍手喝采に感情が追い付かず、呆気に取られたまま立ち尽くす。目頭が熱くなるが、汗だくで水分はもうないのか涙は流れず、ただどうにも胸が熱くなって左手を握りしめた。

「矢内さん!」

麗子が大声で名前を呼ぶ。だが返事もままならない。頭は発熱し、穴という穴から蒸気が出ているようだった。膝から崩れ落ちる私を支えるように抱き着いてくる彼女からは、想像よりもずっと甘くて爽やかな柔軟剤の香りがした。

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UNSTOPPABLE〜40歳公務員男性ラップバトル伝説〜 おいも @imokokko

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