第39話 女子更衣室、再び

 放課後を迎えて、女子更衣室の前にやってきた。


「先輩は、まだか……」


 それもそうだ。ホームルームは、ついさっき終わったばかりなのだから。


『とにかくっ! 放課後になったら更衣室に行くことっ! OK?』


 と言われた通りに来たものの……僕に、なにができるのだろうか……。

 姉さんが一体なにを考えているのか、それを読むのは“至難の業”と言っていい。


(うーん……)


 その後。

 誰もいない廊下でぼーっと立っていると、ふとあることを思った。

 ……よく考えたら、女子更衣室の前で待っているのは、いろいろな意味でまずいのではないか……っと。

 まあ、離れたところで待っていればいい話なのだけど。

 姉に『そこに立っていろ』と言われたのだから、しょうがない。

 もし、誰かに怪しまれたとしても、姉の名前を使えばなんとかなるだろう。

 ……でも。やっぱり、ここで立っているのは…――


「あれ、奈緒の弟くんだ~っ♪」


 すると、面識がある別の部の先輩たちが、廊下の奥から歩いてきた。


「あ、ほんとだ。どうしたの? もしかして、奈緒になにか用?」

「えっと……まあそんなところです……っ」


 姉さん……人脈が広すぎるから、たまに全く知らない人から声をかけられることがある。

 今、僕に話しかけてきた二人も、その内の人たちだ。


「ふぅ~ん。奈緒なら、さっき別のクラスに行ったから、もう少ししたら来るんじゃない?」

「あ、そうですか。わ、わかりました……っ。教えてくれてありがとうございます」

「ここで待つのは別にいいけど。覗いちゃダメだぞ~?♪」

「!? の、覗きませんよっ!!」

「あははははっ!」

「…………っ」


 完全に手のひらで遊ばれている……っ。


「じゃあねっ」

「弟くん、ばいば~いっ♪」


 と言い残して、二人は奥にある部室へと入っていった。


「…………はぁ」

「――鼻の下が伸びているぞ?」

「へっ?」


 ホッと息を吐く間もなく、声のした方に振り返ると、


「む、武藤むとう先輩……」


 仁王立ちの武藤先輩が鋭い目付きで僕を見ていた。


「待たせたか?」

「い、いえ!! 僕も今、来たところなので……。あの、鼻の下は別に伸ばしていませんけど……」

「そうか? あたしには、地面に付くほど鼻を…――」


 そう言って目が合った途端、別人のように頬を赤らめて顔を俯かせた。


「ここは目立つ……っ。だから……早く入れ……っ」

「!! お、お邪魔します……」


 うながされる形で部室に入ると、先輩は後ろ手で扉を閉めた。


 ――ガチャリ。


 ……? 今、鍵を閉めた?


「あの、先輩――」

「早く座れ」

「あ、はい……っ」


 恐る恐るベンチに腰を下ろすと、横に先輩が座った。


 えっと……そんなにピッタリくっかなくても……っ。


「………………」

「………………」


 ザァァァアアアアアアアアアアアアアアアーーーーーッッッ。


 静かな室内とは対照的に、窓から聴こえてくる猛烈な雨の音。


 そういえば、姉さん、外がどしゃ降りでグラウンドが使えないから、今日の部活は休みって言っていたっけ……。

 部室に他の人の姿がなければ、誰かが入ってくるということもない。

 要するに、絶好の場所ということか……って、こんなことを考えている場合じゃない。


 な、なにか話さないと……っ。


「きょっ、今日は……部活休みなんですね……」

「……ああぁ。本当は練習しようと思っていたんだが、あの天気じゃな……」


 窓越しに映る空を見ながら「はぁ……」と息を吐くその姿からは、いつもの元気な様子は見られなかった。


「……せ、先輩でも、休むことあるんですねっ」

「どういう意味だ?」

「あ。い、いえ、特に深い意味は……なにも……」


 てっきり、先輩のことだから、雨の日でも練習をすると思っていたのだけれど。

 水溜りができるほど荒れていたから、走れなかったのだろう。


「……ところで、奈緒から話は聞いたが、あたしに何の用だ?」

「え?」

「『え?』ってなんだ。お前があたしに話したいことがあったんじゃないのか?」

「……っ!! そ、それは……」


 もしかして、姉さん……。


『てへぺろっ♪』


 ………………。


「? どうした?」

「!! な、なんでも……」


 こうなったら、こっちから切り出すしかない……。


「実は……先輩に…――」

「この前は、すまなかったな……。あんな姿を見せちまって……」

「…………っ!!」


 急に頭を下げてきた先輩に、思わず呆気に取られてしまった。


「せ……先輩が謝ることなんて……なにもないんですよ……?」


 予想外、不意、唐突……その全ての言葉の意味が当てはまる状況が、目の前にあった。


「『任せておけ!』――と言っておきながら……。あたっ……あたしは……っ」


 先輩は手を震わせながら、スカートの裾を強く握っている。

 しわくちゃになることもいとわず……。

 どうやら、思っていた以上に……内心は深刻だったようだ……。


「…………っ」


 ――自分でもわかっている……。この……うまく言葉にできない感情が、一体なにを指しているのか……。


 ――いいところを見せられなかった自分のことが、悔しくて堪らなかったのだ。


 ――あの後のこと、正直憶えていない。なぜなら、次に目を覚ましたときには朝になっていたから。


「…………っ」


 涙がこぼれないようにギュッと目を閉じているその姿は、初めて見るもので……


(先輩……。なにか……僕にできることは……)


 …………あ。


「……先輩」

「…………なんだ?」


 と言いながら、目尻に溜まった涙を指で拭うと、ゆっくりとこっちを見た。


「えっと……実は、先輩に……言わなきゃいけないことが……あるんです……けど……」


 まだあのことを……先輩に言っていなかったんだ。


「言っていなかったこと……だと?」

「な、なんと言いますか……言い忘れていたというか……言いづらかったというか……」


 いざ言うとなると、うまく言葉が出てこなくなる……。


「? 言いたいことがあるのなら、はっきり言え」


 僕のたどたどしい口調が気になったのか、先輩はまゆをひそめた。


「実は……その……ご」

「ご?」

「…………っ」


 僕はベンチの上で正座をすると、




「っ……ごめんなさああああああああああーーーーーいっっっ!!!!!」




 そう叫びながら、深々と頭を下げた。

 背筋が伸びたきれいな正座からの土下座は、川の流れのように一切の無駄がなかった。


「……!? きゅっ、急に謝られても、こっちは訳がわからないぞ!」

「今は……このままでいさせてくださいっ!」

「いやいや、それじゃ話が進まないだろ!!」

「…………っ」

「いいから、顔を上げろ! これじゃあ、どっちが落ち込んでいるのかわからないだろ!?」

「っ……わ、わかりました……っ」


 と言われて顔を上げると、たどたどしくならないようにゆっくりと説明を始めた。


 急な腹痛に襲われてしまい、試合を見ることができなかったことを……。


「――だから……っ、そんな僕に謝ることなんて……って、先輩?」

「なんだよ……そうだったのか……っ。それならそうと……早く言ってくれよな……」


 肩に入っていた力が抜けたのか、先輩はホッと息を吐いた。


せん……ぱい……?」

「優勝して……いいところ見せて……それで……お前に……っ」


 先輩は目をパチクリすると、


「……ん? ――――…ッ!!?」


 これといった意味もなく室内を見渡した。そして、


「あ、あれぇぇ……? もしかして……聞こえていたのか……?」


 ――心の声……。


「えっと……。は、はい……っ」

「なッ……!?」


 ――このとき、あたしは思った。

 

 ――だが、待てよ……。もしかすると、今これは絶好のチャンスなのではないか……っと。


「……瑞樹っ!!」


 先輩はいきなり肩を掴んでくると、真っすぐな瞳で見つめてきた。


「あ、あたしは……お前のことが……ッ!!」


 先輩がなにかを言おうとした瞬間、ふと視線を感じて扉の方に目を向けると、




「「………………………………………………………………………………」」




「…………あ」


 扉の隙間から、誰かががこっちを覗いていた。


「? どうした?」


 ――ガチャリ。


 先輩が尋ねてきたのと同時に扉が開けられると、


「えへへっ」

「……っ!? ね、姉さん!?」


 ニヤけた顔の姉さんと、


「瑞樹……ッ!!」

「…………っ!?」


 羨ましそうに歯を食いしばる凛堂先輩が立っていた。


「は……はぁあああああーッ!? どうして、二人がそこにいるんだよ……っ!!」

「貴様ァァアアアアアーーーッ!!! 今、瑞樹になにを言おうとしていたんだッ!!」

「!? そ、そんなの、人の勝手だろ!? 邪魔すんなよ……っ!!」

「それはこっちのセリフだッ! 元はと言えば、お前が瑞樹に――」

「ッ!!? わあぁぁぁああああああああああーーーーーッ!!!!!」


 珍しく慌てている先輩の姿は、僕にとってとても新鮮だった。

 新たな一面って、こういうときに見られるのかもしれない。

 すると、そんな先輩に追い打ちをかけると言わんばかりに、姉さんが“あの”表情を浮かべた。


「――ふふっ。いやぁ~、それにしても、まさか瑞樹が二人の試合をはしごしていたなんてねぇ~~~っ♪」


 …………あ。


「お姉ちゃん、とてもびっくり~♪」

「瑞樹ぃぃぃ~?」

「ひぃ……ッ!!?」

「覚悟しろッ!!」


 武藤先輩は素早い動きで僕の後ろに回ると、右腕で首をギュッと絞めてきた。


「……っ!? せっ、先輩……!?」

「よくもあたしに黙ってあいつのところに行ったなぁ~~~?」

「先輩……っ、ちょっ……っ」


 苦しい以前に、顔に……大きくて柔らかいものが当たって……っ。


 すると、その反応が面白かったのか、空いていた左手で僕の髪をワシワシと撫で回し始めた。


「うりうりうり~~~っ!!!」

「せ、先輩……っ」

「ん? なんだ、急におとなしくなりやがって……」

「あっ……当たって……います……っ」

「なにがだ?」

「む……胸が……っ」

「はぁ? …………ッ!!?」


 自分の胸が顔に当たっていることに気づくと、慌てて自分の胸を抱きしめた。

 その顔は赤く染まっていて、僕は思わず見惚れてしまった……。


「……んッ!?  ……んんッ!?」


 凛堂先輩は激しい首振りで僕たちを交互に見ると、


「ぐぬぬぬ……おいっ、瑞樹! お前というヤツは……ッ!! この筋肉女なんかの胸にデレデレしやがって……ッ!!」

「え、ええぇ……」

「『この筋肉女』とはなんだっ!」

「つばさは焼きもちを焼いているんだよ♪」

「凛堂先輩が……焼きもち?」


 …………まさか、ねぇ。


「お前、焼きもち焼いていたのかw」

「だ、断じて違う!」

「へぇー。そう言っている割には、また汗がダラダラ――」

「……っ!! き、貴様ァアアアアアーッ!!!」

「やんのかぁ? ああん?」

「いいだろうっ! やってやる!! だが、次に目が覚めたとき、お前がいるのは……」


 も、もしかして……この流れは……。


「――――…ベッドの上、だがなッ!!!」

「ファイト!」


 姉さんによる試合開始の合図とともに始まったのは、つかみ合いからの取っ組み合い。


「先輩たち……」


 横でその様子を見ている姉さんはというと、


「そこだ~っ! もっとやれ~っ♪」


 まるでプロレス観戦のような盛り上がりだった。

 ……行ったことがないからわからないけど。


「お前には負けんっ!」

「貴様に負ける気など毛頭もうとうないッ!」

「そこだーっ! いけぇーーーっ!!」

「………………」


 一人、置いて行かれているような気がするけど。まあ、いいかっ。


「「ぐぬぬぬぬ……ッ!!!!!」」




 それからしばらくの間、二人のつばり合いは続いたのだった。

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