第37話 先輩……

 その後。

 別の試合を見終わったところで、ちょうどお昼の時間を迎えた。


「瑞樹は、昼食、どうするんだ?」

「お昼なら外で食べますけど」

「そ、そうなのか……」

「? なにか困ったことでも?」

「いや、その……。い、一緒にどうかなと思っていたんだが、しょうがないな」


 とは言っても、しょんぼりと落ち込んでいるのは明らかだった。

 時間があったら、サンドイッチでも作って差し入れでもと思っていたのだけど。

 今日に関しては、そこまで頭が回らなかった。


「……せ、先輩は、お弁当ですか?」

「ああ、そうだ。確か、母親が『牛肉のガパオライス』と言っていた気がする」

「へぇー。挽肉を使うんじゃないんですね」

「そういえば、体には牛肉がいいとも言っていたが。そうなのか?」

「もちろんですっ。骨や筋肉を強くしてくれますからね」


 ピロリンッ。


「ん? あっ。すまない、チームメイトからだ」


 ――その内容は、昼食も兼ねて午後の試合に向けてのミーティングをするから、今すぐ集合とのことだった。


「――というわけだから、ワタシはそろそろ行くぞ」


 ――ミーティングめぇぇえええええーーーっ!!!!!




 それから、近くのファーストフード店で食べてから午後に備えようと考えていたのだけど……。

 

(ゆ、ゆっくりしすぎたーーーーーッ!!!)


 僕は、敷地内の通路を全速力で駆け抜けていた。


「ハァ……ッ、ハァ……ッ」


 さっきも似たような光景を見た気がする。

 これが所謂、『デジャブ』というものなのか。


(うーん……って、今はそんなことをのんびりと考えている場合じゃなかったんだ……ッ!)


 お昼時ということもあり、注文するまでに待たされ、席を確保するのにも時間がかかってしまったのだ。

 挙句の果てには、席に着いた途端に気が抜けてしまった。


(また、やってしまった……)


 この後は、武藤先輩が出場している女子百メートルの決勝。

 万が一、これを見逃そうものなら……週末明けに『地獄』が待っていることだろう。


(それだけは……っ。い、急げぇぇぇえええええーーーーーッッッ!!!!!)


 食べたものを戻さないように気を付けつつ、全速力で向かっていると、




「――やばぁぁぁあああああああああああああああーーーいっ!!!」




 ……んん?


 突然、聴こえてきた声の方に振り返ると、


「遅刻だあああああああああああああああーーーッッッ!!!!!」


 ショートボブの金髪を揺らしながら、女の子がどんどん近づいてきた。


(速っ……!?)


 と心の中で呟いている間に、その声の主が隣に並んだ。


「おっ。キミも急いでいる感じ~?」

「え、まぁ……」


(だ、誰……っ?)


 身長は僕より若干低いが、身軽だからなのか、走る動作がとてもスムーズだった。

 まるで、雲の上をフワフワと浮きながら走っているようだ。

 学校名が入ったジャージを着ていることから、試合に出ている選手のようだけど。


「ふーん。もしかして、百メートルの決勝を見に行くとか?」

「!! そうですけど、どうしてわかったんですか?」

「わかるよ~っ。だって、今からそれに出るからさーっ♪」

「出るって……え?」

「ニヒヒィ~ッ♪」


 謎の少女が一点の曇りもない無邪気な笑顔を浮かべていると、会場の前に到着した。

 並走したこともあって、なんとかギリギリ間に合った。

 気のせいかもしれないが、いつもより早く走れた気がする。

 それとも、武藤先輩との早朝ランニングのおかげかな……。


「じゃ、わたしはこっちだから。バイバーイっ!」


 と言って、謎の少女は手を振りながら中に入っていった。


「ば……バイバイ……」


 つい反射的に手を振っていると、


(……あ。そういえば、名前を聞かなかったなー。まあ、こっちも教えていなかったし、いいか。……って、急がないと!)




 瑞樹が到着した頃――。


 あたしはベンチに座って、一人、集中力を高めていた。


(ふっ。いいな……)


 控え室に漂う……このピリピリとした空気……。

 小規模の大会とはいえ、決勝の雰囲気は何度味わっても飽きない。

 スタートラインに立てば、目の前に広がるのは真っ直ぐな一本の道だけ。

 合図とともにスタートし、ゴールを目指す。

 実にシンプルな競技だ。だが、シンプルだからこそ、奥が深いとも言える。


(あいつが見に来ているんだ……っ。絶対に優勝して、いいところを見せるぞ……っ!!)


 そして、あいつに…………よーーーーーしっ!

 

 靴ひもを固く結び直し、一足先に控え室を出ようとした、そのとき。


「――あわわ……っ!!」

「な、なんだ……ッ!?」


 咄嗟に足を止めると、


「はぁ……はぁ……ギリギリせーフ!」

「お……お前、危ないだろ!?」


 もし、あたしが足を止めていなかったら、危うく正面からぶつかっていたところだぞ?


 すると、派手な金髪の少女は顔の前で手を合わせると、


「あっ、ごめんねっ! 急いでいたからさっ!」


 ……ここまで軽い謝罪を、あたしは知らない。


「あ……あのな、すぐ謝ればいいってわけじゃ……はぁ、気を付けろよな?」


 なぜかはわからないが、太陽のように眩しいその笑顔を見ていたら、怒っているあたしの方が悪者のような気がして、つい許してしまった。


(どうなっているんだ……?)


 その後。

 謎の少女は控え室に入るなり、同じジャージを着た人たちにこっぴどく𠮟られていたのだった。


(しっかし、変な奴だったな……っ。まあ、いい。こっちは試合に集中だ……っ)


 本番のイメージをしながら、あたしは通路を進んだ――。




(どうして、あんなタイミングでお腹が痛くなるの……っ!!)


 僕は、またまた走っていた。というのも、なんとか会場の前に到着した後。


『うッ……急にお腹が……ッ』


 急な腹痛に襲われ、トイレに駆け込んだのが十五分前。

 そして、現在の時刻は、決勝が始まる昼の一時から三分後。

 十三時……三分……。


(もう……始まっちゃっているのかな……?)


 開始時間が遅れているかもしれない、という僅かな希望を持って、急いで観客席に向かったのだけど。


 百メートルの決勝は……


「お……終わってる……っ」


 トラックでは、次の種目のための準備が始まっていた。


(まずい……。もし……見ていなかったことがバレたら……)




 ――――――…え。




 電光掲示板に映し出されている順位に目を向けると、あることに引っかかった。


(あれ? 武藤先輩の名前は……?)


 他の出場した選手たちの名前は並んでいるのに、先輩の名前がなかったのだ。


(表示ミス……というわけではなさそうだけど……)


 もう一度、上から順番に見ていくと、一番下に名前が表示されていた。


(よかった……。でも……)


 その名前の横に順位が表示されていなかった。




 武藤 秋     DNF




 DNF……って確か、レース中に棄権したって意味だったような……。


 姉が陸上をしている流れで、なんとなく用語を覚えていた。


(でも、棄権? ……あの、先輩が……?)


 頭に浮かんだのは、数時間前の――


『ああっ、任せておけ!』


 ………………。


(先輩……)


 と呟きながらトラックの周りを見渡すと、頭にタオルを被せて座り込んでいる選手がいた。


(あのユニフォームは……先輩が着ていたのと同じ……)


 ――秋の視線は、じっと地面に向けられていた。


 ……。

 …………。

 ………………。


 一般の人は、グラウンドに入られないため、出口の前で先輩が出てくるのを待っていると、


「びっくりしたよねーっ」

「うんうんっ」


 中から出てきた女子二人組の会話が耳に入った。


「まさか、ゴール直前で転倒するなんてねー」

「優勝候補だったし、プレッシャーがあったのかもね」


 ゴール直前で……転倒……。


(先輩……)


 それから待つこと、ニ十分。

 

「――…あ」

「………………………………………………………………………………」


 さっきと同じように、タオルを頭に被せたままの先輩が出てきたのだけど。


「せ、先輩……っ」

「………………」


 俯かせていた顔を上げると、目を逸らしながら呟いた。




「……ごめん……っ」




 そう言っているときの先輩の手は、固く握りしめられていた。


(それだけ……優勝できなかったことが悔しかったんだ……)


 姉さんの話では、今日の大会のために血のにじむような努力をしていたというのだから、悔しいに…………決まっている。


「……先輩っ! 次ですよ、次っ! まだまだこれからですっ!」

「………………」


 反応はない。……でも。


「先輩が優勝できるように、僕、ずっと応援していますから!」

「……違うんだよ」


 沈黙の後の声は、消え入りそうなほど小さく……


「……せ、先輩?」

「そういうことじゃ……ないんだよ……」

「え? それって、どういう…――」


 と尋ねようとした、次の瞬間。


 先輩は歯を食いしばりながら、涙を溜め込んだ瞳を真っすぐと僕に向けた。


「あ……あたしは、お前にッ……!!」


 そして、


「――――…くっ……ッ!!」


 突然、先輩は、その場から逃げるように走り出した。


「!!? 先輩……っ!?」




 その頃――。

 つばさは次の試合に備えて、外で軽くランニングをしていた。


「はぁ……はぁ……」


 汗で体が冷えないように、ほどよく動かすことで体を温めていたのだ。


(次が今日最後の試合だ。気合いを入れていくぞっ!)


 と、意気込んでいると、


「――先輩……っ!! 待ってください!」

「あたしのことはほっといてくれ……ッ!」


 後ろの方から、ケンカをしたカップルのような声が聴こえてきた。


(……ん? 今、瑞樹の声がしたような……それに、“あの女”の声も……)


 その場に立ち止まってバァッと振り返ると…――武藤秋が、泣きながら横を走り去っていった。


「え……んん!? 今のって……」


 もう一度振り返ると、困惑した顔で立ち尽くす瑞樹の姿があった――。






―――――第七章へと続く―――――

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