第36話 盛り上がる試合と心

「ハァ……ッ、ハァ……ッ」


 呼吸を荒くしながら、僕は外の通路を全力で駆け抜けていた。


(まずい、まずい、まずい……!!!!! 凛堂先輩に怒られる……ッ!!)


 試合開始の時刻である十時をとっくに過ぎていた。

 予選終了後。武藤むとう先輩と一緒に他の種目を見て回っている間に、つい忘れてしまったのだ。


(先輩……怒っているんだろうな……っ)


 脳内に浮かぶのは、怒りの色に染まった彼女の顔……。


『瑞樹ッ!! お前、時間に遅れるとは何事だあああああーーーっ!!!!!』

『ぐはぁっ……!』


 そして、次に目が覚めたときには――


(――ッ!!? い、急げぇぇぇえええええーーーッ!!!)


 全力ダッシュで体育館へと向かった。


 ……。

 …………。

 ………………。


 その後。


「ハァ……ッ、ハァ……ッ」


 なんとか入り口に辿り着き、スリッパに履き替えて中に入ると、




 ワァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアーーーッ!!!!!




「――――…ッ!!?」


 一瞬にして大きな歓声に包まれた。いや、飲み込まれたといった方が正しいだろう。


「……?」


 なにが起きたのかわからず、その場に立ち尽くしていると、近くの席にいた観客の会話が耳に入ってきた。


「あの子スゲェー!!!」

「次々決めるじゃねぇか!」


 その人たちの視線の先にいたのは――


「り、凛堂先輩……っ!?」


 会場の熱気と歓声に包まれた空間で、今の二人が言っていたように、先輩は次々とスパイクを決めていった。

 普通ならボールを追わないといけないはずなのだけど。


「…………っ」


 僕は手すりを掴んだまま、先輩だけを追っていた。


「凄い……っ」


 息をするのも忘れて、汗ほとばしる彼女の姿に魅了されている自分がいた。


 ――そして。


 完璧な位置から完璧なタイミングでジャンプした先輩のスパイクが見事決まり、試合は終わった。

 試合の結果は、先輩のチームのストレート勝ちだった。


 パチパチパチパチパチッ――――。


 観客席から響き渡る盛大な拍手が、試合をした選手たちに送られた。


「一人で三十点だろ? すげえええー」

「ノーマークだったわー」


 近くから聴こえてくる、数々の称賛の声。


(…………ふふっ)


 先輩が褒められていることに、なぜか自分まで嬉しくなったのだった。




 ワタシは、額の汗をタオルで拭いながら、一足先に控え室へと戻ってきた。


「ふぅ……」


 試合に勝ってホッとしたのも束の間、いい香りがするボディシートで脇や首などを拭いていく。


 瑞樹の必死のアドバイスをもらってから、体の匂いについてはさらに気をつけるようになった。

 やはり、一人の女性として、好きな相手の前では少しでも綺麗でいたい。

 それから一通り拭き終え、鏡の前に立つと、


「クソ……決まらない……っ」


 動いて崩れた髪を手櫛で整えてから、身だしなみをチェックする。

 ここまでかかった時間は、一分ジャスト。

 我ながら、好タイムと言っていいだろう。


(髪よし……っ、匂いもよし……っ。…………行くぞ!!)


 心の中で気合いを入れて控え室を出ると、早歩きで観客席に向かった。


(試合が終わって観客席を見たとき、瑞樹アイツはずっとアタシの方を見ていた……っ。それもずっと……っ)


 ……フフッ。


(あれは絶対……ワタシに魅了されていたのに違いない……ッ! そうだ、そうに決まっている……ッ!!)


 フフッ……フフフフッ……。


 試合直後でアドレナリンが出ているのか、ポジティブな言葉しか浮かんでこない。

 油断したら、ここでスキップしてしまうかもしれない。


(いや……一度、深呼吸をしよう……)


 焦りは禁物だ。焦りは、気持ちが浮ついた瞬間を常に狙っているのだから。


(吸ってぇえええー……吐いてええぇぇぇー……)


 自分でも気づかない内に強張っていた肩をリラックスさせ、手首をブラブラと揺らす。

 バレーのルール上、短時間で呼吸を整えなければならないのだが。

 どうやら、そこで鍛えられた能力が遺憾なく発揮されたらしい。


(ふうぅぅぅー……。あ、そういえば、会ったときになにを話すか決めていなかったなー)


 なにを話せばいいんだ? 試合を見た感想はどうだったか……とか?


 一度、冷静になると、いろんなことを考えてしまう。


(うむ……。こうなったら、出たとこ勝負だっ!)


 と、心の中で意気込んで観客席に来ると、


「――あっ、先輩」

「…………っ!!」


 彼は手すりから手を離すと、小走りでこっちに向かってきた。


「よ、よぉ……。来てくれたんだな……っ」

「来るに決まっているじゃないですか。先輩が誘ってくれたんですから」

「そ、そうだな……うん……っ」


 胸が……ドキドキする……。

 まずいな……。瑞樹の顔を正面から見られないぞ……っ!?


「あ、あの……」

「? そんな浮かない顔をして、どうしたんだ?」


 ……ハッ! まさか…――


「えっと……」


 に、匂うのか……?


「実は……」


 ドキッ……ドキッ……。


「く、来るのがちょっと遅れちゃって、ですね……」

「っ……んん? なに、遅れただと? それはどういうことだ?」

「!? えーっと……」


 ――言えるのなら、包み隠さず言いたいところだけど。そういうわけにもいかない。なぜなら……本当のことを言ってしまうと、また二人が喧嘩を始めてしまうのではないかと思ったからだ……。


(ど、どうすれば……)


 ――思考を巡らせた結果、瑞樹が導き出した答えは…――




「ご、ごめんなさい!! 実は…………ね、寝坊しちゃって……」




「寝坊?」


 最初はポカーンとしていたその表情が、段々と険しいものに変わっていく。


「ほ……ほほぉー? 今、“寝坊”と言ったな?」

「…………っ」


 ――やっぱり、怒ってる……!?


「……フッ。しょうがないな。今回だけだぞ?」

「!! つ、次からは気をつけます……っ」


 ――怒って……ない……?


「……『次から』ということは、つまり……また見に来てくれるということでいいんだな?」

「え? まあ、そうなりますね」

「そうか~…………フフッ」

「? 凛堂先輩?」


 ダメだ……どうしてもニヤけてしまう。


 瑞樹と一緒にいると、疲れなんて一瞬で吹っ飛ぶ。


(今からすぐに試合することになっても、余裕だなっ)


 もう毎試合、瑞樹に来てもらうしかないな。うんうんっ。


「先輩? っ…………ん?」

「――――っ!!」


 なにかを察して反射的に身構えると、瑞樹が鼻をピクピクと動かし始めた。


(も、もしかして……)


 嫌な予感が体全体を駆け巡り、まるで金縛りのように体を硬直させた。


(やはり……匂うのか……? ちゃんとタオルと香り付きのボディシートで念入りに拭いたはずなのに……)


 すうぅぅぅーっ。


(言うな……言わないでくれ……っ! お前に言われたら……ワタシ……)


 嬉しさとは対極的な不安の感情が、脳内を埋め尽くしていく――。


「ど、どうした……?」

「いえ、なんだか…――いい香りがするなと思って」




 ――――――――――――――――――――――――――――――。




 長いようで短い沈黙の後、


「え?」


 ワタシの口からポロリと声がこぼれた。

 そして状況を理解した瞬間、安堵とともに……


「いい香り、か……っ」

「先輩?」

「!? な、なんでもないっ!」


 瑞樹から逸らした顔は、この日一番の満面の笑みを浮かべていたのだった。

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