最期
とめどなく流れる涙が止まるまで、ルディは少女を抱きしめていた。
2人の頭上には、夜明けに向け白み始めた満月が浮かんでいる。
腕の中で少女が小さく身じろいだ。
ルディは腕の力を抜き、泣き腫らした少女の瞳を見つめた。
「……私を捕まえる?」
ルディをじっと見つめながら、静かに問う。彼は少し考えてから、
「君が、それを望むなら」
と答えた。
少女は予想外の答えに戸惑っているように見える。
少女が、どんな未来を望むのか。
どんな未来を見つめているのか、今はまだ、分からなかった。
「私は、君を捕まえろなんて依頼は受けていないからね。 君が自由になりたいのなら、私は何もしない」
少女は、じっと月を見据えている。
夜明けを感じさせる冷たい静寂の中、少女は静かに言った。
「ねえ、最後に一つだけ、わがままを言っても良い?」
「……君が望むなら、どんなことでも」
ルディの答えを聞いて、少女はくしゃりと顔をゆがめ、笑って見せた。 その顔は、無邪気な子供のようで。
「大人にわがままを言うなんて、いつぶりかしら!」
少女はゆっくりとルディに近づくと、肩口の傷にそっと触れた。
少女の手が、じわりと血で染まっていく。
「……華を、見たいの。あなたの華を」
こちらを見つめる少女の目が、一瞬殺意を帯びた気がして、ルディは息を呑んだ。
身体は冷え冷えとしているのに、少女の触れる傷口だけが、いやに熱い。
そんなルディの動揺を感じたのか、少女は小さく笑った。
「大丈夫。もう殺そうなんて思っていないわ!ただ─────」
路地を見つめながら、少女はつぶやく。
「ただ、華を描けるのも、これが最後だから」
少女の目には、今まで描いた華の数々が写っているように見えて。
忌々しそうに、しかしどこか懐かしむように目を細め、少女はルディに向き直った。
「だめかしら?」
そう問いかける少女の顔は、ひどく不安そうで。
ルディは小さく笑い、少女と目線を合わせるようにその場にしゃがみ込んだ。
「それなら、ちょうど良かった。私も、君が華を咲かせるところを見てみたかったんだ」
それを聞いた少女はふっとはにかみ、「ありがとう」と小さく呟いた。
そして、赤く染まった手のひらでそっと地面に触れた。 赤い線が一筋、少女の後を追いかけるように、夜明けの影に溶けていく。
そこからは、一瞬だった。
舞のように、少女は赤い花を紡いでいく。花びらが一枚一枚描かれるたび、それは命を得ていくように見えた。
血を吸い、咲いた
触れたものの命を吸い取ってしまいそうなほど、禍々しく、鋭い赤だった。
声も発せず、鼻に魅入られるルディを見、少女はふっと目を細めた。
「……最後に、この華を見れて良かった」
少女は小さく呟くと、ふわりと軽い足取りで、華の中心に降り立った。
自分の周りに広がる華を一瞥し、赤い瞳でルディを見据える。
その視線が、どうしてか怖かった。
背中が粟立つ。嫌な予感が、身体中を駆け巡る。
楽しげに見える少女の瞳が、ひどく脆く見えて。
「君は……死ぬつもりなのか」
その問いに、少女は大きく目を見開いた。しばらくそのままルディを見つめ、少女は小さく含み笑いを漏らした。
「ぜんぶ、終わらせるだけよ」
少女は悪戯っぽい笑みをこぼし、くるりと踵を返した。
ルディに背を向けたまま、少女はじっと、明けの空を見つめている。
「─────、─────」
黒髪が影のように少女を包んでいる。鮮烈な華の中心で、少女はゆっくりと、唄を口ずさんでいた。
(子守唄……?)
今、少女は何を見て、何を思っているのだろうか。赤い瞳に映るものが何かは、彼には分からない。
一つだけ分かること。それは少女の言う通り。全てが、終わりへと向かっていることだけだった。
この事件の終止符は、まもなく打たれようとしている。
終わるのは、事件だけでなく────。
唄が終わり、少女が再び、ルディの瞳を捉える。そのあまりに透き通った
少女もまた、終わるのだ、と。
少女の方に、無意識で手が伸びる。
何をしても無意味だと言うことは、薄々勘付いていた。けれど。
縋るように伸ばした手が、小さく震える。喉が締まったようで、上手<声が出ない。それでも。
「……レイラ……」
無理矢理絞り出したような、ひどく掠れた声だった。
そんな探偵の声を聞いて、少女は少し目を見開き、微笑んだ。
それは、ひどく幼い、無邪気な笑みだった。
「……最期に、あなたが名前を呼んでくれて、嬉しかったわ」
そう言って、少女は笑った。そして、一瞬も躊躇うことなく、ナイフを首に当てた。
「ありがとう」
刀身が、銀色に煌めいた。刹那、視界が爆ぜるような赤で、染まった。
少女の影がぐらりと揺らぎ、血の華の中に、落ちていく。
ナイフが地面に落ちる音が、とめどなく流れる血液が、ひどく、ゆっくりに見えて。
広がる少女の黒髪と、真っ赤な血の海を前に、ルディは苦しげに息を吐くと、その場に崩れ落ちた。
視界が歪み、自分の鼓動を嫌にはっきりと感じる。耳鳴りがするほど静かな空気の中で、ルディは声も出さず、涙を流していた。
朝日が、彼を嘲笑うかのように昇り始める。美しく、残酷な夜明けだった。
「君にも────」
苦しげな息と共に、声を吐き出す。もう二度と目覚めることがない少女の前で、ひとつ、嗚咽が漏れた。
「……夜明けを、見せてあげたかった」
そのつぶやきは、誰の耳に届く事なく消えていった。朝焼けに染まる空の下、凪いだ水面のような静けさが、延々と広がっている。
と、冷たい潮風が、彼の間を通り抜けた。彼の頬を撫でた風は、華の上で眠る少女の髪を、ふわりと舞い上げる。
その時、隠れていた少女の顔が、はっきりと見えた。
少女は、笑っていた。まるで全てから解放されたような、安らかな顔で、永遠の眠りについていた。
(嗚呼、そうか……)
空を見る。消えかかった明け星に向かい、一羽の鳥が羽ばたいていく。艶やかな黒色の鳥は、空を舞いながら。
燃えるように赤い双眸で、じっと、ルディを見据えた。
(君は、自由になれたんだね)
鳥の影が空に消えていくのを見届けると、ルディはその場を後にした。
長い長い夜が明けた、透き通る黎明の中。世間を恐怖に陥れ、同時に魅了した連続殺人鬼ロベリアは、夜の瞳の中に沈んだ。
ロベリアの冷血 如月 椎名 @noopooo
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