さっちゃんのおとうさん

中原圭一郎

さっちゃんのおとうさん

 隆春は、自分が天井付近を漂っていることに気がついた。

 畳の上に敷かれた布団のは、自分が横たわっている。

 妻の元子は、既に冷たくなった隆春の胸に突っ伏して泣いている。

 3歳になったばかりの娘のサチは、隆春の死というものをあまりよく理解できていない様子だ。

 妻との出会い、そして可愛い娘も出来た。悪くない人生を送っていた、隆春は思う。しかし工場の劣悪な労働環境により体を壊し、結局回復すること叶わず27歳で死ななければならなかったこと、そしてそれにより妻と娘を残して行かなければならないことが、ただただ辛かった。


 葬儀が終わり隆春は荼毘に付された。戻りたくても、もう体は灰になってしまった。

 元子はずっと泣いていた。

 その夜、平屋の狭い家の唯一ある部屋に敷かれた布団に、元子はサチは入って眠りにつこうとしていた。

「寂しいよ・・・おとうさんと一緒がいいよ・・・」

 隆春が仕事で遅くなる日も、サチはずっと寝る前にそう言っていたと、元子から聞かされていた。

 隆春がいる夜は、サチは黙っていても隆春の布団に入って、

「あたたかい」

 と言っていた。

 隆春が仕事で遅くなった日も、隆春が目を覚ますとサチは隆春の布団の中に入っていた。

 天井付近を浮遊し、愛する妻と娘を見下ろしながら、もう一緒に寝てやることも叶わない。

 娘は、毎日泣き続けた。

 そして泣きつかれて眠った後、決まって元子の啜り泣く声が聞こえてきた。


 工場の上司がやってきた。

 家を出て行けというのだ。

 家は社宅だった。

 元子たちに、行くあてなど無い。

 体を壊すほど会社に尽くしたのに、あまりにも非情ではないか。

 嘆いたところで、隆晴にできることは何もない。

 人形で遊んでいるサチの横で、元子は荷物の整理を始めた。

 荷物はほとんど無い。

 隆春の服は、既に米や塩に替えられていた。生きていくためには仕方がないことだ。

 元子は細い体で、鍋や位牌の入った風呂敷包みを背負い、右手で着替えの入った手提げ鞄、左手にサチの手を牽き、三和土で家を振り返る。

 か細い子でで

「あなた」

 と呟いた気がした。


 そして二人は玄関から出て行った。

 隆春は、急に体が希薄になるのを感じた。浮遊感が強くなり、天井、屋根を通り抜けてどんどん登っていく。

 この世と、そして二人との別れの時が来たのだと、理解した。

 悲しい、寂しい。

 ただ、それより二人がこれから生きていけるのか、それだけが心配だった。

 願わくば、二人が平穏な人生を送りますように、それが隆春の最後の思いだった。


 どれぐらいの時が経ったのだろうか。

 ずっと暗闇の中を漂っていた気がする。

 とてつもなく長い、長い年月だったようでもある。

 一瞬のことだったようにも思える。

 明るい。

 だが、何も見えない。

 息が苦しかった。叫び声と共に、力の限り呼吸をする。

「生まれた」

「男の子ですよ」

「元気な泣き声ですね」

 自分が抱き上げられるのを感じる。

「めぐみ、がんばったね」

 そんな声がした。

 一頻り声を上げた後、眠気が襲ってきた。


 生まれておそらくは2日ほどで退院となった。

 おそらくは、と言うのは、昼夜の感覚が全くないからだ。

 とにかく空腹が押し寄せてくる。1日に何度も泣いた気がする。

 ようやく目も見えるようになってきた。

 声はまだ出せない。

 自分が、誰かの子供として生まれたのだということはわかった。

 視力もまだ良くない。ぼんやりとしている。

 目が覚めると、知らない場所にいることに気がついた。

 そこは病院でもなく、自宅でもない。

「おばあちゃん、ひ孫を連れてきたよ。春斗って言います」

 自分の体が誰かに預けられた。

 薄目を開けてみる。

 ぼんやりした顔が浮かんだ。優しい顔だ。

「あ・・・ぃ・・・」

 言葉にならなかった。だが、今間違いなく自分は、サチ、と口にしようとしていた。

 優しい顔、皺だらけの細い目が、見開いたように見えた。

「ねえママ、今この子、おばあちゃんの名前呼ばなかった?サチって」

「やだ、めぐみったら。まだ喋れるわけないでしょ。首も据わってないのに」

 ぼんやりした優しい顔の両目から、ぽろぽろと涙がこぼれ、自分の頬に当たった。

 自分の両目からも、涙が流れた。泣き声もなく、両目から涙が溢れ続けた。


「ねえママ、本当に泊まっていって良かったの?」

「仕方ないでしょ、おばあちゃんから離そうとしたら、春斗すごい声で泣くんだもん」

「あの子、まだ3時間おきにミルクあげないといけないから、一緒に寝てると大変よ」

「きっとそれでもいいのよ。おばあちゃん、春斗を抱っこしている時、本当に幸せそうだし」

「最初に抱っこした時、涙を流して喜んでくれたしね」


「結局あの子、あのままおばあちゃんと一緒の布団で寝たんだよ」

「夜、一度も泣かなかったんだって。不思議ね」

「うん、こんなの初めて。私が抱っこした瞬間、お腹が空いたって泣き始めて、ミルク飲みながらウンチしてた」

「おばあちゃんも、ぐっすり眠れたみたい。最近寝つきが悪いって言ってたんだけどね」

「そうなんだ」

「今あの子は、何してるかしら?」

「おばあちゃんに抱っこされてるよ」

「へえ」

「おばあちゃんもなんかね、子供の頃からの昔話を、ずっとあの子に聞かせ続けているの」

「そうなの」

「わかるはずがないのに、って思ってたんだけど」

「どうしたの?」

「春斗、凄い真剣な表情で聞いてるの。時々頷いたりしているみたいで」

「まさか」

「そう思うでしょ?」


 陽の当たる縁側で、赤子を抱っこしながら、老婆は赤子に昔の話を聞かせていた。

 時折、言葉に詰まった時、驚くことに赤子は老婆に手を伸ばし、老婆が顔を近づけると、そっと頬を撫でた。

 そんな時は、決まって老婆は、大粒の涙を流すのだった。


 3ヶ月後、春斗の曽祖母サチは、天国へ旅立った。


 サチが亡くなった。

 94歳だった。

 私がこの世を去った後、元子と二人で大変な人生を送ってきたと言った。

 だが、結婚して子供も生まれ、いい人生だったとも言っていた。

 元子は、貧しいながらも必死に働き、サチを育ててくれたのだと。

 元子の話をする時、サチは言葉に詰まった。

 そんな時、私はサチの頬を撫でた。

 サチが子供の頃、泣きそうな彼女に、私がいつもやっていたことだ。 

 彼女と話がしたかった。だがそれは叶わぬ夢だった。

 私が話せるようになる前に、サチは逝ってしまった。

 私が話せるようになったら、墓参りに行きたいと言おう。

 サチと、そして元子の。

 そしてお礼を言うのだ。サチを立派に育ててくれてありがとう、と。


 火葬路の扉の向こうに消えていく棺を見ながら、めぐみは春斗を抱いていた。

「春斗。あんた、おばあちゃんが亡くなる時まで一緒に寝てもらってよかったね」

 めぐみの母が側に寄ってきた。

「めぐみも見たでしょ。亡くなった時のおばあちゃんの幸せそうな顔」

「うん」

「きっと幸せな夢でも見ながら逝ったんだね」

「うん、亡くなる前の最後の言葉」


 おとうさん、ありがとう。もう寂しくないよ

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

さっちゃんのおとうさん 中原圭一郎 @m_7changer

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ