溶けないアイス

絃琶みゆ

アイスは溶けない。

 湿っぽい匂いがした。

 それは突然のことで、口では「へー、そうなんだ」と返したけれど、実際はかなり動揺していた。

 父が珍しく仕事から早く帰宅していることが不思議だったが、たしかにそれなら納得である。僕が学校から帰ってきて、母に告げられたのは隣の家のお婆さんが亡くなったという事実だった。


 隣の家のお婆さんは、僕が小さな頃からずっと同じところに住んでいて、僕の祖母とあだ名で呼び合うほど仲が良かったように思う。

 お婆さんは僕が回覧板を渡しに行くと、必ずお菓子をくれた。特にアイスだ。昔、駄菓子屋さんをやっていたらしく、近所の人や祖母、僕の家族は彼女を『カナメヤさん』と呼んでいた。カナメヤという名の店だったのかもしれない。

 だが、お菓子をくれていたのは小学一年生のときまでだった。もっとも、僕は二年生のときに大きな病を患ったせいでしばらく入院していたから、会っていなかっただけなのだが。

 退院してからは、僕が回覧板を渡しに行くというお手伝いは祖母の役割に回されてしまっていて、彼女の店を訪れることはなかった。

 歳が上がり、多忙になった僕がカナメヤさんと会う機会は格段に減った。彼女の飼う犬・フレンチブルドッグを散歩しているときに顔をみるくらいだ。そのフレンチブルドッグも、今はもういないのだ。僕が幼い頃はたまに庭に入ってきてしまうほどやんちゃで元気な犬だったが、老いて衰弱していった。

 そしてカナメヤさん自身も、癌を患い——抗がん剤治療の甲斐もあって治ったようだが髪の毛が抜けてしまい——あまり外に出なくなった。時々祖母と井戸端会議をしているのを見かけたが、彼女はいつも帽子を深くかぶっていた。

 彼女というには年が若そうに聞こえるが、僕の祖母と歳が近かったように思う。

 思い返してみれば、十五年間も隣の家にいたというのに、僕はカナメヤさんのことを詳しく知らないことに気がついた。


 その日の朝は、父が家族の中でいちばん初めに気がついた。「カナメヤさん家に車がいっぱい停まっている」と。

 年末年始に帰省する、四人の息子がいるらしいというのは知っていた。カナメヤさんの庭に四台の自動車が停められ、祖母から聞いた話だと、それぞれ家庭を持っているらしい。

 だが、その日は年末年始ではない。ごく普通の蒸し暑い梅雨のある一日のはずだ。

 僕はその様子を、リビングの窓越しに眺めていた。四台の車。静かな家。そういえば最後にカナメヤさんに会ったのはいつだったっけ。僕は思い出そうとしたけれど、どうしても思い出すことはできなかった。

 カナメヤさんの体調が芳しくないというのは少し前から聞いていた。だからこそ、嫌な予感がしたのだ。

 数日前にも僕の友人の祖父が亡くなったと聞いた。どうしてこうも連鎖するのか。この周辺にはカナメヤさんや、祖母と同じくらいの高齢な方が住んでいる。さすがに街内で連鎖が起きても困る。

 一方で、僕の周りに、僕と同じくらいの歳の子供はいない。高校を卒業したらみんな都心に出てしまうし、わざわざこの街に移り住む変わり者もいない。

 幼少期を共にした近所の高齢住民がどんどんいなくなっていくと、いつかは僕だけが取り残されるのではないかと不安になる。十年後には、この街の住民は大きく変化していることだろう。

 ただ僕はずっとこの街にいたいと思う。幼少期のあらゆる思い出は、歳を重ねるごとに色褪せて、いつの間にか自分の中から消えてしまうだろう。

 近所の人と写真を撮ることは滅多にない。だから、僕とカナメヤさんが隣の家、以上の関係だったかは誰にも、僕ですらわからない。そもそも、数十年経った未来に、カナメヤさんなんていたっけか、くらいの気持ちになっているかもしれない。それは本当に、たとえばアイスのように、溶けていってしまうのかもしれない。

 僕は、隣の家にカナメヤさんという住人がいたということを、忘れたくないと思った。


 家族葬を終えたという話を母から聞いたときに、僕は思いきって尋ねてみた。

「カナメヤさんって本名なんていうの?」

 すると母は首を傾げて少し唸ったのちに、私もわからない、と言った。

 母がただひとつ覚えているのは、銭谷ぜにやという、この近辺では数多い苗字であったということだけだった。

 それでも、僕の中で隣の家に住むお婆さんはカナメヤさんで、カナメヤといえば彼女のことだった。

 僕の中で、カナメヤさんはまだ生きている。

 カナメヤさんは、いつまでも僕の記憶の中で、あの愛らしいフレンチブルドッグと共に和かに笑っているのである。元気だった頃のひとりの老婆と、一匹の犬が。



 さて、そんな騒動から一週間が経った。僕にとっては、僕の心と周りの雰囲気が大きく変わった一週間だと感じていた。

 午前中の学校が終わり、土曜日。あろうことか、カナメヤさんが散歩をしていた。腰を曲げ、杖をついて、帽子は深く被っていた。それは紛うことなくカナメヤさんだった。

 声をかけようか一瞬迷ったが、視えないものが視えているのだ、と自分に言い聞かせ、家の中に入った。

 そりゃあもちろん、すぐに母に知らせた。

「カナメヤさんが、散歩してるよ!」と。母は驚きもせず、それが? と訊き返してきた。

「だって、カナメヤさんこの間家族葬していたよね?」

 僕の口調は焦っていた。予想していなかった母の反応。つまりどういうことなのだ。

 母は心底不思議そうにこう言った。



「亡くなったのは、カナメヤさんの旦那さんでしょ?」



 日中の、温かな太陽の清々しい匂いがした。

 アイスは溶けない。

 これからをつくっていくために。

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