風呂上がりの触れ合い

 残りの工程を手早く済ませてシャワーから上がると、蓮は洗面台前の籐椅子に腰掛けて持参のドライヤーで髪を乾かしていた。Tシャツにハーフパンツというなんとも無難な装いをしていて、私は矢庭に後悔の念に駆られた。下唇を軽く噛みつつバスタオルを取り出して、手早く全身の水気を吸い取る。新品の下着に手を伸ばし、身に着けて、今朝タグを外したばかりの淡いベージュ色のパジャマに袖を通した。ほんのりと光沢のある高級感のある生地は、見た目以上に軽やかで通気性がよく、肌触りが心地良い。その滑らかな着心地が今はやけに皮肉に思えて仕方なかった。

 ……本当、馬鹿みたいだな。一人だけ浮かれちゃって、みっともないったらありゃしない。

 唐突にドライヤーの音が止む。鏡の方を見ていた蓮が、ふい、とこちらを振り向いて。

「着替え終わりました? 良かったら先輩の髪、私が乾かしましょうか?」

「は? 乾かすって……なんで」

「先輩が乾かし終わるの、一人でぼうっと待ってるのも暇だから」

 なんだか蓮らしくない提案だな、とは思った。でも、……断るのも野暮かなと思ったので、結局は首を縦に振る。すると蓮は、まるで安心でもするみたいに微かに頬を綻ばせて、伸びをする猫のようにしなやかな動作で立ち上がった。「じゃあここ座って下さい」と籐椅子の座席をポンポン叩く。私は言われるがままに、蓮の体温が残る籐椅子に腰掛けた。

 ドライヤーのスイッチが入る。蓮は温風を後頭部に当てると同時に、私の髪の合間に指先をすっと侵入させてきた。その異物感に、ぞくりとする。すごく、妙な感触だった。美容院とかで赤の他人にドライヤーをかけられることはある。でも、同い年くらいの女子にやってもらうのは、人生初だ。手付きが覚束ないからこそ、やけにくすぐったいっていうか、落ち着かないっていうか、ワシャワシャと頭を撫でられているような気持ちになって、恥ずかしい。

「先輩の髪色、綺麗ですよね。私、真っ黒だから憧れます。先輩みたいな、元から色素薄い人って、染めたりしたらすごく綺麗に色入りそうですよね。カラーとかやらないんですか?」

「やらないよ。不登校で染めたりしたら、なんか気取ってるみたいで痛いじゃん」

「別に、そんなこともないでしょ。普通に格好いいですよ。先輩なら、きっと似合います」

「でも私、そもそも黒髪の方が好きだから。地毛が明るいと、逆に損するもん。中学の頃、先生から黒染めしてこいって言われたこととかあって」

「は? なんですかそのクソ教師。しばきますか?」

「しばくな」

「冗談ですよ」本当かよ。「それで先輩は、こんなに綺麗な髪色をしてるのに、わざわざ黒髪にさせられちゃったんですか?」

「いや、そのときはお母さんが抗議してくれたから、染めずに済んだ。だけど、本当は染めてるんじゃないかとかクラスの一部で噂が流れたりして、嫌味言われたりとかはして」

 だからこの髪嫌いなの、とだけ言って話題を締める。しばし、ドライヤーの音だけが響いて。

「どこの土地にもいるものですね。そういう、道徳も道理も弁えない連中は」

「でも、中学生なんてそんなものじゃない? 似たりよったりだよ」

「だとしても、一番の問題は実際に加害をしたかどうかだと思います。先輩は誰かに傷つけられた。だけど先輩は、そいつらみたいに他者を無為に傷つけたりはしなかった。違いますか?」

「いや、なんで蓮が、そんなこと――」

「わかりますよ、そのくらい」

 蓮の、髪を乾かす手が止まる。鏡越しに、私の顔面を貫くような視線で、蓮は私を見据えていた。私はしばらく何も言えなくなってしまって、結局、「そう」とだけ返して口を噤んだ。

「あ、そうだ。ところで先輩って、寝るときはパジャマなんですか?」

 心臓が、ひときわ大きくドクンと跳ねた。痛いところを突かれてしまった。

 いや、その、と何度も口ごもりながら、どう答えるべきかしばらく悩んで。

「……違うよ。普段は、着古したTシャツとかで寝てる」

「あ、じゃあわざわざ買ったんだ。似合ってますよ。やっぱり先輩は、そういうシンプルな装いが様になりますね。格好いいと思います」

「え? そ、そう、かな……。それは、その、……どうも。お世辞でも、嬉しい」

「あ、ちょっと先輩、急に俯かないでくださいよ。髪、引っ張りそうになったじゃないですか」

 蓮が不満げな声で苦言を呈する。ごめん、と口先では謝りつつも、しばらくの間、顔を持ち上げることはどうしても叶わなかった。

 店の中には、柄物だったりもこもこ系のものだったりと可愛いデザインのものが沢山置いてあったけど、いつだったか蓮が、私にはシンプルな服装が似合うって言ってくれたのを選んでる最中に思い出したんだ。だから、このパジャマを選んだ。

 ……良かった。間違いじゃなかったんだ。自意識過剰は恥ずかしいけど、あの気難しい蓮が似合うと言ってくれたんだ。あながち悪い選択でもなかったかなって急に肯定的な気分になって、乾ききっていた胸中が奥の方から潤いと弾力を取り戻していくのを感じる。

「あ、ついでにもう一つ、訊いていいですか。先輩、さっきブラつけてましたけど、寝るときってつけて寝てるんですか?」

 思考が、固まる。フリーズから復帰した後、「な、何、出し抜けに」とどもりながら訊き返す。

「いや、実は以前から気になってたんですよ。他の人がどうなのかとか」

「あ、ああ、そういう……」いきなり訊ねてくるものだから挙動不審になってしまったけれど、要はあのときの私と同じ疑問を前々から募らせていた、ということらしい。

 ……着替えのとき、見られてたんだ。あ、でも脱ぐときは見られなかったから、これでチャラというかプラマイゼロというか借金完済というか、いや何だその謎方程式は。

 コホン、と咳払いをして気分を切り替えてから、蓮の疑問に素直に答える。

「普段はつけてないけど、今日は、その、……一人で寝るわけじゃないから、一応ね」

 自然体。自然体。心の中で何度も復唱してるのに、言葉は途切れ途切れになるし、声は上ずりそうになるし、頬はなんだか熱くなってる気がするしで、何もかも最悪だった。両手で顔面を覆いたい衝動に駆られるけれど、ドライヤーをやってもらっている最中だから、そうも行かない。膝の上で拳をきつく握りしめ、肩をギュッと縮こまらせて、気恥ずかしさに耐え忍ぶ。

「ああ。じゃあ一緒か。私もつけない派だから」

「……そうなんだ」

「はい。まあ今は一応、下にインナーくらい着てますけどね」

「え? あ、うん。まあ、そうだよね」

 変にホッとしている自分がいて、全力でぶん殴りたい衝動に駆られた。お前は男子中学生か。

 すると、このやり取りを最後に、蓮が急に言葉少なになった。どうしたんだろう。私が馬鹿みたいに恥ずかしがってたのは言うまでもないとして、蓮の方は割りと平然と受け答えしてたのに。今になって、照れくささが来たってわけでもないと思うんだけど。

 無口になるのが唐突なら、喋りだすのも唐突だった。蓮はドライヤーの送風を切ると同時に、あの、と短く声を発した。角張っているっていうか、喉に詰まった異物を無理やり押し出したみたいな言い方だった。話しかけてきたくせに、蓮は中々続きを語り始めない。足元に目線を落とす蓮の姿を鏡越しに観察しながら、らしくないな、と怪訝に思う。

 すると蓮が、「ごめんなさい、夢先輩」といきなり頭を下げてきた。何の前触れもない謝罪を受けて、いきなりなんだと呆気に取られる。謝られる心当たりなんてないんだけど。

 いや。まさかこいつ、私が知らないところで何かとんでもないことをやらかしていた、とか?

 瞬間、背筋にゾゾゾと悪寒が走る。温まったばかりの身体が芯から冷えていく錯覚をする。

 でも蓮からの告白は、私が想定していた空恐ろしい内容からは、かけ離れたものだった。

「今日一日、なんか変に先輩に付き纏っちゃいましたけど、迷惑でしたよね」

「ああ。なんだ、そのことか……。というか、私の髪の毛乾かすなんて言ってきたのって」

「はい。ちょっと、落ち着いて話をする時間が欲しかったから」

 ああ、なるほど。蓮って一緒に乾かしっこしましょー、ってタイプには見えないから、変だなとは思ってたんだけど、そういう事情か。

「別に、わざわざ謝らなくてもいいよ。気にしてないし、蓮なりに心配してくれたんでしょ?」

「いえ、そういうわけじゃ、なくって。……確かに、心配もありました。ついさっきまでは、自分でもそう思いこんでた。だけど……一番の理由は、嫉妬なんです」

「え? 嫉妬って、誰が、誰に」

「私が、漆原先輩にです」

 いや、それこそなんで? 対立候補である以上、ライバル意識を燃やすのは当然だけど、嫉妬する意味がわからない。その結果として、私に付き纏ってくるわけも。

「テスト最終日のとき、ノイローゼになった夢先輩を、漆原先輩が助けたんですよね。あの話を聞いたとき、私、なんだかカッとなって、漆原先輩のことが無性に許せなくなって、それできつく当たってたんですけど……でもそれって、要は単なる嫉妬ですよね。悔しかったんです。先輩が辛い目にあっているときに、私が助けてあげられなかったことが。なんだか、あの人に先輩を支える役目を、奪われたみたいに思えて。……私には、先輩しかいないのに」

「……いや。何、言ってるの。蓮は私と違って不登校じゃないんだし、友達だって沢山――」

「いると、思いましたか?」蓮が自嘲気味に口の端を吊り上げた。

 その表情は、蓮は浮かべているとは信じられないほど寂しげで、私は二の句が告げなくなる。

 そんなはずはない、ありえないって一蹴する一方で、絶望や失望に似た心持ちがせり上がってくるのを感じた。……だって、考えても見ろ。私の支持者のメイン層は一年生。そして蓮も同じく一年。あくまで応援人で、メインたる候補者は私だとしても、PCを抱えて棒立ちしている友人を見かければ声くらいかけるのが普通だと思う。だけど私はただの一度も、蓮が誰かに話しかけられるところを目撃したことは、なかった。

「解説動画とか撮ってた頃、私、少し寡黙がちになったじゃないですか。あのときも、実は嫉妬してたんです。嫉妬っていうか、いじけてた。先輩が他の一年に囲われて仲良くなっていく姿を見るのが、なんだか辛くて。先輩に必要とされなくなってるみたいで。単純な劣等感もあったのかな。人にきつく当たってばっかりで、仲良くなったりとか、できないので。……本当に、ごめんなさい。迷惑かけてしまって。今日一日、先輩にやけに付き纏ってしまったのは、その代償行為みたいなものでした」

 そんなこと、と安易な否定を口にしようとして、でもすぐに引っ込んだ。何を言うべきなのかも、どんな顔をするべきなのかも、とんと見当がつかなかった。こういうとき、気の利いた台詞の一つや二つパッと口にすることができない自分自身が情けなくって、嫌になる。

「――はい! これで懺悔タイム終了! 陰気な話題はこれでおしまいです!」

 蓮がいきなり、パン! と力強く手拍子をした。さっきまでの悄然とした雰囲気が嘘だったかのように、両肩をグリグリまわして清々しい表情を浮かべだすものだから、呆気に取られた。

「はーっ、良かったぁ。ちゃんと言えて。折角の合宿なのに、先輩へのこんな不誠実を抱えたまま一緒にいたくはなかったから。言葉にして伝えたら、ものすごくスッキリしました」

「そ、そっか。それは何より、だけど」

「あ、今のことは忘却するなり弱みとして利用するなり、好きにしてもらって構いませんよ。私はただ、自分の胸中に不純なものが蟠るのが気持ち悪くて、吐き出したかっただけなので」

 その言葉はあながち、強がりというわけでもないらしかった。纏う雰囲気はいつの間にか、凛然とした、いつも通りの蓮のものへとすっかり元に戻っている。物事を引きずりがちな私とは対象的な切り替えの巧みさに、ああ、やっぱり蓮だな、と。軽く安心させられた。

 でも、ホッとしたのも束の間だった。蓮はいきなり、「なんか肩の力抜けちゃいました」なんて笑いながら言ってきて、背中側から抱きつくみたいに、私にしなだれかかってきたのだ。

 両肩が微かに跳ねて、蓮の肩甲骨辺りに一瞬触れる。反射的に身を縮こまらせて、無意識に呼吸を止める。蓮は構わず、私に体重を預けてだらりともたれかかってくる。

 やめて、と突き放そうかとも思った。だけど蓮がやけに穏やかな面持ちで、まるで気を許した野良猫のような雰囲気で、左肩に顎を乗せてくるものだから、そうする気も失せてしまう。

 夜を煮詰めて溶かしたような深い漆黒の前髪が、私の頬をサラサラと掠めていく。風呂上がりだからか、もう何度も嗅いでいるあの爽やかなミントの香りが、いつになく主張してくる。

 ……っていうか。今から言っても後の祭りでしかないんだけど、折角、髪の毛を乾かしてもらえるんなら、シャンプーやトリートメントをちゃんと持参するんだったな。匂いとか、サラサラ感とか、絶対いつもより微妙に仕上がってると思う。

 遅すぎる後悔に駆られつつ、胸の鼓動が蓮に伝わらないことだけを、ひたすら祈った。

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