見るなよ、馬鹿
午後四時になったところで、漆原の用意してくれた機材と蓮のノートPCを持って、講堂へと移動した。当日、私はウェブカメラ越しに会場の様子を見ながら、いつも通りオンラインで演説をすることになる。映像プロジェクターを使って講堂のスクリーンに流したり、動作確認や音量と画角の調節、ちょっとしたリハーサルなんかをやっているうちに、一時間が経過した。片付けも含めるとかかった時間は一時間半強だった。
機材を入れたダンボールを抱えて講堂を出る。夕焼けというにはまだ早いけど、太陽は既に傾いていた。目に痛いセピア色の反射光が、網膜をじりじりと焼いてくる。漆原と比良は出払っているようだったので、言われた通り、機材はダンボールごと部屋の前に置いておいた。スマホで短く御礼の言葉も送っておいた。
その後は大人しく部屋に籠もって、蓮と二人でゲームに興じた。下校時刻近くになったところで、蓮がオンライン演説をやるかどうか確認してきたけれど、私は首を横に振った。蓮も強要するつもりはなかったのか、そうですかと言っただけで話は終わった。競合相手である漆原もその頃には部屋にいて、取り立てて選挙活動をしているわけでもないみたいだったし。
切りが良いところでゲームを中断し、昼に買い込んだ食料と蓮の持参したお菓子でお腹を満たした。食べ終わる頃には時刻は七時半を回るか回らないかといったところで、シャワールームの予約時間に差し掛かっていた。着替えとタオル、シャンプーなどの諸々の用具を携えて、私たちは一階へと移動した。
漆原と比良、その応援人の二人がシャワールームから出てきたところに、ばったりと出くわした。軽く挨拶はしたけれど、あっちの四人は比良を中心に雑談が盛り上がっている最中だったので、話しかけられるようなことはなかった。ただ、私としては漆原の様子が気になった。すれ違いざまに顔色をちらちら窺ってしまう。視線を感じ立ったのか、漆原は一人だけ足を止めて、「何?」と踵を返して訊いてきた。
「あ、いや、その……二組一緒に入ってたんだなって、思って」
「まあね。別々に使って、シャワールーム専有する時間が長くなるのも、無駄だから」
薄手のパジャマに身を包み、お風呂上がりだからか頬が全体的に上気していて、血色が良い。声の調子からも冷然としたものは感じられない。さっきのはただの勘違いだったのだろうか。
「じゃ、私は行くから。どうぞごゆっくり」
「あ、待って」反射的に声をかけていた。事前に確認しておきたいことが、一つだけあったから。「どうしたの?」と漆原が振り返る。私もちらりと後方を確認する。
蓮は、シャワールームの入り口で立ち止まり、私の様子を窺っていた。
「……あー、ごめん蓮。ちょっと漆原と話があるから、先に入ってて」
「いえ、待ってます。言いましたよね? 合宿の間中は先輩から離れないって」
「でも、さっき私にオンライン演説するか訊いてきたじゃん」
「それは、そうですけど……。私には、ここで先輩を待つ権利がありますから。それを侵害する権利は、先輩にはないはずです」
「侵害する権利はなくとも、話の内容を聞かれない権利があると思うんだけど」
「なんか先輩、ここのところ口答えが多――口先が達者になってきてません? ……はぁ。わかりました。じゃあ譲歩します。耳塞いでおきますから、密談なり談合なりお好きにどうぞ」
嫌味じみたことを口にしながら、不機嫌そうに両耳を塞いで見せる蓮。
それにしても蓮って、漆原に対してやけに当たりが強くない? 最大のライバルの上に確執もあるわけだし、当然と言えば当然かもしれないけれど、少し違和感が残るっていうか。
まあ、いいや。これ以上、蓮の機嫌を損なう前に、さっさと話を終わらせよう。
「あのさ。……シャワールームのシャワーって、どんな感じだった?」
「どんなって、何が?」
「浴槽はあるのかとか、個室みたいになってるのかとか、そういうことを訊いてるんだけど」
「残念だけど、湯船はないわ。右手の壁と左手の壁に、それぞれ五つずつシャワーが並んでるだけ。隣り合ったシャワーとの間には板が設置されてはいるけど、扉とかカーテンはついてないから、個室にはなってない。……で、それがどうかしたの?」
「ああいや、別に。ちょっと気になっただけだから、他意はなくって」
「気になったって、すぐに実物を目のあたりにすることになるのに?」
淡々と、詰問するかの調子で質問を投げかけてくる漆原。なんだ、やけに食い下がってくるな。重要な話題ってわけでもないのに。答えに窮していると、痺れを切らした蓮が大股でこちらに歩み寄ってきた。「先輩!」と吐き捨てるように言って、私の右腕をガシッとわし掴んでくる。バチン、と。電気回路がショートするみたいな熱を錯覚して、肩が大きくビクついた。
「こんなのと話し込んでる暇があったら、さっさとシャワー行きますよ! ぼさっとしてると浴びる時間なくなっちゃうじゃないですか!」
「わ、わかった、わかったから。自分で歩くから、一旦離して。……全く、強引なんだから」
ひとまず漆原にお礼を言おうと振り返る。が、漆原は既に踵を返していた。ガラス戸から差し込む西日で逆光となっていて、人形のシルエットが朧げに、陽炎のように揺れていた。
「ああ、そういうこと。――くだらな」
呟かれた言葉を受けて、反射的に足が止まった。振り向くも漆原の姿は既になく、薄橙に染められた廊下がのっぺりと展開しているだけだった。
「ち、ちょっと、先輩。いきなり立ち止まらないでくださいよ……!」
急制動をかけた私を、蓮が再びぐいぐいと引っ張っていく。なんとなく気がかりだけど……聞き間違い、だったのかな。ひとまずそう結論付けて、シャワールームに足を踏み入れる。
上履きを脱ぐ折になって、蓮はようやく私の手首を解放した。靴を脱ぐや否や、すたこらさっさと脱衣所に移動して、躊躇う素振りもなしに制服を脱ぎ始める。私も上履きを脱ぎ、自分のと一緒に蓮の上履きの向きを揃えてから中に入った。
人の着替えなんてジロジロ見るものでもないし、顔をきつく俯けながら移動する。蓮の真横に陣取るのは気が引けたので、離れた場所のロッカーを使うことにした。私がちんたらしている間に着替えを終えてしまった蓮が、「先に行ってますから」とだけ言い残してシャワールームの中へと消えていく。
ついさっき、朝のそばにいる宣言を盾に取ったばかりのくせして、やけにあっさり私のことを一人にしてくる。やっぱり、漆原相手に意地を張ってるだけなのかな。わからないけど。
漫然とそんなことを考えながら、服を脱ぐ。真新しいブラのホックに手をかけたところで、そういや結局見られなかったな、と遅れて気づく。……いや別に見せたかったとかそういうわけじゃないし、むしろ見られずに済むのならその方が気が楽でいいのだけれど、一時間近く悩みに悩んで決死の覚悟で購入した身としては、無駄な苦悩と煩悶を味わわされた気にもなる。
我ながらすこぶる面倒くさい性格をしてると思う。なんか、自己嫌悪で頭痛くなってきた。
「……ま、何だっていいか。私もさっさと入ろう。汗、気持ち悪いし」
多少緊張しながらも、えいやとガラス戸を引き開ける。蒸した空気が全身の肌をむわりと撫ぜる。くぐもったシャワーの音がタイル張りの室内に飽和するみたいに、くぐもって反響している。蓮は左手中央のシャワーを使用していて、お湯で全身を洗い流している最中だった。その隣……に行くのは、やっぱりなんだか憚られ、右側中央のシャワーの前に陣取った。蛇口を回して、熱いお湯を全身に浴びる。身体と頭皮に染み付いた汗や皮脂汚れを流していく。
入浴の間、蓮は別段私に話しかけてくることもなかった。最初に髪を洗う派らしく、シャンプーを手に取ると濡れた長い黒髪の合間に指を入れ、わしゃわしゃと頭皮を擦り始めた。蓮の髪の毛は腰ほどまである。髪質もしっかりしていて、量も多い方だ。その上、今日は汗もたっぷりかいていているわけだから、尚の事大変そうだった。
しばらくしてシャンプーを洗い流すと、蓮は両手で挟み込むようにして髪の毛の水気をざっと払った。トリートメントを手に取って、髪全体に馴染ませる。それが終わると、今度はヘアゴムで髪の毛をくくり始めた。耳の上当たりでお団子状に纏める。今まで髪で隠れていた、薄っすらと背骨の浮き出る背中が、顕になった。
……前々から思っていたけど、蓮は全体的に華奢な体つきをしている。ウエストも、お尻も、脚も、細くて余分な肉みたいなものがあまりない。運動部でもなければ少食というわけでもないのに、この細さとは。生まれつき脂肪がつきにくい体質なのかな。
蓮が石鹸を手に取った。泡立てて、腕から順々に体全体を洗っていく。白色の泡に包まれていく様は、清らかな純白のドレスに身を包んでいくかのようで、蓮の指先が身体の至る所を撫で回していく様はどこか艶美で、可憐で、その動作に見飽きることは終始なかった。
しばらくお湯を全身に浴びた後、今度は洗顔をし始めた。それも終わると、蓮がヘアゴムを取ってお団子を解いた。瞬間、水気を吸った黒色の長髪が、バサリと落ちる。蓮はトリートメントを洗い流すと、最後にもう一度全身にお湯を浴びた後、きゅっとシャワーを止めて。
「じゃ、お先に失礼しますけど……って、先輩? まだ髪の毛洗ってる途中なんですか?」
「え? あ、うん。……ちょっと、汗でベタベタだったから、念入りにと思って」
「ふぅん。結構、綺麗好きなんですね、先輩って。私、髪とか乾かしとくので、ごゆっくり」
引き戸の開く音。閉まる音。蓮がシャワールームから出ていったのを恐る恐る確認した後。
ゴン、と。壁に頭を打ち付けた。思いの外衝撃が強くって、ふらりと後ろによろめいた。
ふぅ、と大きく息を吐き出してから、ガシャガシャと乱暴に、かきむしるように頭髪を洗浄していく。強く、強く、頭蓋の中の脳細胞さえ漂白せんとばかりに強く、頭皮を指先で擦り付けてく。流すときも、わざとお湯ではなく冷水を使って、頭を冷やそうと試みた。
「……何を見てるんだよ、お前は」
最後にもう一度、今度は軽く、力なく寄り掛かるかのように、頭を壁にコツンと当てた。
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