不穏な視線

 雲ひとつない蒼穹。ギラつく日差しと、昇る陽炎。青々と茂る芝に靴を乗せると、草の匂いがツンと鼻の奥を刺す。風はなく、初夏の熱を湛えた外気だけが私達の間に音もなく横たわる。

 ああ。今日は、またとない野球日和だ――なんてことを格好良く嘯けるほど、私には詩心もなければ暑さへの耐性もなかった。普通に暑い。クソ暑い。こんなことなら蓮の持参した野球盤でお茶を濁しておくんだったと、少しばかり後悔した。

 野球しようという提案に、蓮は最初、気乗りしない様子だった。虚を突かれたかのように、え、と目を見開いて、なんだか落ち着かない様子でなぜ野球なのかと訊いてきた。そんなの蓮が誘ってきたからに決まってるでしょと答えて、私の方こそなぜ野球だったのか理由を知りたいと質問に質問で返したら、蓮は困り顔で黙りこくってしまった。

 理由こそ教えてくれなかったものの、最終的には首を縦に振ってくれた。蓮の荷物にあのときの野球道具一式は含まれていないようだったので、体育倉庫からボールとバットとグローブ二つをこっそりと拝借し、少し行った先にある市民公園まで赴いた。平日の昼過ぎだから公園内のグラウンドに他の利用者の姿はなくて、貸切状態となっていた。

 焼くというよりもはや刺し貫くような強度の日光を全身に浴びながら、十メートル先の蓮とバット片手に対峙する。

「じゃ、投げますよー。……あー、あっつ」

 投手である蓮からして、既に相当だるそうだった。

 しかし、なんだ。いくら暑いからって、そうも脱力感満載な顔をされてはこっちまで興醒めするようでたまらない。心の奥底でずっと引っかかっていたものを、この機会に消化してやろうと意気込んでいたっていうのに。こうなったら一発ホームランでも打って焚き付けてやろうかな。蓮のことだ。どうせ、打たれたら負けん気が発動してやる気を出すに決まってる。

 そんな計算を。頭の中でカチカチと実行していた、その刹那。

 ――ぶん、と。白色をした光の筋が、凄まじい速度で膝のあたりを掠めていった。

 軌道上で遅れて土煙が舞う。奥のコンクリート壁に反射して、ぽんぽんと跳ねながら投手の下へと帰っていく白球を、私は愕然と見送ることしかできなかった。

「ワンストライク、でいいですかね」

 呆然自失とする私を他所に、蓮はおもむろにボールを拾う。右手で握ると、お前それスカートでやる体勢じゃないだろと言ってやりたくなるほど豪快に、大きく足を振りかぶった。

 蓮の右腕が、虚空に緩やかな円弧を描く。放たれた白球の残像が、直線を描き出す。ボールは背後のコンクリートに豪快にぶち当たり、跳ね返り、蓮の下へと自動的に帰還する。

「これでツーストライクですね。どうしたんですか? 自分で誘っておきながら見逃し三振なんて、格好がつかないと思いますけど?」

 露骨に煽ってきやがった。しかし私は、蓮の射出する予想外の剛速球に手も足も出ず、見す見す三つ目のストライクを奪われることしか出来なかった。戻ってきたボールを拾うと、蓮は期待外れだと言わんばかりに、ふうっと手のひらに息を吹きかけた。「交代ですね」と口にして、だらだらと歩み寄ってくる。「あ、うん」私は半ば悟ったような心持ちになりながら、機械的にバットとボールを交換した。ピッチャーマウンドへ移動しようと、足を前に出す。

「嘘つき」ぼそり、と。背中で蓮が小声で恨み言を呟いた。「え?」と振り返って訊き返すと。

「なんでもないです。いいからさっさと投げて下さいよ。初球で打ち取ってやりますから」

 ふい、と不機嫌そうに顔を背けて、しっしと手で追い払ってくる蓮。何なんだ? と胡乱に思いながらも、気を取り直してマウンドに立ち、精一杯ボールを投げる。

 そのとき、意外なことが起こった。なんと、蓮が宣言した通りの展開に陥ることはなかったのだ。私の秘めたる投球センスが開花して、大番狂わせの消える魔球を放ったからだ。嘘だ。

「ワンボールですね。……あの。もうキャッチボールに変更しませんか」

 ころころころ、と足元に転がってきたボールをバットの先で止めながら、蓮が言う。

「そうしよう」ぶんぶんと、首がもげんばかりに頷いた。

 というわけで予定は変更。野球からキャッチボールへと種目を切り替えた私達である。だがしかし、私の投球センスは凄まじかった。あまりにも堂に入りすぎていた。飛距離はよく見積もっても七メートル程度しかなく、二回に一回の割合で明後日の方向に暴投をする始末だった。

 ……こんなはずじゃ、なかったんだけどな。最後にキャッチボールをした記憶があるのは中一だけど、そのときはまともに投げられていた記憶がある。約一年、体育の授業を一切受けていないせいなのかな。自主的に運動したりもしてないし、運動神経が劣化しまくっているのかもしれない。複雑な心境だった。何事であれ、出来ていたことが出来なくなるというのは。自分の身体が、知らぬ間に錆びついていっているように感じられて。

 午後三時を回った辺りで、私たちはキャッチボールを切り上げて帰路についた。その頃には私も蓮も制服が汗でびしょ濡れになっていて、相当気持ち悪かった。

 野球道具を元の場所に片付けた後、私たちは真っ直ぐに宿泊棟へと戻った。

 シャワーの使用は予約制となっているので、まだ汗を流すことは叶わない。しかし、蓮が持ち込んだ夥しい量の荷物の中に、汗拭きシートと消臭スプレーが入っているとのことだった。ひとまずはそれで凌ぐことにした。

 二階への階段を登っているところで、漆原にばったり出くわした。汗だくな私達の様子を見て、漆原は訝しげな顔つきになる。

「あなたたち、なんでそんなに汗だくなわけ?」

「野球して……ああいや、キャッチボール、してたから」

「まともにキャッチできた回数なんて、たかが知れてますけどね」

 蓮が皮肉げに吐き捨てる。私は返す言葉もなかった。非当事者である漆原には今一つ話が見えないのか、「は? 野球?」と戸惑いの声を漏らし、不可解そうに眉根を寄せていた。

「だけど、結果的には良かったじゃん。私が野球下手クソで。遠くまで飛んだ打球を取りに行ったりなんかしてたら、今以上に汗だくだったと思うよ」

「どの口でほざいてるんですか? 先輩のコントロールが下手くそなせいで、落下地点まで何度も走る羽目になったのは私なんですからね? 開き直らないでくれません?」

「そ、それは……、さっき奢ったスポドリでチャラということに」

「なるわけないでしょう。明日、ペナルティで広場十周してもらいますから」

「え、それは流石に酷くない……⁉ だって私、ちゃんと蓮に言ったじゃん。暴投したときは私がボール取りに行くから、蓮はスルーしていいよって。なのに蓮、そんなの私のプライドと野球魂が許しませんとかムキになって大口叩いて、落下地点まで全力疾走してナイスセーブ連発してたじゃん。そりゃ、疲れるに決まってるって」

「でも先輩は私がナイスセーブしたおかげで、走る距離を抑えられたわけじゃないですか。だったら、そのぶんの埋め合わせをしてみせるのが、誠意ってものじゃないんですか?」

 私たちが軽口というか憎まれ口の応酬をしていると、漆原が矢庭に口を開いた。

「要するに、遊びに行ってたってわけ?」

「まあね。リハーサルまで時間があったから、ちょっと公園まで行ってきて」

「……ふぅん、そう」

「というか、今更だけど漆原の方も結構汗かいてない? 部屋、冷房つけてないの?」

「別に。色々あるのよ、こっちには。――それより、リハーサルで必要になるだろう機材、生徒会室から取ってきておいたから。使い終わったら、箱ごと私の部屋の前に置いておいて」

「あ、うん。ありが――」

「それじゃ私、急いでいるから。何かあったらスマホで連絡して」

 突っぱねるような物言いだった。振り返ることも会釈することもせず、スタスタと足音を立てながら宿泊棟の外に出ていってしまう漆原。

 しばし、呆気にとられたような心持ちで入り口のガラス戸を見つめた。

「なんか態度悪くなかったですか、あいつ」

「……そう? 気のせいじゃないかな。それより早く戻ろうよ。さっさと汗拭きたいし」

 とは言ったものの、なんとなく引っかかりを覚えたのは事実だった。何か、気に触るようなこと言ったかな。それとも、ただの気のせいなのかな。或いは、本当に急いでいただけだったとか? 頭の中でぐるぐると考えを巡らせてみるけれど、答えが出てくる気配はなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る