野球しようぜ
――とまあ、ちょっとしたいざこざがありつつも、合宿一日目がスタートしたわけである。
私たちは気を取り直して、直前演説の原稿を手直しする作業に入った。プリントアウトした原稿を二人で覗きこみながら、気になる箇所に赤ペンで線を引き、訂正を加えていく。あらかた改稿が終わったところで、今度は読み上げる練習をする。その間、蓮は自分の応援演説の原稿の直しをやっていた。応援人イコール雑用係みたいな印象がついてしまっているけれど、一番の仕事はこれだった。
私はいつもの調子で原稿を音読しながら、真剣な眼差しで紙面を睨む蓮の姿を観察する。私を焚き付けた張本人であるとは言え、蓮にはあまりに沢山の仕事を背負わせてしまっている。それについては、ちょっと申し訳なくもあるし、素直にありがたくもあった。
ところで蓮は、有言実行初志貫徹を体現したような類まれなる傑物である。「先輩から四六時中離れません」という宣言通り、本当に私につかず離れずだった。コバンザメのようにいついかなるときもひっついてきた。そこにはただ一つの例外もなく、それは即ち、お手洗いに用を足しに行くときも同行するということだった。
「――いや、流石にこれはおかしいでしょ⁉ 聞こえるじゃん! 何がとは言わないけど!」
「んなこと知りませんよ。音姫使うなり大声で歌うなりすればいいじゃないですか。つか、個室の中でぎゃあぎゃあ喚くのやめて下さい。外まで聞こえますよ、恥ずかしい」
私の抗議に聞く耳持たず、断固として個室前から動こうとしない蓮。時々刻々と強烈になってくる尿意と戦いながら、私は粘り強く交渉を続けた。結果、トイレの出入り口で監視してもらう、という妥協案に落ち着かせることが出来た。本当に妥協か?
多種多様なトラブルに見舞われはしつつも、午前の時間は概ね緩やかに過ぎていく。
互いに集中力もそぞろになって、やることにも概ねかたがついたところで、そろそろお昼でも食べようかという流れになった。宿泊棟にはキッチンもあるけれど、私も蓮も会得済み料理スキルの最高位は「お湯を沸かす、注ぐ、三分待つ」の三連撃だったので、大人しく近場のコンビニで食料を仕入れた。部屋の中でもっさもっさと食べながら、この後の予定を話し合う。
「正直、直前演説の練習はもう充分な気がします。討論会のときにも散々鍛錬を積みましたから、これ以上やったところで伸びしろもないかなって。私の応援演説の原稿も改稿は終わりましたし、自分で書いたものだから暗記だって出来てますし。他にやっておくべきことと言ったら、リハーサルくらいですかね。機材のテストとかは、やっておかないとだから」
「講堂の予約って、何時からだっけ」
「午後四時です。それまで何をしましょうか。いつも通り、オンライン演説でもします?」
「……でも今の時間帯って、どこもまだ部活中でしょ。やったところで聞く人がいなくない?」
「とはいえ、やらないよりかはマシじゃないですか。たまには人通りもあるでしょうし」
「でも、私達って元々、今日は演説とかするつもりじゃなかったよね。……折角だしさ。たまには、二人で遊ばない? なんだかんだ、蓮とは選挙活動くらいしかしてないしさ」
「え、いや、でも――」
「だって蓮、ぶっちゃけ私と遊ぶつもりで合宿来たでしょ?」
「……ソ、ソンナコトアリマセンヨー」
目が泳ぎまくりの蓮である。なんともわかりやすい。
しかし、たとえ本心が見え透いていようとも、蓮の強情さ加減は折り紙付きだ。繰り返しになるけれど、蓮は有言実行、初志貫徹を地で行くような傑物である。目的地は感情で定めても、そこに至るまでの道程はあくまでも理性的。遊んじゃおうだなんて自堕落極まりない提案を簡単に飲んでくれるはずがなく、蓮はその後も頑なな態度を取り続けた。堂々巡りだった。
こうなっては仕方ない。あまり気は進まないけど、最近会得したばかりのあのスキルを使うしかないか。判断するや否や、自分でもうざいなと思うような口ぶりで、こう言った。
「でも、いいの? オンライン演説なんてしたら、自分の発言を曲げることになっちゃうけど。もしかして蓮は、朝令暮改を何食わぬ顔でやっちゃうような無責任な子だったのかな」
「は?」カチーン、という幻聴が蓮の頭部から鳴り響いた。どうやら食いついたらしかった。
「いくら夢先輩とは言え、今の妄言は聞き捨てなりませんね。謹厳実直が服を着て歩いていているような人格者たるこの私が、一度声に出した言葉をそう簡単に撤回するはずないでしょう」
「でも、オンライン演説なんてしたら、私と物理的に離れることになっちゃうと思うんだけど」
あ、と驚きの声を漏らす蓮。ぽかんとした面持ちが、しまったと言わんばかりの容貌へと变化して、忌々しげな顔つきを経由した後、最終的に苦笑たっぷりの面容へと収束した。
「……いや。いやいやいやいや。ち、ちょっと待ってくださいよ。それは、あまりにも揚げ足取りが過ぎません? 四六時中そばにいるっていうのは、あくまでも言葉の綾っていうか」
「だけど蓮、私がトイレに行くときにはついてきたよね。私の自尊心が傷つきかねないような範囲にまで適用される宣言なのに、オンライン演説は例外扱いなの? まさか蓮は、その場その場の都合に合わせて文意をとっかえひっかえするような、不誠実な後輩だったの?」
舌先三寸の屁理屈をこね回す。詭弁で反論を煙に巻き、極論で自分の主張を押し付ける。
私がここ数ヶ月で新しく会得した技術とは、あの手この手で相手のことを丸め込む弁論術のことだった。師匠の名は敢えて語らない。門前の小僧習わぬ経を読む、とだけ言っておく。
蓮は長考する棋士のような小難しい表情で唸りながら、沈思する。あくまで折れないつもりらしい。私は一度、小さく息を吐きだした。そして、ダメ押しするかのように、続ける。
「別にいいじゃん、遊んでも。だって私達、もう充分やることはやったでしょ」
食べ終えたおにぎりの袋をビニール袋に突っ込んで、なんとはなしに、両脚を抱く。
正直なことを言うと、私はもう選挙活動なんてしたくはなかった。人事はおおよそ尽くしたし、あとは天命を待つだけの段階に入ってもいいんじゃないかって、思ってる。今学校に来ているのは私の支持者のメイン層じゃない。支持者の多くは帰宅部か、緩い部活に所属している生徒だ。自由登校期間にバリバリ練習に励むような部に所属する生徒は、多くない。ターゲット層がずれてる以上、今ここで演説したところで効果的な票の獲得は望めないだろう。
ここまでが、理屈。つまりは後付の理論武装。そしてここからが、感情論という名の本音。
選挙活動をしたくない一番の理由は、言うまでもなくテスト最終日に叩かれた陰口だ。言われた直後は、漆原に助けられたこともあって大して引きずってもいなかった。でもそれは、まるで遅延性の毒素のように、日を追うごとに私の精神を蝕んできた。
だって私は、気づいてしまった。いや、今になってようやく気づけた。
蓮はきっと、これまでに幾度となく、行きずりの人間に悪意の礫を投げつけられてきたんだろうな、って。
PCにデフォルトでついているマイクで拾える音声なんて、たかが知れてる。画面の向こうの私には届かないけど、蓮の耳にはしっかり届いて、心にザクリと切り傷を刻んでいく。私が認知していなかっただけで、そういう状況に陥っていたことはきっと何回もあるはずだ。
本当にそうなのかって、面と向かって問いただす勇気はなかった。私は卑怯な人間だから。
けど、もうこれ以上は続けたくない。蓮本人が何と言おうとも。私の自分本意な良心が、蓮が無邪気な悪意の矛先にされているかも知れないという意識に、耐えられそうもないから。
「――わかりました。先輩がそう言うなら、そうしましょう」
ややあって、蓮は深々とため息を吐きながら頷いた。
私は、大きく胸を撫で下ろした。これでいいんだ、これで。
ひとたび方針を変えてしまえば、蓮の切り替えは早かった。
「で、何やりますか? 遊ぶものは一通り持参してますけど」
危機的状況に直面し某四次元的ポケットから焦って道具を取り出そうとする某猫型ロボットのように、リュックとトートバックの中から次から次へと娯楽用品を出していく蓮。
でも、残念。今日これから何をするかは、私達が出会った日から、決まっていることだった。
私はおもむろに立ち上がり、遊び道具を漁る蓮の背中に向かって、ただ一言こう告げた。
野球しようぜ、と。
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