お泊りの準備1

「おお……! これが噂に聞く家系ラーメンってやつですか……! あ、そうだ写真撮っとこ」

 手狭な店内のカウンター席。他の客の姿はなくて、蓮と二人きりで横並びにかけている。でも場所はいつもの喫茶店ではない。純度百パーセントの純喫茶を標榜し、コーヒー以外の飲食物は頑なに提供しないあの店で、家系ラーメンなんて代物が出てくるはずがなかった。

 駅から少し離れた地点に門を構える、ラーメン屋の店内である。蓮から電話がかかってきて、お昼ごはんがまだなら一緒に食べないかと誘われたためだった。ちなみに店を選んだのは蓮だ。どこでもいいよと答えたら、平然とラーメン屋に連れてこられた。

 他の生徒と鉢合わせないように、テスト帰りのJK集団が立ち寄らなそうな店を選んでくれたのかなとも思った。が、豚骨の香り漂うどんぶりを前にして目を爛々と輝かせている様子を見るに、自分が食べたかっただけらしい。いやまあ、別に私は構わないんだけど。

「インスタにでも上げるの、それ?」

「いや、ただの記念です。私、ラーメン屋始めてなので。――あ、結構美味しい」

 スマホを乱雑にポケットに突っ込むと、蓮は早速レンゲでスープを掬って飲んだ。どうやらお気にめしたらしく、目がぱっちりと見開かれている。手早く割り箸をぱちんと割って、スープの絡んだ太麺をずるずると吸い込み始める。汁が跳ねる。びちゃびちゃ跳ねる。蓮のことだし、レンゲの上に麺とスープを乗せて小さなラーメンを作るだなんて上品なことはしないだろうなー、音立てて豪快に啜りながらスープ撒き散らすんだろうなー、と予測して、「お子様みたいでダサいから嫌です。飛ばさなきゃいいんでしょ、飛ばさなきゃ」と紙エプロンの着用をお子様じみた理屈と頑なさで渋る蓮を「私もつけるから一緒につけよ! おそろおそろ!」と普段なら絶対口にしないであろう台詞を気恥ずかしいのを我慢して言ってのけ、どうにか蓮を丸め込むことに成功した私には、ノーベル(家庭の)平和賞が与えられてしかるべきだと思う。

 それはさておき、私も蓮に倣ってずるずると麺を啜ってみる。あ、確かに美味しい。家系は食べたことがなかったけど、濃厚なのにそれほど味がくどくないから、パクパクいけちゃう。

「でも、蓮ってラーメン屋始めてなんだ。ちょっと意外かも」

「意外? なんでですか」

「蓮って一人でラーメン屋に入店するのに、臆したりするタイプには見えなかったからさ」

「ああ、別にそういう問題で行ったことなかったわけじゃ。前に住んでたところがドを百回重ねても足りないくらいのド田舎で、ラーメン屋なんて洒落た代物がなかったんですよ」

 ラーメン屋って洒落てるか? という哲学的命題はさておいて。

「そういえば、今年から引っ越してきたって言ってたっけ。どこに住んでたの?」

 何気なく訊ねた質問だった。が、蓮はずるずると吸い上げた麺を嚥下すると、一旦水で口の中をリセットしてから私の方に顔を向け、しかつめらしい顔をして「嫌です」と言い切った。

「え、嫌ってなんで」

「都会人相手に地元トークなんてしたら、未開の地出身の蛮族扱いされそうで嫌だからです」

「都会人って、そんな大袈裟な。千葉なんて単なる地方都市でしかないんだし――」

 渋面から一転。爽やかな笑顔を浮かべだす蓮。こめかみにはくっきりと血管が浮いていた。

「あーはい。いいです。もういいです。それ以上聞きたくありません。どうせあれですよね、先輩ってイ○ンモールがあるイコール田舎とか判断してる類の人間ですよね。ふざけてんですかイ○ンモール立つ土地が田舎のわけないでしょう。先輩みたいな恵まれた環境で育った人にはわからないんでしょうね本屋も服屋も映画館もろくにない真のクソ田舎のことなんて――」

「あんまりゆっくりしてると折角のラーメンが冷めるけど、いいの?」

 般若の如き形相で愚痴と嫌味を大量放出していた蓮が、急速に我に返った。忙しく麺を啜る作業に戻った。食い意地が張ってくれていて助かった、と内心で安堵した。

「でも、そんなに嫌いなの? 自分の住んでた街なのに」

「街じゃないです。村です。いや村というより集落です」

「……自分の住んでた集落なのに?」変なとこ拘るなぁ。面倒臭い。

「まあ、娯楽やお店の少なさは、ネットがあればどうとでもなる部分はあります。ただ、どうしても閉鎖的にはなりますからね。その陰湿な空気が嫌で、飛び出してきたんです」

「飛び出したって、自分の意志で家を出たってこと? 親の仕事の都合とかじゃなく?」

「はい、そうです。両親は今もまだ、あのクソ田舎にへばりついたままです。喧嘩別れでしたし、金輪際、顔を合わせるつもりはありませんけど」

「じ、じゃあ、今は一人暮らしなの?」

「いえ。元からこっちに住んでる叔母の家に厄介になってます」

 そっか、と何気なく打った相槌が、やけに穏やかな声に聞こえて、胸を撫で下ろしている自分がいるのに気づく。……母親でも姉でもないのになに保護者面してんだろ、と少しだけ自己嫌悪。でもまあ、私は先輩だから。そのくらいの心配をする権利なら、あるのかな。

 止まっていた箸を動かして、麺をするすると吸い込む作業を再開する。もぐもぐと麺を咀嚼しながら、すごい行動力だな、と改めて考える。親と喧嘩別れすることになってまで、居心地の良い環境を目指して育った土地を飛び出すなんて。それができるだけの蓮の肝の座り様に感心すべきなのが、十代前半の子供にそう決意させてしまうほどの環境を批判するべきなのか。

 昔、私のお母さんも似たようなことを言っていたっけ。お母さんは瀬戸内の島というドのつく田舎出身だ。それも、女が学を身につける必要なんてない、高校すら行く意味がわからない、なんて旧態然とした風潮が根強く残っている時代のだ。そんな慣習に嫌気が差して、大学進学を口実に半ば飛び出すようにして、関東に出てきたんだって聞く。

 今でさえお母さんのことを認めているお祖父ちゃんだけれど、当時は難色を示していたようで、学費は出してもらえなかった。最初の一年は死物狂いでバイトをし、どうにか纏まったお金を用意して、自費で通っていたのだと語っていた。文字に起こせばほんの一、二行で片付いてしまう程度の過去だけど、実際にそれを行うことがどれほど困難なことだったかは、想像に難くない。それを思うと、なんだか少し、……複雑な心境にさせられた。

「どうしたんですか? 麺、つまんだままぼーっとして。お腹一杯なら私が貰いますけど」

「え? ああいや、そういうわけじゃなくて」おい。なんで今ちょっと残念そうな顔した?

「……なんていうかさ。私って一体、何なんだろうなって、思っちゃって」

 蓮はサービスのライスを店員から受け取ると、レンゲで掬って残りのスープに浸して食べ始めた。もぐもぐと咀嚼しながら、ちらりと横目に一瞥してくる。続きを促しているらしい。

 喋るかどうか、少し迷った。とはいえ殊更に隠すことでもないし、素直に話すことにした。

「私さ、選挙の演説とかで散々、不登校の生徒は不当に虐げられている、なんて話をしてきたわけじゃん。でも世の中には、私なんかよりよっぽど大変な目にあっている人が、ごまんといるわけでしょ。それを思うと、私なんかに文句を言う資格、ないような気がしてきて」

 私は確かに、学校で嫌な思いをした。辛いことがあった。そこから逃れるために、学校へ行かなくなった。だけど私が感じた苦しみなんて、本当に困難な環境にいる人と比べたらあってないようなもので、現代社会を生きていく上では誰もが感じている程度の些末なもので、そもそも不登校なんて行為自体がただの逃避でしかなくて、待遇改善を訴えるなんてもっての外のような気がしてきたのだ。そういうことを考えだすと、私という存在がひどくちっぽけで、傲慢で、子供っぽい駄々をこねているだけなんじゃないかって感じられてきて、漠然とした惨めさに胸が覆われるのだ。

「相変わらず考えが陰湿ですね、先輩は」

 スープを飲み干した蓮が、とん、と持ち上げていたどんぶりをカウンターの上に置いた。紙ナプキンで口元を拭き、エプロンを取り外しながら、続ける。

「下を見始めたらきりがないですよ。古代人と比べたら、私達なんて皆、楽園に住んでるようなものなんですし。自分より辛い目にあっている人間がいる。その事実を認識することは、確かに大切なことだと思います。でも、だからといって自分の幸福追求権を捨てなきゃいけないなんてことは、絶対にありませんよ。大体、先輩も私も所詮は一介の高校生に過ぎないんですから。変えられる環境も助けられる人の数も、たかが知れてる。端から限界が決まってるなら、その範囲でできることをやればいい。要は、それだけの話です」

「……ん、そうだね」

 複雑な心境が完全に払拭されたわけではない。だけどこれ以上、マイナスの気持ちを引きずっていても仕方ない。意識を切り替えるように、どんぶりを両手で持って直接スープを飲んでみた。爽やかな味わいではないけれど、青臭い不安を薄めるくらいのことは、してくれた。

「あ。今更だけど、ごめんね。私だけ食べるの遅くて」

「別にいいですよ。ちょうど、私の方から話しておきたいことがあるので。――テスト返却が終わった後って、終業式まで自由登校期間に入るじゃないですか。生徒会選挙の候補者と応援人は、その時期に直前準備と選挙活動の最後の追い込みで合宿をするのが慣例らしいんです」

「合宿って、もしかして宿泊棟で? でもあそこは、大会が近い部活とかしか使えないんじゃ」

「原則はそうなんですが、生徒会選挙は例外的に使えるらしいですよ。文化祭とかだと希望者が殺到してしまうけど、選挙の場合はそうじゃありませんから」

 ああ、なるほど。候補者の数なんてたかがしれているからか。私が納得していると、「で、どうします?」と蓮が当たり前の流れで訊いてきた。「……どうします、って?」と訊き返す。勿論、その問いかけの意味がわからないほど鈍い私ではない。ただ単に、行くとも行かないともいいかねて、間を繋ぐために口にしただけの言葉だった。

「だから、私たちは合宿しますかって訊いてるわけなんですけど」

 ちら、と横目に顔色を窺ってくる蓮。私が黙っているのを見て、まあ、と前置きをして。

「無理にやるようなことでもないですけどね。準備といっても直前演説の練習くらいしかやることはないですし、登校するのも一部の物好きだけだろうから、選挙活動する意味もあまりないでしょうし。ぶっちゃけ、選挙を口実にお泊まり会をやるってだけの話だと思います」

「私は、やっても構わないよ」

「ですよね。別にいいですよ、気にしないで。練習なんて学校にいかずとも出来ますし、そもそも泊まりまでするほどのことじゃな――って、え?」

 勢いよく顔を向け、目を丸くする蓮。それを横目に、残ったスープをどんぶりごと胃の中に流し込み、ごちそうさまでした、と手を合わせる。

「……先輩。今、構わないって言いました?」

「言ったけど? 勿論、蓮がやらなくていいと思うなら、それでもいいんだけど」

 愕然とした表情で固まる蓮。私は平然と水を飲む。なんだか気分がざわついているというか、落ち着かない感じがしていた。何か動作をしてないと、話が続けられなかった。

「い、いえ。先輩がそう言うんなら、折角だしやってみてもいいかなって、思います、けど……正直、意外っていうか。一応訊いてはみるけど、断られるだろうなって考えていたので」

「自由登校期間に学校に来る人なんて、殆どいないだろうから。断る理由もないかなって」

「そう、ですか。わかりました。それなら明日、山口先生に申請をしておきますね。日程とかは決まり次第お伝えします」

 話がまとまったところで、お会計を済ませて店を出る。自転車を押して、蓮と二人で駅までの道をのんびり歩く。蓮はなんだか機嫌良さげで、合宿のときの予定をあれこれと語ってきた。ご飯はどうしましょうかとか、どうせなら夜に花火でもしませんかとか、私ゲーム機持ってきますねとか。まるで、クリスマスパーティーの計画を立てる子供のような無邪気さだった。

 弁が立つことからわかる通り、蓮は基本、合理性で動く人間だ。だけど合理的であるというのは、あくまでも目的地に至るまでの道のりにおける話だ。目的地そのものを定めるときは、あくまでも感情に従っているように見える。だからもし、蓮が合宿のことを何とも思ってないのなら、私に訊いてくることさえしなかったはずなのだ。でも、蓮はわざわざ確認を取ってきた。それはつまり、蓮の中に合宿をしたいという気持ちがあるということに他ならなくて。

 その程度の予想がつく程度には、私と蓮は付き合いを重ねていて。

 そしてその気持ちに答えたいと思う程度には、私は蓮のことを憎からず思っていて。

 構わないと答えたのは、そういう動機からのことで。単に、蓮に気を回しただけのことで。

「じゃ、詳しいこととかは明日、喫茶店で話しましょうか」

「ん、そうだね。じゃあ、また明日」

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