大番狂わせ

 そうしているうちにも時は流れて、テスト前、最後の選挙活動日となった。その日はシフトが入ってしまっていたけれど、最終日に演説ができないというのは辛い。店長に相談したところ、勤務時間中にオンライン演説する許可を貰えたので、バイト先から学校にいる蓮に通話を繋ぐことになっていた。もはや給料どころか場所代を払いたいくらいだった。

 が、事前に打ち合わせていたにも拘らず、約束の時間になっても蓮からミーティングの招待が飛んでくることはなかった。スマホで連絡してみても、既読さえつかない始末。どうしっちゃったんだろう、いっそ山口先生に電話でもして聞いてみようかとか、いやそれは流石に――、などとノートPCの前で煩悶していたところ。

 それはまるで、始まりの日のように。

 アンティークを極めすぎてオンボロと区別不能となった木扉が勢いよく開け放たれて、錆びついたベルがガラガラガラと耳障りな音を立てた。

 体を捻って後ろに向ける。熱気を孕んだ初夏の外気が、ぶわっと全面から吹き付けて――

「先輩……!」

 数秒の間、思考が止まる。世界のすべてが静止する。

 ほんのりと香り立つのは、爽やかなミントの香り。汗の匂いも混じっているのは、夏の足音が聞こえ始めた時節にも拘らず、駅から店まで全力疾走したせいだろう。

 呼吸の音が、うるさい。私のじゃない。蓮のだ。私はとうに息をするのをやめていて、蓮は心臓を落ち着けようと、半ば抱きつくように私に寄りかかりながら、店の空気を大きく吸って吐いていた。その度に、僅かに上下する胸が鎖骨の辺りに当たった。否応なしに意識させられるその異物の感触に、全身が、ゾワゾワと居心地の悪さを訴えた。

 蓮の前髪の先端が、首筋をサラサラと撫でる。そのむず痒い感触に、私は思わず唾を飲む。左右にこぼれた濡羽色の長髪の隙間からは、蓮の乳白色のうなじが覗いていて、それは綺麗で、まるで白磁器のように艶があって、滑らかそうで。

 変に見入ってしまいっている自分に気づいて、慌てて顔面を床に差し向けた。

「……ち、ちょっと、蓮。なんなの、急に……?」

「あの、ごめんなさい。でも、一刻も早く先輩に、お伝え、したくって」

 会話ができる程度には息が整ったのか、蓮が訥々と言葉を紡ぐ。私の肩を支えにして、ゆっくりと体を垂直に起こしていく。

 蓮の体温が遠ざかる。空調の風が背中を撫ぜて、それがいやに寒々しい。私は逃げるように立ち上がり、開け放したままになっていた店のドアを、ゆっくりと、丁寧に閉じた。

 急に寡黙がちになったと思いきや、何の前触れもなく抱きついてくるとか。やっぱり私は、あいつのことが嫌いだ。距離感が狂ってる。人のことをおちょくってるとしか、思えない。

 さり気なくため息を吐いてから、カウンターの方へと戻る。なにやら猛烈な勢いでスマホを操作していた蓮が、興奮冷めやらぬ面持ちで画像を見せつけてきた。何かの張り紙のようだったけど、えっと、なんて書いてあるんだ?

「実は昨日、新聞部が無作為にどの候補に入れるつもりか、百人の生徒を対象に事前アンケートを行ったそうなんですよ。そして、その結果が――」

 その先の言葉は、耳に入らなかった。もう既に、画像の文字を読んでしまっていたからだ。

 比良朝顔が九十七票、漆原静が四十票、青井夢が四十票、谷川律子が九票、棄権が十四票。

 ……私は、ゆっくりと顔を上げた。蓮と、真正面から顔を見合わせた。

 いつもは凛と鋭い双眸を、今ばかりはくりくりとまん丸に見開いている蓮。鼻息は若干荒くしながら、右手をおもむろに上へと掲げる。磁石と磁石が引き合うみたいに、私の右手も持ち上がる。そして二人同時に、右腕をゆっくりと後ろに引いて――

 バチィン……ッ! と。耳を聾する音が店内を貫いた。そして、重なり合うように。

「やりましたね先あいった……ァ⁉」

「やったじゃんれあいった……ァ⁉」

 歓喜の叫びから一転。痛みにもだえての叫び声が店内を埋める。が、私たちはあまりの痛みに軽く飛び跳ねたりしながらも、笑っていた。

「え、これマジの情報なわけ⁉ 本当に⁉ 本当に漆原と同票なわけ……⁉」

「そうですよ先輩マジなんですよこれが! なんならほっぺたつねってやりましょうか⁉」

「そうだねちょっと本気で信じられないからひと思いに――っ、いった⁉ 痛い痛い痛いストップ……! め、目覚めない⁉ じゃこれ、マジでマジでマジのマジなんだ……⁉」

「そうですよ先輩マジでマジでマジでマジでマジでマジのマジなんですよ……っ!」

 あの漆原と、順当に行けば次期副会長間違いなしだった漆原と、私は今、肩を並べているんだ。そんな奇跡があって良いのか。いや、あったんじゃない。起こしたんだ。限りなくゼロ日かかった確率を蓮が無理やり、五分にまで引っ張り上げたんだ。

 私たちはたっぷり五分、店の中で狂った兎みたいに狂喜乱舞し続けた。叫びすぎた結果、二人揃って青息吐息となった私達だったけど、体力が戻るのを待ってから蓮は再び学校へと取って返した。目的は言うまでもなく演説だ。事前アンケートの結果は、確かに素晴らしい戦果ではある。でも私達の目標は、あくまでも当選だ。事前調査は事前調査でしかないし、依然として五分の確率で負ける運命なのには変わりない。ならば、当選確率を五十一パーセントにまで引き上げるべく、努力する必要がある。

 その間、少々冷静になる。思ってもみなかった吉報に昂ぶって、やけに蓮とベタベタしてしまった。時間差でそのときの感触が蘇ってきて、ちょっとだけ死にたくなった。でも、……やっぱり嬉しかった。あんなふうに、蓮と素直に喜びを分かち合えたことが、この上なく。

 私たちは予定より一時間ほど遅れながらも、最後のオンライン演説を行った。といっても今回は、原稿を読み上げるわけでもお悩みを拝聴するわけでもなかった。事前調査の結果を受けての、お礼の挨拶みたいなものだ。

「不登校である私がこのような結果を収められたのも、ひとえに皆さんの支えのおかげです。たかが事前アンケートとは言え、こうして当選が現実味を帯びてきたのを前に、深い感動を覚えています。明日からはテスト期間です。こうして放課後の演説をするのも今日で最後になってしまいますが、選挙で私に票を入れてくださると嬉しいです」

 画面越しに頭を下げる。足を止めてくれていた生徒たちが、パチパチと拍手をしてくれた。

 バイトの終了時刻と、学校の最終下校時刻は同じだ。薄橙の海に沈む街中を、スマホを右耳に当てながらゆっくりとそぞろ歩く。通話の相手は勿論、蓮だ。学校から最寄駅までの道のりを歩いている途中だからか、時折、他の生徒たちの話し声がスピーカーに混じった。

「だけど、本当に信じられないな。こんなことって、あるんだね」

「ちょっと先輩、なにしんみりしたこと言ってるんですか。投票日はまだ先ですよ。本格的な選挙活動は終わったとは言え直前演説とかもあるんですから。まだ気を抜くのは早いです」

「偉そうな口利いてるけど、息せき切って店まで駆けつけてきたのは、どこの誰だったっけ?」

「……それを持ち出すのは、卑怯ですよ」

 蓮がいじけたように言う。唇を尖らせる蓮の横顔が脳裏に思い浮かんで、つい口元が緩む。

「絶対勝たせるとは言いましたけど、私だって不安だったんです。だからひとまず、互角の勝負ができるラインまでは連れてこられたんだってわかって、……それが、嬉しかったんです」

 そっか、と相槌を打ちながら、ゆっくりと顔を持ち上げる。

 遠くに見える高層ビルの壁面に沈みかけの太陽が反射していて、眩しかった。

「ま、そうだよね。私だって、嬉しかったよ」

 だけどね、蓮。こんなこと言ったら、怒られてしまうかもしれないけれど。

 私が何より嬉しかったのは、蓮が他の何を差し置いてまで、駆けつけてくれたことなんだ。

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