空欄補充

 ちょうど、テスト期間の一週間前に差し掛かった日のことだ。以前、私に文化祭に対する不満を語ってくれたあの一年生――吉野という名前――が、唐突にこんなことを言ってきた。

「青井先輩って、数学得意なんですよね。よかったら、過去問とか貰えませんか? ……その。わたし、部活入ってないから、先輩から過去問貰うとか、できなくて」

「過去問? ……ごめん。それ、規約に抵触するかもしれない」

「っ、ご、ごめんなさい。過去問なんて、ちょっと無理がありましたよね。というか、そんな関係でもないのに……」

「ああいや、謝らないでよ。実際、問題と言えば問題だしね。顔の広さがテストの有利不利に影響するのは、良くないと思うし。――ちょっと、私の方でも色々と考えてみるよ」

 というわけで、私は色々考えた。考えた結果、こんな策を思いついた。

「あのさ、蓮。流石に五教科全部は無理だけど、理系科目に関しては予想問題でも配布して、それの解説する動画とかを配信できたらって思うんだけど、どうかな。投票の呼びかけさえしなければ、選挙活動には当たらないだろうし」

 翌日のバイトの日。蓮と横並びになりながら、コーヒーを飲んで一服しながら切り出した。

 蓮は一瞬だけ目を縦に見開いて、いいと思いますよ、とあっさり首を縦に振ってきた。

「公開はあのサイトでいいですか? 録画とか編集とか、手伝うことあったら言って下さい」

「……あ、うん。それで大丈夫。ありがと、蓮」

「いえ、お礼には及びませんよ。私は夢先輩の応援人なんですから」

 淡々とした声だった。やけにすんなりオーケーが出た。蓮は早速、撮影の仕方とか動画編集のやり方とかをスマホで調べ始めてしまう。そうして無言になってしまう。

 何故か、気落ちしている自分がいることに気がついた。なんだか、やけに物足りない感覚がする。いや、それどころか不満に感じてさえもいる。

 だって……なんか蓮、反応薄くなかった? 冷たくない? 私にしては、すごくいいアイディアだと思ったのに。そしたら蓮も、喜んでくれる、褒めてくれるって思ってたのに。

 そこまで考えてところで、ぷっつりと思考がとまった。愕然として頭の中が真っ白に、いや白というよりバーナーで熱した金属みたいな赤一色に染め上げられて焼け切れた。

 ……馬鹿じゃないの。褒めてくれると思ってたのにって、……なに? その小学生みたいな拗ね方。私、もう高二だぞ。十六だぞ。しかも相手歳下だぞ。いくらなんでもあり得ないだろ。

 自分の下心の幼稚さが気持ち悪くて反吐が出そうで、でもなかったことにして目を背けることも出来なくて、むしろ自分が蓮に褒められたがってた、喜んでもらいたがってたって、否定しようとすればするほどはっきり自覚させられて、そんな自分が情けなくていやらしくてたまらない思いにさせられて、いっそこのまま喉を掻きむしって死んでやりたいとさえ思った。

「夢先輩? どうしたんですか、すごい勢いで顔面を手で覆って」

「え? あ、いやその……別に。なんでもないよ。ただちょっと、考え事してただけ」

「ああ、そうでしたか。それは邪魔してすみません」

 蓮がそれきり口を噤んだ。ぽちぽち、とスマホをいじる作業に戻る。

 会話が、途切れる。そのことに安堵する。……一旦、深呼吸。よし、少しは落ち着いた。落ち着いたと思ったら、今度はまた別の理由でそわそわしだす。なんだか、この状況に違和感がある。なんでだろう。ああ、わかった。無言だからか。いつもは蓮が何かと話を振ってくることが多いのに、今日は無言。いつもと違うという、ただそれだけのことなのに、沈黙が肌全体をザラザラと撫でてくるみたいに、居心地の悪い気分を味わわされる。静寂を意識させられる。

 なんで今日に限って、言葉少ななんだろう。もしかして蓮、機嫌が悪い? それとも、体の調子が悪いとか? 何か、私の方から話題を振ってみるべきだったりする? でも、どんな。

 結局、その日はこれといった会話もないまま、お互いにスマホで情報収集をしただけで終わりを告げた。

 その次のシフトの日には、蓮は解説動画の撮影についての計画を立てて来た。予想問題の作成はまだだったけど、ひとまず練習してみようということで、試験的に撮影をやってみた。そのまた次のバイトの日には早速、一本目の動画の撮影に着手した。

 言うまでもないことだけど、動画を撮っている間の蓮は無言だ。かといってオンライン演説のときに会話ができるというわけでもない。蓮は基本、物言わぬ置物でいることが常だから。私と生徒との会話に口を挟まないように、と考慮してのことだった。

 言葉を交わす機会が減っただけでなく、蓮の口数そのものも減ったように思えてならなかった。今までは何かにつけて雑談を振ってきたのに、最近ではバイト先を訊ねてきても、撮影をするか無言で編集作業に取り掛かるかのほぼ二択。手持ち無沙汰になった私も、隣で予想問題の製作に取り掛かったりなんかして、余計に会話が減る結果となってしまって。

 予想問題作りが今ひとつ捗らなくて、隣の蓮の姿を見る。やっぱり綺麗な顔してるよな、と。当然のように見入ってしまう自分がいることに気がついて、慌てて視線を正面に固定する。

 そんな折だった。編集作業中の蓮が何の前触れもなく、らしくもないことを口にしたのは。

「先輩は、すごいですよね」

「すごい? すごいって、何が」

「……人に、優しくできるところ、ですかね」

 なにそれ。いきなりなに。どういう意味なの、その言葉。

 訊きたいことはぽつぽつと、あぶくのように意識の層に浮かび上がって。だけど蓮は、じっと画面を見つめて黙りこんでしまう。その精緻な横顔は、何も訊くなと質問を拒絶しているみたいで、甲斐性のない弱い私は結局、何も口にすることができなくて。

 私と蓮の間に透明な、けれど決して踏み越えることのできなく膜が張られてしまったかのようだった。居心地が悪いというよりも、それはむしろ、寂しいという言葉で言い表されるような心境で、調子が狂う。大体、最近の私は何なんだ。蓮の口数が少ないって、そんなの別に気にすることじゃないだろ。むしろ願ったり叶ったりっていうか、元の静穏な生活が戻ってきて清々するっていうか――

 あまりにも見え透いた欺瞞に嫌気が差して、思考を止めた。

 ……認めよう。認めるしか、ない。私の中で蓮はもう、以前の自分には戻れないと言ってもいいほど、大きな存在になりつつあるんだ。だからこそ今の状況が、歯がゆくてもどかしくて物足りなくて、たまらなかった。

 選挙活動は順調なのに。支持者だって着実に増えているのに。前進しているという感覚は、全くと言っていいほどなくって。停滞し、足踏みしている感覚だけが、虚ろに募って。

 たった一人の人間に、ここまで心をめちゃくちゃにされている自分自身が、なんだか無性に腹立たしくて、殴りつけてやりたいとさえ思うことが、ままあった。

 ここのところ、私はこれまで好きで嗜んでいた、百合小説や百合漫画が読めなくなった。

 ページを捲る度、物語の主人公たちにこう囁かれているみたいで、辛かったから。

 あなた、蓮のことが――なんじゃない? って。

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