討論会1

「――先輩、こいつは武器になります」

 次のシフトの日のことだ。入店早々、お前はそれを四次元ポケットにでも格納してきたのか? と口にしたくなるほどの分厚さの紙束を、蓮はどんとカウンターの上へと置いた。

「なるほど。これだけの質量があれば角で殴れば人が死ぬ、と」

 ついにグレーゾーンからブラックへ、いやブラックというよりむしろレッドな領域へと足を踏み入れた蓮だった。流石は現代に蘇った名軍師。倫理観が戦国乱世から進化していなかった。

「そうですそうです。こいつで他の候補の頭蓋骨をかち割って――って、なわけないでしょう! 読むんですよ! 先輩と私の二人で! 討論会に使えそうな部分を探し出すんです!」

「えぇ……。こんなクソ長いの読みたくない……」

「えー、じゃないです。文句言う暇あったら、こっち来てさっさと読んで下さい。ほらほら」

 とまあこんな経緯で、蓮の用意した凄まじい質量の――物理的にも比喩的にも――資料を読み込む日々が、一週間あまり続いた。バイト中は勿論のこと、家で一人の時間や図書館での勉強に当てていた時間も資料の読み込みに費やした。休みの日には、私がサボるのではと危惧した蓮が監視のために通話を繋いできて、二人一緒に目を通したりもした。勿論、蓮が持ち込んだ資料の他にも、ネットから拾ってきたり図書館から引っ張ってきた文献を確認することもあった。蓮曰く、「討論会なんて相手を怯ませればそれで勝ちです。虚仮威しだろうがなんだろうが、大量の資料で武装しておけばまず負けません」とのことだった。資料の読み込みと並行して、「不登校の生徒の権利回復、地位向上」という恐ろしくふわっとした主張を詰めていく作業も行った。主導は蓮だったけど、細部を考える上では意外と私の体験や心境が役立った。

 政策があらかた固まったところで、蓮が討論会用の原稿の第一稿を書いてきた。適宜改稿を重ねつつ、原稿を読み上げる練習も積み上げた。効果的なプレゼン、討論のコツなどを解説した動画を参考にしつつ、蓮を相手に練習を繰り返したりもした。しまいには蓮が、「人間なんて所詮獣です。でかい声出しときゃ取り敢えずビビります」とか言い出して、店の中で発声練習をさせられたりたりもした。流石に店長に怒られた。帰り道で冷静になり、「普通に迷走してましたね」「普通に迷走してたね」なんて言って、どちらからともなく吹き出したりもした。

 穏やかな、けれど決して退屈ではない、さらさらと流れる春の小川のような、日常。

 立候補も悪いことばかりじゃなかったな、と。このときになって、ようやく思えて。

 討論会も投票日も、一生やってこなければいいのに、なんて。

 どうかしているとしか思えないような考えが、ふと、頭をよぎったりもして。

 けれど時間は輪廻することも、反転することもないのであって。

 どこまでも一方通行に、時間軸を過去から未来へ流れていって。

 故に、本番の日は当然のように、残酷なまでの平然さで、私達の前に訪れた。

 その日は朝から、直前まで原稿の読み直しを繰り返し、蓮の立案したプランを何度も確認しながら過ごした。放課後に当たる時間になると、すぐに予め立てておいたミーティングルームへと入室した。蓮はまだ入ってきていなかった。手持ち無沙汰になったので、カメラを鏡代わりにして前髪を直してみたりする。ちなみに服は制服に着替えている。討論会はあくまで学校内の活動だから、という理由もあるけれど、着る服を考えるのが面倒というのが一番の理由だ。

 程なくして入室者が現れた。が、カメラに映っていたのは蓮ではなかった。

「あ、繋がった。見えてる? というか、聞こえてる?」

「は、はい、見えてるし聞こえてますけど……あの。どうして、比良さんが?」

 画面の向こう側にいるのは比良だった。蓮の姿は見えない。背景からして、比良がいるのが討論会の会場となる教室なのは間違いないと思うんだけど。

「今、羽賀ちゃんのPCに生徒会室にあったカメラとモニターを繋げてるんだけど、さっきまでそのセッティングやってたの。その間、羽賀ちゃんは新聞部の会場設営の手伝いに回っちゃったから、あたしが流れで音声とか映像のテストも引き受けたって流れ」

「つまり、生徒会で色々と動いてくれたってことですか? ……ありがとうございます」

「いいんだよ。あたしは現役の生徒会なんだから、このくらいやらなくちゃ。あ、それから今更だけど、さん付けも敬語もなしでいいからね? もちろん静に――漆原に対しても。まあ、そっちのほうが落ち着くっていうんなら、それでもいいけど」

「……ん、じゃあ、お言葉に甘えて。とにかくありがとう、比良」

 舌が猛烈な違和感を訴える。名前については内心で呼び捨てにしてたからこの方が座りはいいんだけれど、話し方についてはですます調のままの方が落ち着いた。でも折角の申し出を無碍にするのも悪いし、言われた通りにしておいた。そのうち慣れてくるだろうし。

「本番中は、青井からの映像はPC脇のモニターに出力して、こっちからの映像は候補者全員が映るようにして流すから、そのつもりでいて。音声についても、発言者は必ずマイクを通すようにしてもらう。それで、今からマイクの確認とかカメラ位置の調整とかをしたいんだけど、付き合ってもらってもいいかな? ごめんね、直前に」

 PCとカメラ片手に、ちょこちょこと教室内を歩く比良。それに合わせて映る場所が変わり、蓮や漆原、谷川――四人目の候補の名前――に加え、三人の応援員や、新聞部の部員と思しき人たちの姿がようやく見えた。漆川と谷川は部屋の隅でスマホを見ているけれど、SNSやネットサーフィンに興じているといったふうではない。原稿なりメモ書きなりの確認をしているのだろう。椅子を動かしたり機材をセッティングしたりして会場設営をしているのは、新聞部のメンバーだろう。蓮もその中に加わっていた。

「でも、いいの? こんなことして。比良も、準備とかしたいんじゃ」

「お気遣いどうも。けど、あたしは大丈夫だから、気を使ってくれなくていいよ。備品持ってきたのはあたしなんだし、あたしがやるのが一番いいでしょ」

 嫌味のない口調で比良が答える。私は多少の落ち着かなさを覚えながらも、淡々とセッティングに付き合った。

 比良が生徒会役員に就任したのは去年の二学期。私が不登校になったのも、昨年度の二学期だった。だから私は、比良の仕事ぶりを直接的には知らない。でも、山口先生からの話なんかでその名声は聞き及んでいた。

 成績優秀、スポーツ万能、何事にも秀でた高スペック――というわけでもない。勉強も運動もできる方なのに変わりはないけど、ずば抜けているという程ではない。にも拘らず、比良があの蓮をして、次の生徒会長はまずあの人で決まりでしょうね、と言わしめるのには、それなりの理由があった。

 比良は、この高校の何でも屋、有り体に言えば正義のヒーローのような存在だった。東に壊れた備品あれば行って修理してやり、西に人手不足の部活あれば行って助っ人に入ってやり、といったふうに。私が一学期の頃から、校内の厄介事を立ち所に解決しては去っていく神様のような一年がいる、なんて噂が校内に流れていた。今思えば、あれが比良だったのだろう。

 生徒会役員という肩書を手にした瞬間、その気質にますます拍車がかかった。文化祭でも体育祭でも、裏方において八面六臂の大活躍。実行委員や各部の部長なんかは、最低一度は比良に窮地を救われた過去があり、誰一人として頭が上がらないと聞く。こうして関わりを持ってみても、そのイメージにはヒビ一つはいらない。むしろ、ますます強固なものになるくらい。

 爪先から骨の髄まで、善性だけをかき集めたような、正義の味方。

 それが、比良という人物の本質なのだろう。

 フィクションに登場しがちな高嶺の花的な生徒会長に近いのは、むしろ漆原の方だった。お嬢様じみた見目に、お高く止まった高慢な振る舞い。成績は常に一桁をキープしているみたいだし、如何にもといった感じのプロフィールだ。

 討論会の準備は十五分ほどで整った。座席は、漢数字の二を九十度ひっくり返したような形状に配置されている。短い側に比良と漆原が、長い側に谷川と私の姿を移したモニター、それから蓮がかけている。司会進行の新聞部員は、中央奥にぽつりと置かれた席に腰を下ろしている。脇に佇んでいるのは、マイクの受け渡しなどを担当する補佐役だろうか。

 唐突に、映像が蓮のノートPCからのものに切り替わる。今日始めて蓮と一対一という状況になり、張り詰めていた精神が少し、ほぐれる。

「三分後に開始だそうです。お手洗いとか行きたかったら、今のうちにお願いしますね」

「三分でトイレって地味にギリギリじゃない? ま、別に行きたくないからいいけどさ」

「ああ。それ、私も思いました。――それより先輩、大丈夫ですか? 緊張とか、してます?」

「少ししてたけど、今は割りと平気かも。蓮の顔、見たからかな」

 半ば無意識に恥ずかしい台詞が口から出ていた。何言ってるんだ私、と時間差で羞恥心に襲われる。が、しかし。

「……そう、ですか。それは何より、です」

 不意打ちを食らった蓮が私以上に照れ臭そうにしているものだから、私は逆に冷静になった。

 思わず、ふっ、と吹き出す。同時に、あるアイディアが唐突に脳裏に浮かぶ。

「ちょっと。いきなりこっ恥ずかしいこと言ってきたと思ったら、今度はなに急に黙り込んでるんですか? 緊張で頭おかしくなりました?」

「なってないよ。ただ、思いついたことがあってさ」

「思いついたこと、ですか?」

「うん。実は――」時間もないことだし、端的に概要を伝える。「できる?」と訊ねると。

「それはまあ、何の問題もなく可能ですけど……これはこれで恥ずかしくないですか?」

「でも、そっちの方が慣れてるから。よく言うでしょ? 本番は練習のようにって」

「わかりました。先輩がそう言うなら、やってみます。けど、本番中にいきなり笑いだしたりしないで下さいよ?」

「大丈夫、大丈夫。普通に緊張してるんだから。吹き出したりなんかするわけないでしょ」

「ならいいんですけどね。じゃ、あと一分もないので、映像とか音声出力とか元に戻しますね」

 健闘を祈りますと言ったきり、カメラが三人称視点に戻った。程なくして中央奥の司会役の生徒が討論会の開始を告げた。緩んでいた精神が、再びキュッと引き結ばれる。とはいえ、がちがちになるというほどではなかった。緊迫感はあっても切迫感はない。図ってのことかどうかはわからないけど、一対一で話す時間を取ってくれた蓮に感謝する。

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