待て、それは軍師の罠だ

 さて。そんなこんなで、波乱万丈の選挙活動をスタートさせた私達ではあるものの。

「――別にしばらくは、何もしなくていいですよ」

 翌週の月曜日。今のところポスター以外にはこれといった活動もしていないので、どうするのと訊ねてみたところ、返ってきた反応がこれだった。盛大な肩透かしを食ってぽかんとする私に対し、蓮は指先でスマホをいじりながら近況報告などし始めた。

「ところで、ポスターに関して一つ報告することが。先輩に言われて音声を削除したのが、いい方向に転んでくれたんですよね。元々、限りなく黒に近いグレーだったこともあって、裏で校長に激怒されたとか、漆原先輩から賄賂が送られたとか、憶測が憶測を呼んで根も葉もないうわさが飛び交っている状況で、話題性に一役買ってるんです。これは嬉しい誤算でしたね」

 ……私、この学校の生徒からどんな目で見られてるんだろうなぁ。

「あと、こっちは私の策略通りなんですけど、実は最近SNSで――」

「っ、ま、待って蓮! 見たくない! 私絶っ対見たくない! エゴサとかしたら一瞬でメンタル病んで寝込むタイプだから! 意地でも死んでも見ないから!」

「別にビビらなくて大丈夫ですよ、そういうのは見せませんから」

「……見せないってことは、なくはないってこと?」

「ノーコメントです。それより、さっさと手どかして下さい。邪魔です」

 顔面を覆った手のひらの隙間から、突きつけられたスマホの画面を恐る恐る確認する。確かに、誹謗中傷の類は書き込まれていないようだった。それどころか、選挙とは関連のないツイートが殆どだった。ただ特殊なのは、そのどれもが「これは明らかに~である」という書き出しで始まって、「断固抗議する」というフレーズで結ばれている点だった。

「あれ。もしかして、この構文って――」

「お察しの通り、あのサイトで使っている定型句です。校内でちょっとした流行りになってくれたみたいですね。駄目で元々当たればラッキーくらいのノリだったんですが、意外と嵌ったみたいで。青井構文、って呼ばれてるみたいですけど」

「……いや。これ考えたの私じゃないんだけど」

 わざとらしく唇をと在らせながら、ふい、と顔を右に背けた。私が目を覆っている隙に、蓮の身体がこちら側に傾いてきていたからだ。

 いつもはカウンター越しに腰掛けている私達だけど、今は横に並んで座っている。さっき二人で選挙関連の書類の確認をしていたのだけれど、蓮が横から一緒に見たほうが早いからと言ってきて、こうなった。

 いつもと違う並びでの会話に、言いようのない落ち着かなさを抱かされる。ちょっとした瞬間に肩が触れ合いそうになるし、髪の毛から例のミント系の香りがふわりと漂ってきたりするし、あとは……こいつの横顔がやけに様になっていて、目のやり場に困ったりするし。

 今になって気が付いたのだけど、蓮は正面から見る顔も整っているけれど、それ以上に横顔の形が秀麗だった。スッと緩やかに反り上がった睫毛とか、額から鼻、唇、顎にかけての輪郭のシャープさとか。美形というか、麗しいというか、絵になるというか。まるで綺麗な工芸品や美術品にじっと魅入ってしまうみたいに、蓮の横顔を眺めてしまっている自分がいて、それに気づく度に何だが複雑な心持ちにさせられて、落ち着かない。

 コホン、と咳払いをして空気を変えて、話題の転換を試みる。

「だけど、本当にいいの? この期に及んで何もしなくて。あのサイトだけだと反逆者ってイメージは与えられても、ただ相手の発言に噛みついてるだけって印象を持たれないかな」

「仰るとおりです。今のところ大抵の生徒は、先輩のことを色物としか思ってません」

「駄目じゃん」と私が返すと、「駄目ですね」と蓮は返した。そして続けた。

「でも、今はまだ派手な動きを見せるときじゃありません。第一の正念場は、討論会です」

「討論会? なにそれ」

「なにそれって、説明会で話が――って、そっか。先輩、音聞こえてなかったんだっけ。説明すると、各候補が一堂に会してそれぞれの主張をぶつけ合うという催しで、まあ、要は至って普通の討論会です。そこでの発言は文章に起こされて、後日、新聞部が号外として発行するみたいです。説明会の資料に明記されていなかったのは、あくまで主催が新聞部だからですね」

「へぇ、そんな行事があったんだ。知らなかった」

「一応、去年も開催されていたはずなんですが……ま、一般生徒の選挙への興味なんてそんなものですよね。とはいえ、今年度は違います。他ならぬ先輩が出ますから。謎多き反逆者でしかなかった先輩がついに公の場に姿を晒すわけですから、ある程度の関心は集まるはずです」

「でも、わざわざ号外を読む生徒なんて、少数派じゃない?」

「充分ですよ。注目してくれる生徒が数名いれば、そこを起点に噂が広まってくれますし」

 ああ、それは確かに。得心が言って頷くと、とにかく、と蓮が話の筋を元に戻した。

「討論会で理路整然とした主張をぶち上げて、他の候補からの質問や反論も華麗に言い負かしてやれば、先輩もちゃんとした候補の一人なんだって、認識を塗り替えられるはずです。現段階で目立った活動をしないのは、そのための布石ですね。イメージの転換は劇的であればあるほど、効力を発揮しますから。ちなみに他の候補に油断させるという意味合いもありますし、討論会の準備に専念する時間的余裕ができるというメリットもついてます」

 一石三鳥ですねー、と平然と言ってのける蓮を前に、私は内心で舌を巻く。相変わらずの計算高さだ。蓮って、戦国時代とかに生まれていたら、凄腕の軍師として活躍していたんじゃなかろうか。異世界転生とかしたら、余裕で天下取っちゃいそう。

「なるほどね。作戦は大体わかった。で、その討論会はいつなわけ?」

「今からちょうど二週間後の、月曜の放課後です。あ、言うまでもなく先輩はオンライン参加なので、ご心配はなく」

「ん、わかってる。……でも、討論。討論かぁ」

 考えるまでもなく蓮のほうが向いてるのは、わかっている。だけどあのとき豪語したように、候補者はあくまで私。役割を変わってもらうことなんて出来ないし、蓮が軍師である以上、実働は私が担当するのが筋というものだった。

 下剋上を目指す反逆者として売り出そうとしている以上、私は蓮のように毅然とした口調と態度で、自らの主張を朗々と読み上げる必要がある。質問や反駁にだって怯んじゃいけない。だけど、本当にそんな事ができるのだろうか。特に漆原。あの人は確実に、私に突っかかってくるだろうし。

「大丈夫ですよ、そんなに心配しなくても」

 ばちり、と。指先に電撃が跳ねたような、熱い衝撃が迸る。

 蓮が、私の左手を唐突に両手で取ってきた。反射的に引っ込めようとして、でも、堪えた。

 以前のような一瞬の指先の触れ合いとも違う、長々とした肌と肌の接触。元々体温が低いのか、蓮の手はひんやりしている。撫でるでもなく握るでもなく、私の手のひらを包み込むようにしながら、持ち上げてくる蓮。

 私は、他人に自分の身体に触れられるのが、あまり得意じゃない。体育の授業とかで、どうしても相手の身体に触れたり触れられたりしなければならない場面があったりしたけど、私はあれがとても苦手だった。

 だというのに、どうしてか。今、こうして蓮に左手を包まれているというのに、それほどの抵抗は感じなかった。違和感はある。でも、嫌悪はない。そのことに内心、ひどく戸惑う。

「心配せずとも大丈夫です。言ったでしょう? 私が先輩を勝たせるって。原稿を作って練習すれば、どうとでもなりますよ。まだ二週間ありますし、二人で一緒に瑕疵のない政策を練りましょう。他の候補者が、悔しそうな顔で黙り込むしかなくなるような」

「う、うん。そう、だね。……ありがとう、蓮」

「それに、画面越しならカンペ読み放題ですから。万が一、原稿が飛んでも安心ですね」

 屈託なく笑う蓮に対して、私は曖昧に首を縦に振る。それから、少しだけ。

 握るように右手に力を入れて、手のひらの輪郭をなぞるようにして、意識して。

 ……ああ。安心しているんだって、ふと気づく。

 あのとき、自分の意見を言えたのだって、きっとそう。今更、蓮が自分から離れることはないって、見限られることはないって、私は何処かで信じてた。だから、口に出せたんだ。

 いつの間に、こんなにも心の深いところにまで、侵入されてたんだろう、と。

 自分の不用心さに困惑しながら、でも、否定する気にもなれなくて。

 異物感のある感情を、どうすることもできずに、胸の中で持て余す。

 そうして考えたのは、ただ一つ。

 蓮の期待を裏切るようなことだけはしたくないな、と。

 ただ、それだけのことだった。

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