煙草の匂いと楯突いた代償と
説明会の次の日。私は当たり前のように蓮に届出を手渡され、当たり前のように名前を書いて、当たり前のように我が校初の不登校の選挙候補者となった。
そして金曜日の午後、いつものように山口先生に課題のプリントを出しに行ったところ、当たり前のように例の件について絡まれた。
「聞いたよ。説明会のとき、漆原相手に威勢よく啖呵切ったらしいじゃん。やるねぇ」
生徒が真横にいるというのに、先生の右手には火のついた煙草がつままれている。フリーの左手は下腹部に添えていて、先生は前傾姿勢になりながらクックック、と笑いを漏らしている。
見るからに愉快そうだった。見るだけで不愉快だった。
「どこで聞いたんですか、その話」
「そう訊いてくるってことは、事実で間違いないってことね」
「教師のくせして、生徒にかまかけないでくださいよ」
「これも教育の一貫だよ。この世の中はままならないの。迂闊な言動をするとすぐに足元すくわれるって、身をもって教えてあげてるの」
ああ言えばこう言うを体現したような大人だなと、ほとほと呆れる。一体、何故こんな人間に教員免許が与えられているというのか。日本の教育終わってんな、と暗澹たる気分になった。こんなふうにして日本の若者は一人、また一人とこの国の未来に対する明るい展望を失っていくのだろう。午後の陽光に照らされて朧気に霞む街を見やりながら、しみじみ思った。
「大学生で一人暮らしし始めたときなんか、すごい大変だったんだからね? 新聞勧誘にNHK、謎のセールスに新興宗教、その他諸々エトセトラが、うじゃうじゃ寄ってくるんだから」
「山口先生、昔語りは年寄りの始まりですよ」
「な、何をぅ⁉ 三十路が差し迫ってきた女に対して、なんたる暴言……!」
「さっきの仕返しです。というか、私の質問に答えて下さい」
「質問って、ああ、さっきの? どこでも何もないよ。学校中の噂になってるんだからさ」
「……そんなに広まってるんですか、あのときの小競り合い」
そりゃあもう、と山口先生はコクコク頷く。私はガクガク震えそうになる。
「生徒会選挙は未だかつてない盛り上がりようだよ。職員室も昨日から選挙の話題で持ちきりでさ。喧々諤々っていうか、ちょっとした派閥争いさえ発生してる感じ。おかげで職員室にいるとストレスがマッハでさぁ。ついつい煙草の消費量も増えちゃって、困ってる。あ、勿論、注目してるのは教師陣だけじゃないよ。新聞部の部長さんが、生徒会選挙の特集号がここまで低いゴミ箱直行率を叩き出すのは異例だって言ってた。これがそのブツなんだけどね」
ポケットから小さく折りたたんだ新聞を取り出す先生。広げて確認してみると、各候補者の名前および顔写真、簡単なプロフィールと数行のコメントなんかが載っていた。しかし私の欄は所属クラスと氏名が書かれているだけで、顔写真の欄さえ空白だった。不登校なせいで、掲載の許可を取ったりコメントを求めたりができなかったからだろうか。
「こんな空欄ばかりのものの、どこが面白いんですか」
「だからこそでしょ。漆原に楯突く謎の不登校立候補。これ以上ないってくらいセンセーショナルな肩書じゃない」
「別に、楯突いたってほどじゃ。ただ単に、文句があるなら私に言えって、言っただけで」
「いやそれ充分楯突いてるでしょ」
「詳しい経緯を知らないからそう思うんです。そもそも、火種を用意したのは蓮の方だし」
ふぅん、と言いながら携帯灰皿を取り出して、中に煙草の吸い殻を押しつける先生。ポケットの中に戻すと、それで? と続きを促すように、私のことを横目で見やった。
私はあのときの一部始終を山口先生に語って聞かせた。
「――なるほどね。それで引っ込みつかなくなって、泣く泣く立候補することにした、と」
「はい。だから噂は、完全に誇張されているっていうか、誤解されてるっていうか」
きっと噂を聞いた生徒の多くは、私が平時の蓮のような毅然とした態度で、かつ整然とした物言いで、漆原に滔々と反駁するシーンを思い浮かべているのだろう。だけどそれは間違いだ。私はあくまでも怖気づきながら、訥々と、小物感満載の調子で物申しただけなのだから。
「皆、絶対に失望しますよ。実物の私を見たら。最近、テレビとかで不登校だけど才能のある子供とかが、やけに取り沙汰されてるじゃないですか。天才肌で、カリスマ性のあるような。きっと皆がイメージしてるのって、そういう人物だと思うんです」
だけど実物は推して知るべし。特別な才能なんて何もない、ひ弱な神経を持っただけの一般ピープルである。特別さで言うならば、蓮の方がよっぽど稀有な人間性をしていると思う。
実を言うと、悩んだんだ。本当に立候補するのかどうか。いっそのことバイトも辞めて、学校には金輪際行くのをやめて、蓮の連絡先もブロックして逃げてしまおうかとさえ考えた。
だけどその度、こうも思った。私が逃げたら、そのとき槍玉に挙げられるのは蓮だよな、と。
漆原に噛みついて、それでいて立候補希望者には逃げられた、憐れで愚かな応援人。私の代わりに噂話の標的となった蓮は周囲からそんな汚名を着せられて、三年もの高校生活をすごす羽目になるのだ。勿論、その程度の悪意、蓮ならいくらでも跳ね除けられるのかもしれない。いや、実際そうなのだろう。だけど耐えられるからと言って、それが愉快なことかと問われれば、話は違ってくるわけで。
いくら気丈な蓮とはいえど、嘲笑や冷笑の対象とされるよりかは、素直に笑い合っていた方がよほどいいに決まっている。そこに転倒が起きるほど歪んだ性根はしていない……はずだ。
恐らく。きっと。願わくば。
だとすれば、だ。どうせ私は不登校なんだ。通信制に行く可能性だって依然として残っているし、蓮よりも悪意から逃走しやすい立ち位置にいるのは事実。諸々の騒動の波紋や影響は私が引き受けた方が損失が少ないんじゃないか、と。私は、そう考えたのだ。
筋を通そうとしたわけじゃない。むしろ筋という観点から言えば、私には逃げるに足る正当性があると思う。私を焚き付けたのも、意図的に小競り合いを起こしたのも蓮なのだから。
全部、あいつの自作自演で、自業自得。そう切り捨てることだって、当然できた。
だけど私は、知っているんだ。あいつがなまじ私を慕ってきていて、動機自体は純粋なものなんだって。
あいつを切り捨てられる、自業自得と言い切れるだけの強さを、持つことが出来なかった。
結局は、ただそれだけの話。私の弱さに起因する因果応報が、今のこの状況だった。
「現状を受け入れてはいる。逃げる気もない。でも、それはそれとして恐れてもいる、と」
「まあ、端的に言えばそういうことです」
しばらくの間、先生も無言で遠くの景色を眺めていた。海上の空気は今日も霞んでいて、灰色に淀んでいて、早朝の山嶺に沈殿する濃い霧のようだった。
「何から何まで口出せばいいってわけじゃないし、言葉にしても伝わらないことってあるし」
先生が唐突に口を開いた。先生の声色が、普段の軽薄なそれとは、どこか違っていた。
私は伏せていた顔を上げ、山口先生の方を見た。先生は私を見ていない。正面を、陰鬱に揺らぐ海の向こうを、ひたすらに眺めている。いつの間に火をつけたのか、先生の右手には新しい煙草があった。じわじわと立ち上る煙とともに、薄橙の灯火をぼんやりと放っていた。
「具体的なことは言わないけど、これだけは伝えとく。私は、そこまで卑屈になることもないと思うよ、青井は」
人に褒められるのは、嬉しい。だけど、ぶつけられた感情が直球であればあるほど、ありのままに受け止めるのは難しい。でも、と。気づけば、否定の接続詞が舌先から転げ出ていて。
「現実的に考えて、無理があるじゃないですか。そもそも向いてないし。私より蓮のほうがよっぽど、こういうのの才能とか適正とか、あるのに」
「だから、そうやってないものにばかり拘泥をするなって。ないものはない。無理なものは無理。それは仕方のないことだよ。だけどね青井、才能ってのは畢竟、鋏みたいなものだからさ。活かすも殺すも使い方次第。何があるかより、どう使うか。それを念頭に置きなさい」
ゆっくりと煙草を吸って、口元から紫煙を吐き出す山口先生。長い睫毛に縁取られた双眸は、霞んだ海の向こう側を覗くかのように、細められていた。
「……それ、何一つ才能がない人間には当てはまらない議論ですよね」
「そもそも、あるなしの話じゃないの。才能っていうのは、見出すものであり、磨くものであり、打ち立てるものでもある。誰もが涎が出るほど欲しがるものが、都合よく完成形で転がってるわけないじゃない。だとしたらそんなものには、この煙草ほどの価値もない」
違う? と諭すように言いながら、先生が煙草を携帯灰皿へと捨てる。まだ半分以上も残っていた。いつもは、フィルターギリギリまで吸ってるくせに。
灰皿をポケットにしまうと、先生は久々にこっちに顔を向けた。ところで、と話を変えてくる。いつの間にか、口元には悪戯っ子のような笑みが復活していた。
「例のポスター、中々にアヴァンギャルドな出来だよね」
「ポスター、ですか?」なんだそれ、と面食らった顔をしていると、やっぱり知らないんだ、と山口先生が飄然と口にした。またカマをかけたのか、この人は。いや、今はそれよりも。
「もしかして、校内には既に私の選挙ポスターが張ってあるってことですか? 蓮が、私の知らぬ間に自作して」
「そういうことになるんじゃないの。ちょっと待って、今画像見せるよ。秘密にしてたのかも知れないけど、ま、いつかはバレることだしね」
はい、と言って先生がスマホを突き出してくる。私はおずおずと受け取る。
数分後。私は先生にスマホを返すとともに、手のひらで顔面を覆い隠した。
「職員室で論争が起きてるのは、概ねこれが原因ね。生徒たちの間で話題になったのも、当然これがきっかけ。本当、やるときは徹底的にやる子だよね、羽賀は。恐れ入ったよ」
「……このポスター、規約的にアウトなんじゃないんですか?」
「いや、ギリギリセーフだよ。今年度のルールは私だからね。倫理的にセーフかは、各々の価値観に寄るところが大きいけど」
「つまり、今年度の生徒会選挙に倫理上、常識上での枷は存在しないと」
先生はアハハと笑った。校長は人選を誤ったことを詫び、潔く辞任すべきだと私は思った。
「でもね、私は真面目に悪くないと思うよ、このポスター。だって、書かれている主張自体は真っ当なものだもの。変に中途半端なことするよりかは、強気な姿勢を貫いた方がいいよ」
「それは、そうかもしれないですけど……」
「ま、この辺りは選挙戦略にも関わってくる部分だから、どうするかは青井たちが決めなさい。あなた達が正しいと思ったこと、やるべきと思ったことならば、それがグレーゾーンと解釈できる範疇にある限り、見過ごすから」
「……生徒のこと、そんなに信頼して大丈夫なんですか?」
皮肉交じりに訊ねると、先生はこれまた皮肉交じりの答えを返してきた。
「別に、信頼してるってわけじゃないよ。でも私は、私自身の判断も信頼していないから。だったらその二つの間に、どっちかがより確実とか優れているとかは、ないはずでしょ。だからまあ、本当にヤバくなったらとめるけど、それまでは好きにさせとけばいいかなーって」
はぁ、と。長くて深いため息が、肺の奥深くからこぼれ出た。要するに、私は手出ししないから問題は自分たちで解決してね、と言っているわけだった。丸投げだった。
「じゃあ、今日はこれで失礼します。これからバイトなので」
またねー、という軽やかな挨拶を背中で受けながら、駐輪場へと向かう。私は少々、いやかなり憂鬱な気分になりながら、急な坂道を自転車で蛇行しながら下っていった。
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