エンカウント2

 蓮は、何も言い返さなかった。悔しげに下唇を噛んだまま、一言も声を発しない。忌々しげな目つきで睨め上げてはいるけれど、それはなんだか喧嘩で負けそうになっている猫のようにも見えて、勇壮というよりは痛々しさが前に出ていた。

 ジワリ、と。治りかけの傷口に塩を塗られたみたいに、ヒリヒリと胸が痛む。

 漆原の言いたいことは、わかる。自覚がないってことも、勝てっこないってこともおっしゃるとおりだ。不登校のくせに生徒会だなんて馬鹿みたいって、私だって思ってる。

 だけど……だけど、蓮は本気なんだ。あのとき蓮は、私のことを勝たせると言い切った。何の根拠も何の保証もない。口からの出任せかもしれない。だけど、それでもあいつは私に約束してくれた。絶対に勝たせる、って。私が先輩を勝たせる、って。

 なのに漆原は、蓮のことを何も知らないくせして、蓮がどれだけ頭のネジが吹っ飛んでいて、突拍子もないことばかり言い出して、どこまでも強引で、豪胆で、そのくせして舌が回るからものすごくたちが悪くって、そういう蓮の強かさを何一つ知らないこいつが、一方的に蓮の大口を否定してくるなんて。

 ……気に食わない。心の底から、気に食わない。蓮のことを否定して良いのは、蓮の狡猾さを身をもって知っている私だけだ。お前なんかに否定される謂れはない。それは、私の役割だ。

 気づいたときには、カメラとマイクをオンにしていた。蓮と漆原が、一斉に私の方を向く。

 今度は、錯覚じゃない。本当に、真実、漆原が私の顔面を見据えているのだ。

「せ、先輩? 顔は出さないって、話じゃ――」

「ごめん蓮。イヤホン、取ってくれない? 声、スピーカーから流したいから」

 こくんと小さく頷いて、言われたとおりにイヤホンを抜き取る蓮。

 私がしゃしゃり出てくるとは思わなかったのか、或いは、そもそも向こう側に人がいるとさえ思っていなかったのか、漆原が意外そうに目を見張るのがわかった。そんな彼女を画面越しに炯々たる眼光で射竦め……るのは、ちょっと、いやかなりミッションインポッシボーなので、ここは目を見て会話するだけで良しとする。陰キャにはそれだけで充分ハードモードだった。

「蓮は……羽賀は、あくまで私の応援人です。立候補するのは私なんだから、蓮に意見するのは、筋違いだと思います。批判するなら、……蓮じゃなくて、私にして下さい」

 舌切り雀みたいに途切れ途切れの、みっともない言いぶりだった。ああもう、なんてみっともない。あまりのダサさに、このまま消え去りたいって衝動に駆られる。というか、どんな反論が飛んでくるんだろう。あんまり手痛い言葉を投げかけられると、私もいい歳だし流石に泣きはしないけど、泣きそうになるくらいのことは本気でありそうで、恐ろしい。

 戦々恐々としながら漆原の反論を待つ。が、その前に別の人物が私達の間に割って入った。

「今のあたしはただの一候補者でしかないから、口を挟むのもどうかと思って静観してたけど、少し言い過ぎだよ、静」

 漆原と同じ現行の生徒会役員である、比良だった。比良は距離を取らせるように、漆原の前方に伸ばした右腕を差し入れる。「……朝顔」と物言いたげな表情で呟きながらも、漆原は大人しく一歩、後ろに下がった。

「この二人の、羽賀ちゃんと青井のやってることは、別に間違ってないよ。二年生の生徒なら、選挙に出る権利はだれにでも等しくあるし、そして役員を選ぶのはあくまで皆。あたしたちが立候補に口出しする権利はないよ」

「それは、そうかもだけど――」

「登校できないせいで選挙活動が難しいのなら、管理委員がサポートしてやればいい。管理委員だけじゃ手に負えないなら、あたし達が手伝ってやればいい。そのための生徒会だろ。違う?」

 諭すように言う比良を前にして、漆原はばつが悪そうに項垂れる。ややあって、ボソリと。

「……ごめんなさい、少し言い過ぎました」

 しばし、呆気にとられる。あそこまで意地の悪い発言を繰り返していたくせに、こうも簡単に折れるだなんて。

「そういうわけだから、青井も羽賀ちゃんもよろしく。お互い頑張ろうね」

 快活に歯を見せて笑いながら比良が言う。邪気のない言動に蓮も毒気を抜かれたのか、「は、はい」と戸惑い気味に返事をしている。私も、「どうも」と画面越しに頭を下げる。

「――おっと、もうこんな時間だ! さっき美術部から、部室の美品整理を手伝って欲しいって言われてたんだよね。じゃ、私はこれで失礼するから。お疲れ様、皆!」

「え? あ、ちょっと朝顔! 書類! 書類、忘れてる! というか、生徒会が廊下を走ってどうするのよ、もう……!」

 猛然と教室を飛び出した比良に続いて、二人分の封筒を手に、慌ただしく教室を出ていこうとする漆原。そのまま出ていくかと思いきや、画面から見切れる寸前で立ち止まり、私達のことを敵意のある眼差しで一瞥した。しかし何言かを口にすることはなく、ふいと顔を正面に戻し、早歩きで画面外へと出ていった。

 打って変わって、教室に静寂が訪れる。管理委員ともう一人の候補の姿はなかった。きっと険悪な雰囲気に耐えかねて、そそくさと退散したのだろう。画面外に写っている可能性もあるけれど、蓮がPCを回転させたことで部屋の様子が見えたので、その可能性もないとわかった。

 しばし、無言の時が続いた。なんとなく蓮の顔を見づらくて、キーボードの上で指先を弄びながら、かけるべき言葉を探す。

 Recording stop、とアナウンス音が流れる。反射的に顔が上がった。あれ、わざわざ録画してたのか。でも何のために? 

「――っしゃぁ、音声素材大量ゲット……っ!」

 画面の向こうで、蓮がガッツポーズした。両腕を使用して、アニメか何かみたいに大袈裟な仕草で。勢いで後ろに倒れそうになりながらも、脚で踏ん張ってどうにか転倒を免れる。反動を利用してずずいと前に乗り出して、興奮冷めやらぬ面持ちで堰を切ったように語り始めた。

「想像以上の獲物ですよこれは! 不登校って言葉を出せば、誰か一人くらい突っかかってくるやつがいないかなって思ったんですけど、まさか現行の役員が引っかかってくれるとは!」

「あ、あの、蓮? ……獲物とか引っかかるとかって、何のこと?」

「だって先輩、聞きました? あの生徒会の野郎の差別的言動の数々! しかし今や、私たちの手中にはその問題発言の悉くを記録した音声ファイルがあるわけですよ。これ以上ないってくらいの釣果です。生徒会への道を駆け上げるのに役立つこと間違いなしですね、先輩!」

 ニコニコと、いつになくご機嫌な調子で蓮は言う。私は茫然自失となった。

 つまり蓮は萎縮していたわけでも怯えていたわけでもなくて、あれは単なる演技だったと?

 愕然とする私を他所に、蓮はなおも上機嫌を崩さない。それはまる、罠にかかった獲物を前に、一体こいつをどう料理してやろうかと考えを巡らせる、熟練の猟師のようだった。

「今日の資料は今度バイト先に持っていくので、そのときに渡しますね。あ、ちなみに今日はクリアファイル持ってきてますから。前みたいに届出書がぐちゃぐちゃになる、なんてことはありませんから、安心してください」

 あ、うん、と私は気の抜けた返事を口にする。別れの挨拶を交わしたところで、ミーティングが終了して画面が暗闇に閉ざされる。私は数分フリーズした後、両手で顔面を覆い尽くした。

「……損した。心配して、損した」

 言葉にするや否や、後悔やら憤りやら蓮に対する反感の数々が頭をもたげ、私の思考回路全域を瞬く間に支配した。そして爆発した。

「っ、ああもう、なんなんだよ蓮の奴……⁉ これじゃ心配した私が馬鹿みたいじゃん! 馬鹿見た上に、引くに引けなくなっちゃったじゃん! 完全に顔と名前覚えられたし、てかはっきり候補者は私だって言っちゃったし! つーか、そういう作戦ならなんで予め伝えてくれなかったんだよ、あいつ……っ!」

 舐めていた。狡猾さを身をもって知っているとか自分を評しておきながら、蓮の強かさを私は完っ全に舐めていた。あいつは転んでもただでは起きない、いやそれどころかわざと転んで周りの人間の注意を引いて、立ち止まった隙に襲いかかろうとするくらいには、老獪で奸智に長けたずる賢い奴なのだ。ただちょっと、年上の先輩になじられた程度でへこたれるほど、やわなメンタルしているわけがないっていうのに……!

 PCの電源を落とすこともせず、スマホだけ持ってベッドの上に移動して、うつ伏せになって倒れ込む。枕に顔面を埋めながら、あーあーあー、と意味もなく呻く。

 ピロン、とスマホに通知が入る。蓮からだった。未読無視してやろうかと思ったけれど、その十秒後には結局確認してしまう辺り、私は骨の髄まで現代っ子しているようだ。

 送られたのは、「ありがとうございました、庇ってくれて」「嬉しかったです」の二文だった。

 しばらく、無言で画面を見つめた。入力欄をタップして、キーボードを立ち上げた。

 でも結局はスリープにして、スマホをベッドの端に叩きつけるようにボスンと置いた。

「……本っ当。何なんだよ、あいつ」

 頬がやけに熱いけど、違う。これはただ、蓮にムカついているだけだ。

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