エンカウント1
不登校たる私は、サザエ(最も一般的な敬称を代入)症候群とは全く無縁の身の上である。
だけど一年の一学期、まだ学校に通っていた時期のサザエ(最も一般的な敬称を代入)症候群の深刻さと言えば、それはもう筆舌に尽くし難いほどだった。日曜夜に夕食を取りながら「じゃんけんぽん!」という掛け声を耳にすると、出るのはグーでもチョキでもパーでもなくただの陰鬱なため息だった。いやまあ、学校行きたくないって気持ちを親に悟られたくなかったし、実際に出してはいなかったけど。あくまでも心の中で、だ。でも、どちらにせよすこぶる憂鬱だったことに変わりはない。吐く度に胸中の二酸化炭素濃度が増していき、どんどんと気が重くなっていった。二酸化炭素は大気よりも密度が高い。化学的かつ物理的な必然だった。
そんな日曜夜の憂愁が、ここに来て少年漫画のラスボスよろしく復活してきやがった。
原因は言うまでもない。月曜日の放課後に催される説明会だ。顔出しをするわけでも発言をするわけでもないのに、この気の取り乱しようとは。我ながら情けなくなってきた。
でも私だって、本当にぼけーっと話を聞いているだけで全てが片付くなら、ここまで気重になったりはしていなかった。説明会そのものというよりも、説明会の後に待ち構える蓮の説得。私の気分をここまで塞ぎこませているのは、どちらかというと、それだから。
高一とは思えないほどに口が達者で、かつ強情な正確をしている蓮を説き伏せて、心変わりさせる。私なんかに、本当にそんなことできるのだろうか。正直、かなり怪しかった。
まあ、できなかったところで、なんだって話ではあるのだけれど。私が拒否権を発動しさえすれば、選挙の話は強制的になかったことにされるわけだし。
じゃあ、どうして私はここまで不安な気持ちに駆られているのかなって、自問する。蓮の報復が怖いから? それもある。あいつ、何をやらかすか予想がつかないとこあるし。でも流石に、金属バット片手にバイト先に殴り込みをかけてくるような真似はしないと思う。普通に絶交されておしまい……なん、だよね。
そう。絶交。つまりは縁切り。私と蓮は文字通りの赤の他人に逆戻り。もう蓮は、バイト先に来ることもなくなるはずだ。通信制に転入してしまえば、神様がよっぽどの悪意を働かせない限りは、顔を合わせることもないだろう。
でもそれって……ただ単に、今までの平穏な日常に立ち返るだけの話じゃないの? ならむしろ、願ったり叶ったりなんじゃ。勢いで出るなんて言っちゃったけど、正直、生徒会選挙なんて全然出たくないわけだし。蓮につき纏われるのだって、いい迷惑だって感じてたはずなのに。じゃあ、私はどうしてここまで――、説明会の日がやってくるのを、恐れているのだろうか。何度胸のうちに問いかけても、はっきりした答えが返ってくることは、一度もなかった。
何にせよ、一つだけはっきりしていることがある。
曲がりなりにも顔見知りである蓮の説得でさえ、ここまで気弱になっている以上、私がまともに選挙活動することなんて絶対に不可能。これだけは、言える。
よし、決めた。私、絶対蓮に選挙には出ないって伝えよう。
そんなわけで月曜の午前中、私は両親が家を出るや否や、とことこと洗面台に降りていき、鏡に映った自分自身を真っ直ぐに見据えつつ、「絶対出ない絶対出ない絶対出ない(以下、数学的帰納法)」と唱えた。自己暗示をかけてみた。
これで完璧。私の決意は鋼鉄のように固く、決して揺るぐことはないだろう。
にも拘わらず、説明会開始時刻の三十分前からPC前で待機してしまう辺り、私のチキンハート加減は堂に入っていると言わざるを得なかった。
いやでも、ほら。断るにしても、選挙の詳細を知った上で無理があると判断したって名目にしたほうが体裁を保てるし、蓮も納得してくれるでしょ。してくれる……はず、だよね?
なんだろう。すこぶる先行きが不安な滑り出しだけれど、まあいい。どちらにせよ、説明会への出席は蓮への義理立てという意味でも必須なわけだし。私は何も間違っちゃいない。
開始時刻の五分前になったところで、URLが飛んできた。クリックしてミーティングルームに入室すると、画面に教室内の蓮の姿が映し出された。教室と言っても、どこかのクラスが使用している部屋ではない。恐らくは特別教室だろう。
「先輩、私の声、聞こえてますか?」
「聞こえるよ。映像もちゃんと見えてる」
言うまでもないことだけど、土曜日と同じで蓮は制服を着用している。私の声も外の声も両方とも聞こえるようにと、片耳だけイヤホンをつけていた。後ろ側に他の候補者が写り込んだりはしておらず、見えるのは蓮の姿だけ。そのことに、決して小さくはない安堵感を覚えている自分がいた。
……って、おい。何をホッとしてるんだ、私は。説明会にオンライン出席しているのはあくまでも蓮に対する義理立てに過ぎなくて、私はこの後、断固とした態度で蓮に自信の意志を表明し、何がなんでも選挙に出ないという旨を了解させなくちゃいけないんだ。つまり蓮は論敵に当たるわけで。気を緩めるなんて、油断大敵も良いところだ。
いけないいけない、と唇をキュッと引き締める。カメラは切ってあるんだし、別に顔つきに気を使うこともないのだけれど、なんとなくね。気分の問題っていうか。
「じゃあ、今から黒板の方向けますね」
映し出される映像が、ぐるりと回る。蓮の姿は消え、代わりに教室前方の様子が映し出される。教団の上に立っている二人は管理委員だろう。一人は黒板に文字を書き、もう一人はなにやらA4の茶封筒の中身を点検していた。
席についている生徒、つまり立候補希望者の数は三人。右前方に隣り合って座っているのは、現生徒会の二人。二つ結びの方が比良で、その横にいるのが名前のわからない生徒会役員。緩やかなウェーブがかかった腰まで届く長髪を、ヘアクリップで留めてハーフアップにしている。大人っぽくて上品そうな。有り体に言えば、両家のお嬢様といった印象を受ける子だった。そこから左に二席開けたところに、また別の候補がいる。見覚えはない。不登校である以上は当然といえば当然なのだけど。生徒会の二人を認知しているだけでも褒めてほしい。
「どうですか? 黒板、見えてます?」
「うん、大丈夫。ぴったり画面に収まってる」
「なら良かったです。教室ど真ん中付近の席にして、正解でしたね」
黒板には今日の話のアウトラインが板書されていた。少々画質は悪いけど、読めなくはない。
そのとき、左側の候補の子がちら、と私に目を向けた。じろじろと、訝しむような、奇妙なものを見るような目つきで観察してきて落ち着かない。いや、その候補だけじゃない。教壇上の管理委員もチラチラと物珍しげな様子でこっちを見てくるし、生徒会二人もちらりと目線を向けてきた。
……私への視線、というわけではないはずだ。カメラは切っているから、私の顔を見ているはずがない。どちらかというと、説明会の開始寸前だというのにPCを脇に置いて通話している蓮に対して、奇異の視線を送っているのだろう。頭ではわかっている。だけど心が、その眼差しが画面越しに私へと向けられたものと錯覚してしまって、キリキリと痛んだ。
「本番中もイヤホンはつけておくので、何かあったら言って下さいね」
わかった、とだけ返す。環境音が入ったら悪いので、マイクをミュートにしておく。
程なくして、板書をしていた管理委員がチョークを置いた。手についた粉を払いながら黒板全体を見直して、小さく頷いてから座席側へと向き直る。もう一人の管理委員にアイコンタクトを送って、口パクをし始めた。勿論それは私からしてみればそうみえるというだけの話であって、単に音が小さすぎて聞こえていないだけだ。慌てて音量を最大にする。が、しかし。
「では――ら、本日の――の、――を配布します」
ところどころ、聞き取れる箇所はある。だけど声の半分以上はマイクに拾われていなくって、一体何の話をしているのか皆目見当がつかなかった。教壇から座席まではある程度の距離がある。PC本体のマイクでは声が殆ど拾われないのも、当然と言えば当然だった。
事情を話せば、何らかの措置を取ってくれる可能性はある。PCを教卓の上に置かせてくれる、とか。でも、既に説明会は始まってしまっている。話の腰を折るのは気が引けるし、何より私は立候補を取り下げるつもりなのだ。敢えて申告することもないと判断して、黙る。
もう一人の管理委員が、教壇チェックしていた四枚の封筒を候補の前に置いていく。ちら、と胡乱げな目を向けてから、蓮にも封筒を手渡した。ガサガサと紙の擦れる音がする。中には資料が入っているようだけど、当然、私から見ることは不可能だ。
声も聞こえない。資料も読めない。本格的に、自分が何故、説明会に参加しているのかわからなくなってきた。こっそり離席してもいいかなと思い始めたところで、ピロンとスマホが通知音を発した。蓮からだった。説明会の最中なのにどうしたんだろうと思いながら確認すると、どうやら資料を写真に撮って、送信してくれたようだった。
一度マイクをオンにして、ありがとうとお礼を言っておく。再び通知音が鳴る。「無駄なことしてる感が凄い」「最初からPDFで渡してほしいですね」とのことだった。まあ、蓮の言う通りではある。事前にこちら側の事情を説明していなかった以上、管理委員に文句を言うのは筋違いなのだけど。
そんなわけで、私の手元にも無事に資料のプリントが届いた。別に目を通す必要もないのだけれど、私はあくまで選挙の詳細を知ったがために立候補を取りやめる、という体を取りたいのだ。読んでおくに越したことはないだろう。
画像サイズを適宜拡大しつつ、生徒会選挙の概要を確認しておく。
まずは、選挙そのものの仕組みについて。投票は一学期最終日の終業式のあとに、体育館で行われる。その日のうちに開票作業が進められ、当選者は二学期から次期生徒会として就任することになる。投票は一人一票ではなく、二票。得票数が一位の候補が次の生徒会長に、二位が副会長となる。新しい会長と副会長は、生徒会運営の補佐役としての書記と会計を、自由に指名することが可能。原則として応援人を選ぶことになってはいるが、合意があれば別の生徒を指名することも不可能ではない、とのことだった。朧気な記憶を辿ってみると、比良ももう一人の生徒会役員の子も、確か去年の候補の応援人を務めていたように思う。
次に、選挙活動について。立候補届出書を提出すれば正式な候補として認められるようになる、というのは山口先生からの話にもあった通りだ。締切は今週水曜なので、その段階で候補者が確定することになる。選挙活動が解禁されるのは、翌日の木曜からだ。許可されている活動は、演説とポスターの掲示、昼休みの放送、ビラの配布などだった。たかが一高校の生徒会選挙とはいえ、それなりに規約も多く、物品や金銭の受け渡しは禁止だの、学校外での選挙活動は禁止だのと、禁止事項がだらだらと書き連ねてあった。中には長ったらしい注釈がついているものもあった。「選挙期間中、候補者は集会を開催し、賞金や景品(注一)を譲渡することを禁止する(注一:ここで言う賞金や景品には、プリペイドカードのQRコードが印刷された紙などの、間接的に金銭または金銭に相当するものを得られる物品も含む)」だとか、「選挙期間中、候補者は許可のないポスターを掲示(注二)することを禁止する。(注二:ここで言う掲示とは、名前の記されたポスターを生徒たちが視認可能な状態にすること全般を指し、風船を用いて屋上から空に浮かべる、などの行為もそれに該当する)」などだ。やけに微に入り細を穿った指摘をしているのは、恐らく、いや確実に、過去にやらかした候補者がいるからだろう。
馬鹿じゃないの、と思わなくもない。でもそれは、限りなく黒に近いグレーゾーンを突いてでも生徒会役員になりたい、という強い情熱の裏返しなのだろう。そう考えると、一概に阿呆らしいとは言えない気もしてくる。なんてことはない。普通に馬鹿だと思う。
呆れ半分で条項に記された禁止事項を読んでいる間に、どうやら説明会が終わったらしい。
ありがとうございました、と唱和する声が聞こえてくる。壇上で説明をしていた管理委員が黒板を消し始める。三人の候補者は早速、立候補届出書を提出するつもりなのか、ボールペンを紙の上に走らせて、もう一人の管理委員に提出しに行っていた。
「お疲れ様でした、夢先輩。質問とかありましたか? あったら、訊いてきますけど」
蓮がPCの向きを反転させる。マイクをオンにして、大丈夫と私は答える。
「それよりありがとね、資料。わざわざ写真撮って送ってくれて」
「次回からは事前にPDFで送ってもらえるよう、頼んでおきましょうか。どうせならマイクとかもつけてもらって――あ」
蓮がハッとしたように目を見開く。やってしまった、と言わんばかりの顔つきで訊いてくる。
「夢先輩、音声ちゃんと聞こえてました? 音質、悪かったですよね」
嘘を吐いて誤魔化そうかとも思った。でも蓮のことだ。疑わしい返事をしようものなら、説明会の内容に関する質問を幾つも並べ、答えに窮した私を前に「なに嘘吐いてるんですか?」と詰ってくるのは目に見えている。仕方なしに、全然聞こえてなかった、と正直に白状した。
「……すみません。迂闊でした。映像の方にしか気が回っていなくって。だけど、先輩も先輩です。それならそうと、ちゃんと言ってくださいよ」
「でも、もう説明会始まっちゃってたから。話の腰を折るのも悪いなって」
「何言ってるんですか……!」端正な眉間に皺を寄せ、画面側に身を乗り出してくる蓮。「悪いなんてことはありませんよ。先輩が立候補希望者である以上、説明を聞く権利はあるはずです。それを保証することも含めて、管理委員の人たちの仕事なのであって――」
「ちょっと。通話なら、どこか別のところでやってくれないかしら」
重くはなく、それでいてどこか冷然とした声が、蓮の語りを遮った。
画面越しで蓮が上方を向く。カメラの向き的に会話の相手は見えないけれど、その声には聞き覚えがあった。名前のわからない方の生徒会役員だ。
「すみません、漆原先輩。今のうちに確認したいことがあったので」
私は強張っていた肩の力を抜いた。蓮のことだから、「あ? 何様ですかあんた?」とか突っかかるのではないかと気が気でなかったけど、最低限の良識は心得ているらしかった。
「というか、あなた達はどういうつもりなの? 説明会は原則、希望者本人が出席することになっているはずだけど。本人は風邪でも引いたの?」
「いえ、そういうわけでは。先輩は、色々な事情があって学校に来ていないので、代理で私が出席しただけです」
「学校に、来ていない? ……不登校、ってこと?」
「まあ、有り体に言えばそうなりますね」
ちょ、あいつ何を勝手に、人の事情をペラペラと――
画面越しに教室の空気が変わったのを感じて、焦る。でも二人の間に割って入るのも憚られ、大人しくマイクをオフにした。こういう小競り合いに巻き込まれるのは、苦手だった。
「少し、いいかしら」映像がぐるりと回って、漆原の方を向く。私と会話でもしようと思ったのだろうか。しかし、カメラもマイクもオフになっているの見て私の側に対話する気がないと察したのか、すぐに目線を蓮へと戻した。私は、胸を撫で下ろす。
他の候補や管理委員も、手を止めて蓮と漆原のやり取りを観察していた。皆一様に驚きの表情を浮かべている。漆原と同じく、病欠か何かだと思っていたのだろう。そりゃそうだ。誰だって、不登校の生徒が生徒会選挙に立候補するだなんて思わない。
「あなた達、ふざけてるの? 生徒会選挙は遊びじゃないの。何を考え得ているのかは知らないけれど、冗談半分で立候補して、管理委員の仕事を増やすような真似はやめて」
不愉快だと言わんばかりの険しい顔で、漆原が言い放つ。
その台詞は、私の胸をグサリと刺した。だが私は後ろめたさを覚える以上に、焦った。
マズい。今の台詞は、考えるまでもなくマズい。私に対して言うならともかく、それを他ならぬ蓮に突きつけてしまうのは、闘牛の眼前に赤色の布を晒すかの如き挑発行為に他ならない。
「……ふざけてる? 今、ふざけてるって言いました?」
あ、終わった。私はPCの前で頭を抱えた。現実逃避するかのように、PCの画面から顔を背ける。勘弁してくれと思うと同時に、教室にいなくてよかったと心の隅でホッとする。
「ええ、言ったわ。だってそうじゃない。不登校の生徒が生徒会選挙に出るなんて、どう考えてもおかしいでしょう」
「不登校の生徒の立候補は認めない、なんて規約はありません。何も問題はないはずですが」
「確かに、規約の上ではそうかも知れない。でも現実的じゃないでしょう。学校に来ずにどうやって選挙活動をするというのよ」
「やりようなんて、いくらでもあります。先輩に心配される筋合いはありません」
どうだかね、と冷然と言い放つ漆原。明らかに蓮のことを見下している調子だった。
「大体ね、生徒会選挙への立候補には相応の責任が伴うの。当選した場合には、生徒会役員として全校生徒のために活動する義務がある。それができる保証がある者だけに、名乗りを上げる資格があるの。それに、生徒会というのは生徒全員を代表し、皆がより良い学校生活を遅れるように活動する組織だわ。学校にも来ていない生徒が運営に参画しようだなんて、思い上がりもいいところよ。というか、もしかしてあなた、本当はただ内申点が稼ぎたいだけなんじゃなくって? 不登校の生徒を口八丁手八丁で担ぎ上げて、応援人としての肩書を手に入れようって魂胆じゃなくって?」
豪然と両腕を組みながら、滔々と蓮のことを責め立てる漆原。
しかし蓮はあくまでも強気に、威勢よく、年上の生徒会役員に反駁を試みて――
え、と。無意識に、戸惑いの言葉が漏れていた。
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