ノリと勢いで行動するとろくな目に合わない1
唐突に重要な決断を迫られたとき、人は往々にして冷静な判断能力を見失う。そういう場合は一旦家へと持ち帰り、翌日に改めて身の振り方を考えるのが大切だ。でも冷静な判断能力を失っている状態で、そんなにも理性的な判断は望むべくもないと私は思う。故に、この教訓に一切の価値はない。つまり何が言いたいかというと、私は猛烈な後悔に襲われていた。蓮の勢いに飲まれて早計な判断を下した半日前の自分を、今朝から呪いに呪って呪いまくっていた。いっそのこと私の呪詛が、時間の流れを遡行して過去の私の心臓を止め、因果律とかタイムパトロールとかその他諸々をなぎ倒し、バタフライエフェクトやらタイムパラドックスやらを引き起こした挙げ句、この世界を宇宙ごと消滅させてくれればいいと思った。
「……本当、何馬鹿なことやってるんだ、私は」
改めて、ため息。昨日は蓮に押し切られてしまったけれど、不登校のくせして生徒会とか、どう考えても無理がある。学校中で「何この候補?」「なんか不登校の子らしいよ」「は? なにそれ意味不明」「本当、空気読めなさすぎだよね」「こういうの面白いと思ってんのかな」「そんなだから不登校になるんだよ」「それな」とか白眼視されるだけで終わるに決まってる。
「……うっわ無理無理。やっぱ無理。さっさと退学しよ、退学。人生逃げるが勝ちだようん」
胸に灯った蝋燭の炎は、しかし、儚かった。あまりにも儚い命だった。小学生の眼前に置かれたバースデーケーキの蝋燭もかくやというほどの、短すぎる一生だった。
私は休日であろうとも規則正しい生活習慣を死守する、見上げた不登校生だ。目覚めたのはいつも通り朝の七時で、現在時刻は九時過ぎだった。かれこれ二時間近くベッドでもんどり打ちながら、後悔の波に飲まれている計算になる。そのくせして、未だに波が引く予兆はなかった。きっと私の身体は引波もろとも沖合まで攫われていて、既に溺死寸前なのだろう。
でも、悔恨にばかり囚われていても仕方ない。どうにかして提出済の立候補希望届を撤回する術はないかと、考えを巡らせる。
「確か、締切は金曜日いっぱいだったよね。となると、選挙管理委員はまだボックスを確認していない可能性がある。つまりはシュレディンガーの立候補希望届。私の用紙が提出されているかどうか確定するのは、量子力学的に考えれば、委員会が箱を開けた瞬間なんだから――」
思考があからさまに迷走ゾーンに突入し始めたところで、電話が鳴った。スマホじゃなくて家電だ。親機が置いてあるのは一階の階段脇だから、コール音は微かにしか聞こえない。
さり気なく身を強張らせている自分に気づいた瞬間、ため息が漏れる。いい加減、家に電話がかかってくる度にビクビクしてしまう癖、直したいんだけどな。小学生の時からそうなんだ。家電が鳴る度に、私が何か良くないことをしてしまっていて、それを先生が親に連絡してるんじゃないかって気になって、心あたりがあるわけでもないのに、いつもいつも親の受け答えに耳をそばだててしまう自分がいた。そして、そんな私は今もなお、健在だった。
呼び出し音が消える。切れたか、お母さんが電話に出たかしたのだろう。
電話の主として考えられるのは、三通り。一番順当なのは山口先生。学校関連のことで、割と頻繁に電話がかかってくるから。私のスマホにかけてくれてもいいんだけれど、生徒と個人的に連絡先を交換するのはNGだということで、未だに家電でやり取りしていた。
次にありそうな可能性はセールスだろう。でも、時間帯的に少し早い気がするし、可能性は希薄かな。島のお祖父ちゃん説のほうが、まだ有力だと思う。
島のお祖父ちゃんというのは母方のお祖父ちゃんのことで、島という接頭詞が表す通り、瀬戸内海にポッカリと浮かぶ小島に住んでいる。中一の頃までは毎年お盆休みに帰省していたのだけれど、中二以降は一度も帰っていなかった。コロナが流行り始めたからだ。
最後に島に言ったのは、四年前の九月。お祖母ちゃんのお葬式のときだった。
あれ以来、お祖父ちゃんは一人きりで暮らしていることになるわけだけど、元気なのかな。孤独感とか、募らせてなければいいんだけど。お葬式のときの様子は、どんなだったっけ。中一だった私はお葬式を途中で抜け出して、島民の男の子の遊び相手をしたりしていたものだから、いまいちお祖父ちゃんがどんな顔つきをしていたのか、思い出せない。重苦しい雰囲気に耐えかねてのことだったんだけど、流石に不謹慎だったなと、今更ながら悔恨に襲われる。
トントントン、と階段を登る音がして、意識が現実に引き戻された。
「夢ー、なんか先生が中間テストの件で連絡があるってー。というかあんた、起きてるのー?」
どうやら電話相手は山口先生だったみたいだ。一瞬、もしや立候補のことで電話してきたんじゃないかと身構えたけど、用件は違ったらしい。
「ほら夢、いつまで寝て――って、なんだ。起きてるじゃない。二度寝してるのかと思った」
「してないって。それより電話貸して」
お母さんを部屋から追い出してから、保留を解除する。もしもし、と声に出した次の瞬間。
「ねえ青井、生徒会選挙出るってマジ?」
シュレディンガー状態が崩壊した。私のやる気の炎の如く、短すぎる命だった。
「なんで、山口先生が知ってるんですか」
「なんでも何も、私、今年の選挙管理委員会の顧問だもん」
「……そういえば昨日、校長から雑用を押し付けられたとか愚痴ってましたっけ」
まさかこのことだったのか。不幸と言うべきか、幸いというべきか。まあ、幸いかな。顔も知らない先生から詰問されるよりかは、山口先生にからかわれる方がまだましだし。
「いや本当、びっくりしたよ。一番上の用紙を見てみたら、青井夢って書いてるんだからさ。反応を鑑みるに、希望届を出したのは事実ってことでいいんだよね?」
「一応は。……でも、やっぱり変、ですよね。率直に言って、無謀というか」
「イレギュラーなのは確かだけど、私としては歓迎かな。管理委員なんて面倒なだけだと思ってたけど、これはちょっと、面白い展開になりそうじゃない」
「面白いって……。というか先生、中間テストの連絡なんじゃなかったんですか?」
「あ、それ? ただの嘘だから気にしなくていいよ」
「生徒の保護者に対して、よくそこまで堂々と虚が吐けますよね」
「あれ。もしかして言ってよかった? 娘さんが生徒会選挙に立候補するみたいなんですって」
う。確かにそれはちょっと、いやかなり嫌かもしれない。
「……ありがとうございます。お気遣い、感謝します」
「おーおー、大いに感謝したまえ。それでさ、差し支えなければでいいんだけど、立候補の目的とか訊いてもいい? ただの興味本位の質問案だけど」
「それは……その。不登校の生徒の待遇改善を求めるため、です」
昨日、一昨日の話を総括すると、そういうことになるのだろう。私たちは、不登校の生徒が不登校のまま充分な教育を受けられるように、また、登校している生徒との間の待遇の差がなくなるために学校側に改善を求めていく。
そのために立ち上がるというか、立ち上がろうとしていた、というか。
「――なるほどね。うん、いい理由だと思うよ。教師としては、特定の候補に肩入れとかはできないけど、一個人としては応援させて」
「あ、でもその、希望届を出しておいてこんなこというのもなんですけど、実はまだ、出るかどうか迷ってて。半分その場のノリだったっていうか、冷静じゃなかったっていうか。……その、ごめんなさい。こっちの都合で振り回しちゃって」
気にしないで、という軽やかな返事から一拍置いて、こんな選択肢が差し出されてくる。
「今なら、私の権限で見なかったことにすることもできるとは、言っておくけど」
つまり、シュレディンガー状態の復活。まだ、山口先生以外に箱の中身を確認した人物がいないのをいいことに、届出自体をなかったコトにしてしまうという、裏技。
突然の逃げ道の提示を前に、心が揺れる。届出に書かれた名前が私のものだけだったなら、私はきっと、お願いしますと口にしていたことだろう。だけど私の氏名の下には、あまり上手とは言えない文字で綴られた、某有名少年漫画と同じ読みの三文字が記されているわけで。
弱気な心の内側に、「勝たせます」という力強い声が木霊する。何の理屈も論証もない、真っ直ぐな瞳と声音に支えられただけの、保証書。その、あまりにも薄っぺらくて安っぽい紙切れを、けれど私は、未だにゴミ箱へ放り捨てられずにいて。
「ま、あと五日は猶予があるから、それまでに決めて貰えればいいよ」
「え。待って下さい。届出を出してしまった以上、立候補は取り消せないんじゃないんですか?」
「いいや。今回出してもらった書類は、あくまで立候補希望届だから。次の月曜、希望届けを提出した人を対象に管理委員が説明会を行うんだけど、そこで配られる書類に立候補届出書っていうのがあるの。正式に立候補ってことになるのは、それを出した段階だから。今はまだ候補者じゃなくて、立候補を検討している生徒って扱いなの。本当、まだるっこしい制度だよね」
なんだ、と軽く拍子抜け。蓮の前で取り乱しまくった自分が、馬鹿らしくなってきた。
まだ猶予があるというのなら、今度はもう少し冷静に、時間をかけて、立候補について蓮と話し合ってみるべきだろう。不登校の候補が当選する確率は限りなく低いだろうし、多くの生徒からは奇異の視線を向けられることになるだろうし。前者はともかく、後者については私の性格的に耐え難いから。
無論、蓮はあくまで応援人に過ぎないのだから、私の独断で辞退することだってできるだろう。でも、そんな勝手を働こうものなら蓮がどんな血なまぐさい報復に打って出るかわかったものじゃない。出来得る限り、穏当な方針を取るのが身のためだと判断した。
「ところで説明会っていうのは、届出を出した生徒は強制参加なんですか?」
「原則的にはそうなってるね。でも、配布される書類に説明事項は全部書いてあるから、出なくても問題ないっちゃないかな。或いは、代理を立ててくれてもいいけど。応援人の子とかね」
代理人、か。恐らくはその選択肢を取ることになるかな。
蓮には手間をかけさせることになるけれど、元々、私を焚き付けて届出を出させたのは蓮なのだ。代理で説明会に出るくらいのことはしてもらっても、罰は当たらないと思う。
「それにしても、青井と羽賀って友達だったんだ。いつの間に知り合ったわけ?」
「一ヶ月くらい前です。バイト先で話しかけられたというか、絡まれたというか」
蓮は学校経由で私のバイト先を聞き出したと言っていたけど、山口先生はそのことを知らないらしい。きっと、蓮のクラス担任経由で情報を得たのだろう。
「へぇ。先に話しかけたのって、青井じゃなくて羽賀なんだ。ちょっと、意外かも」
「意外? むしろ私は、先生の意外って反応が意外なんですけど。蓮って、コミュ力おばけじゃないですか。初対面の相手にもグイグイ行けるタイプっていうか」
山口先生は、うーん、と言葉を探すかのように唸り声を上げた後。
「臆することなく話しかけられる性格なのは、授業中の様子からもわかるんだけどね。でも羽賀って、あんまり積極的に他人と接点を作りに行くタイプには見えないっていうか。孤高って言えばいいのかな」
「ああ、それは確かに。実際、私もよくわかってないんですよ。蓮がなんで構ってくるのか」
「あ。私、そっちはなんとなくわかるよ。青井って意外とコミュニケーション能力があるじゃない? だからだと思うな」
その返答に、私は二の句が告げなくなった。数秒唖然とした後、いやいや、と否定する。
「何言ってるんですか、先生は。不登校の人間に対人能力があるわけないでしょ」
「私の言うコミュ力っていうのは、今、青井が想像しているような意味じゃなくってさ。なんていうか――って、あ、いけない。私、この後に用事あるんだった。ごめん青井、そろそろ切るね。いない人のことをとやかく言うのも良くないだろうし」
「あ、はい」電話越しにも拘わらず、こく、と頷いてしまう私。結局、どういう意味か聞きそびれてしまった。気になりはするけれど、まあ、殊更に追求することでもないか。「それじゃあ」と口にして受話器を耳から離そうとしたところで、「最後に一つ」と引き止める声がした。
「言い忘れてたけど、青井が選挙に出るっていうんなら――、私も、もう少しだけ戦ってみることにするよ。学校を変革しようと生徒会選挙に立候補するような子を、学校生活に参加する意志がないと見做して冷遇するのはおかしいだろって、校長に進言しとく」
一瞬、言葉が出なくなる。意表を突かれたからでもあるし、色々な思いがこみ上げてきたからでもあった。結局、言えたのは「ありがとうございます」の一言だけだった。
もう少し何かあるだろ、と思わなくもない。でも、感謝すべきことが多すぎるから、何から手を付ければ良いのかわからない。いくつもの言葉が喉奥でつかえてしまって、何も出てこなくなってしまって。
山口先生は相変わらず軽々しい口調で、「気にすんなって」と返答してくる。その後、一言二言やり取りした末に、通話が切れた。膝上に子機を起きながら、私はぼんやりと考える。
少なくとも一人は、味方ができた。素直に捉えれば悪くはない出来事だ。でもそれは裏を返せば、出馬を取り止める理由がまた一つ減ってしまった、ということでもあって。
それが良いことなのか、悪いことなのか。判断がつくのはもう少し後になってからだろうけど、……嬉しいことなのに変わりはないかな、とも思う。
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