革命の狼煙

 その週の金曜、私はバイトのシフトを休んだ。

 蓮から逃げたわけじゃない。外せない用事があったのだ。

 不登校ではあるものの、私は別段、不健康な生活を送っていたりはしない。朝は七時過ぎにはきるし、朝食も両親と同じくらいの時間に食べる。歯磨きをしたり洗い物をしたりしているうちに、二人はそそくさと準備を整えて家を出る。それを見送った後、ぼちぼち着替えて自転車で近所の図書館に行く。午前中は勉強をして、昼過ぎになったら家に戻ってお昼を食べる。

 食器を洗った後は、しばらくはテレビを眺めたりしてぼんやり過ごす。その次の選択肢は日によりけりで、勉強するときもあれば、本や漫画、スマホなどに時間を溶かすこともある。バイトがある日はバイトに行く。でも今日は、そのどれにも該当しない日だった。

 制服に着替え、リュックサックに提出するプリントと筆箱を放り込む。普段はつけないマスクを付けて、外に出る。自転車に跨って、一駅先の高校へと向かう。

 時間的には五時間目が終わるか終わらないかというくらいで、高校生が下校を始めるにはまだ早い時間帯。なんとなく人目を気にしてしまうのは、そのためだろうか。雑居ビルや商業ビルが犇めく表通りを走ることはせず、人通りの少ない道を選んで自転車を走らせる。

 学校は、小高い坂の上にある。裏門から入るときは緩やかな登り坂なのでそれほど苦労しないのだけど、正門からとなると話は別だ。急峻な坂道を登らせられることになる。他の生徒達は毎日この坂道を登板しているのかと思うと、少しだけ気の毒になる。

 裏門を使わないのには三つの理由があった。駐輪場があるのは正門側だからだというのと、裏門からだと校舎に移動する際、グラウンドにいる生徒から丸見えになるという事情。そしてなにより、私が合うべき人物はいつもその近辺にいるからだった。

 正門左手の駐輪場に自転車を置き、しかし正門には入らずに、右手にある隘路に足を踏み入れる。両脇を藪に覆われた、見通しの悪い獣道。ほんのりと、焦げ臭い匂いが鼻孔をくすぐる。

 視界が開ける。景色手前ずらりと並ぶ住宅やアパートの群れ。その中央をすぅ、と横切るJRの高架線。海浜の工場群が灰色の煙を吐き出して、遠方の景色を朧気なものにしている。

 そしてすぐ目の前も、ゆらめく煙草の紫煙でほんのりと霞んでいる。

「遅いよ青井。昨晩、今度こそはと禁煙の誓いを経てたばっかりなのに、一日と経たずに破っちゃったじゃんか」

「隠れて喫煙するのにおあつらえ向きの場所で待ってるのは、山口先生ですよね」

「これは不可抗力。校舎には入りづらいんじゃないかって、気を回してる結果だから」

 心外だと言わんばかりに渋面し、ポケット灰皿に吸い殻を突っ込む山口先生。蓋をして、よれよれの白衣のポケットに雑に突っ込む。

「それより青井、出すもの出して」

 ほれほれ、と手を突き出してくる山口先生。私はクリアファイルごと、リュックサックに入れてきたプリント類を手渡した。

 先生がプリントを検分している間、なんとなしに先生の容姿を観察する。髪型は綺麗に切りそろえられたボブカットだが、前髪は作らず左右に流している。金縁の丸メガネをかけているけれど野暮ったい印象はなく、あくまで知的な印象を受ける。身長は平均的だから、私からは自然と見下げる形になる。

 チェックを終えた先生が、「じゃあこれは渡しておくから」とクリアファイルを脇に抱える。 代わりに新しいクリアファイルを渡されるので、鞄にしまう。

 山口先生は、去年に引き続いて私が所属するクラスの担任を務めていた。週に一度、教科毎に課されるプリントの受け渡しを担当しているのも、それが理由だ。

 いつもならこれで要件は完了し、じゃあまた来週、と分かれているところなのだけど、今日は違う。それじゃ行こうか、と口にして、山口先生が踵を返す。私のことを追い越す瞬間、煙草と薬品の混じり合った匂いが香り立つ。マスク越しだから、微かにだけど。

「そういえば先生、煙草の銘柄変えました?」

「……なんでわかったの?」

「匂いが違いましたから。私、そういうの敏感なんです」

 へぇすごい、と山口先生が素直に感心する。私は、なんか変態っぽい返しだったかな、と少しだけ後悔した。人の匂いに敏感だなんて、なんかこう……、ねぇ?

 下駄箱で靴を履き替えて、廊下を進む。まだ六時間目の授業中だから人気はない。二人分の足音に加え、教室の前を通る度に授業の音が漏れ聞こえてくる。

 一階にあるのは一年生の教室だ。無意識に顔が俯きがちになる。そのくせしてチラチラと教室の様子を覗き見てしまう自分に気づき、意識して視線を爪先へと固定する。

 今日バイトに行かないことを、私は蓮に伝えていない。蓮から生徒会選挙に出るよう迫られたのが、水曜。先生から電話がかかってきて、バイトに入れなくなったのが木曜なのだ。私と蓮は未だに連絡先を交換していないから、伝える術がそもそもなかった。

 だから、しょうがない。自分にそう言い聞かせつつ、人のいない廊下を俯きがちに歩く。

 並行に三つ並んだ校舎は、各階の中心を渡り廊下で結ばれている。渡り廊下との接続部付近には教室はなく、ちょっとしたホールになっていた。左に曲がれば、目的地である化学実験室のある棟に出る。が、九十度回転しようとしたところで足が止まった。段ボール箱で作られた、安っぽいボックスが視界に入ったのだ。上げた視線の先には、生徒会選挙の立候補者募集の張り紙。並べて貼られた封筒からは、届出書の用紙の頭が覗いていた。

「青井? どうかした?」

「……いえ、なんでもありません」

「幽霊でも見たの? 確かあそこのトイレには、自殺した生徒の霊が出るとかいう噂が――」「私、ホラーは耐性あるので、からかっても面白くないですよ」

「なんだ、つまんないの」

 詮方無い話をしている内に、実験室に到着する。中に入ると、私は黒板側の出入り口扉から一番離れた机、つまり廊下からは一番見えにくいテーブルに鞄を置いた。机上には既に実験器具と手順を示したプリントが用意されていた。早速、プリントに従って装置を組み上げていく。

 学校の勉強には座学の他にも実験や実習、作品制作などの、学校の設備や道具がなければ行えないものもある。そういうものは基本的にレポートで代替してもらっているのだけれど、理科の実験だけは、生徒のいない時間帯にやらせてもらうようにしていた。

 私は、大学では理系の学部に進みたいと思っている。受験自体は座学ができれば問題ないだろうけど、実験に不慣れだと入学した後に苦労するだろうから。周りが身に着けているスキルを自分だけ身につけないのには、なんとなく抵抗がある。

 今回の実験は一度セットアップを組んでしまえば、あとは変化の様子を観察するだけのものだ。突発的な変化を呈するような実験ではなくて、数分おきに溶液の様子を記録すればいいだけ。よって、実験中は意外と暇を持て余す。

 ごーっと音を立てながら、ガスバーナーが青白い炎を発する。セピア色の陽光が射し込む教室の中、私と先生は焚き火を囲うかのように、バーナー越しに向かい合っていた。

「それにしても、青井は偉いね。勉強熱心で。課されたプリントは全部こなすし、放課後、自主的に実験までやりに来るんだからさ。近年稀に見る勤勉な生徒だよ」

「……別に、熱心ってわけでは。単に、焦ってるだけです。勉強くらいできるようにしておかないと、他の人達にありとあらゆる点で差をつけられてるみたいで、不安だから」

「だとしても立派だよ。不安とか焦りみたいな後ろ向きな感情を、前向きな取り組みに昇華させてるんだから。盗んだバイクで走り回られたりするよりは、よっぽど助かる」

 私が返答に困っていると、先生が声色を少し硬いものにして、あのさ、と話題を変えてきた。

「一つ、真面目な話をしてもいい? 通信制に転入するつもりっていうのは、本当?」

 脳裏に、黒髪の少女の姿が蘇った。その幻影を振り払うように、こくんと首を縦に振る。

「はい、そうしようと思ってます。まだ、具体的なことは決めてないですけど」

「出席日数が足りないっていうんなら、保健室登校なんて手もあるけど」

「保健室は怪我や病気をした人たちが使う場所じゃないですか。そこに居座るのは、ちょっと」

「じゃあ、私の部屋に来る?」

「は? 先生の部屋、ですか?」

「そそ。化学準備室。他の奴らは職員室に追い払ってやるから、二人で一緒に使おうぜ」

 いたずらっ子のように、ニヒヒと屈託なく笑う山口先生。私は虚を突かれた心地になった。

「……遠慮しておきます。出席日数が確保できても、教室で授業を受けない限り良い成績はもらえないから」

「まあ、そうだよね。青井はこんなに頑張ってるし、テストの点数だっていつもいい。なのに、学校来てないってだけで評価が平均以下になっちゃうなんて、勿体ないもんね。……もうちょっと融通効かせてあげられれば、いいんだけどな」

 優しげに、それでいて憂いげに、先生がそっと目を伏せる。窓から差し込む光は仄かに橙色を帯びていて、先生の長い睫毛が瞳の上にぼんやりと影を落とした。

「あーあ。なんか寂しいなぁ、青井がいなくなっちゃうなんて。私、地味に楽しみにしてたんだよ。週に一度、青井と人目を忍んで逢引するの」

「ちょっと。語弊を招くような言い方しないでくれます?」

「いいじゃん、どうせ私達以外は誰もいないんだし」

「そういう問題じゃ……。まあ、いいですけど」

 なんとなく面映ゆくて、ポリポリと指で頬を掻く。照れ隠しも兼ねて、別の話を振ってみる。

「そういえば山口先生って、今年も一年の化学基礎持ってるんでしたっけ」

「うん、持ってるよ。全体の半分のクラスだけど。それがどうかした?」

「……いえ。なんでも、ありません」

 そう? と怪訝そうな顔をしながらも、山口先生が追求してくることはなかった。

「ねね。暇だから愚痴っていい?」

 また来た。私が実験をしていると、先生はいつも愚痴と称して世間話を一方的に聞かせてくるのだ。先生曰く私は、「話の中身に大して関心ないくせに、つまらなそうにはしない」のだそうで、その塩梅が愚痴る相手に丁度いいんだとか。

「私、今、実験中なんですけど。暇じゃないんですけど」

「でも私はお手透きだから」ぶらぶら、と机上で両手を振ってくる山口先生。「冗長で退屈な化学実験なんかより、私の荒んだハートを癒すほうが大事だとは思わない?」

「息をするように教師とは思えない発言をしますよね、山口先生って」

「私さ、なんか校長に雑用押し付けられちゃったんだよね」サラッと無視された。

「……ふぅん。大変ですね、先生は。やることが一杯あって」

「本当だよ。あのくそオヤジめ。私が若くて頭上がらないからって、足元見やがって」

 面倒くさーい、と子供みたいに足をジタバタとさせる山口先生。でも、唐突に真顔に戻った。しばし私の左斜め後方、つまり扉のある方を眺めた。おもむろに立ち上がると、扉の前まで移動した。ガラス越しに廊下の様子を見やった後、小首を傾げながらこちらへと戻ってくる。

「どうしたんですか? 急に立ち上がったりなんかして」

「いや。さっき、扉の前に誰かが立ってたような気がしたんだけど。見間違いかな」

「……幽霊、じゃないですかね」

「ちょ、やめてよ! 私、そういうの苦手なんだから……!」

 本気で嫌な顔をする山口先生。苦手なのかよ。さっき、自分で嘘言ってきたくせに。

 私としては、幽霊であってほしいという気持ちのほうが強かった。

 実験が終わったときには、既に時刻は午後五時を回っていた。放課後の校舎に人影はまばらだ。大抵の生徒は下校するか部室や練習場所に移動するかしているので、人とすれ違うことはあまりない。でも、全くの無人というわけでもなくて。

 女子生徒二人が、仲良く談笑しながら歩いてくる。廊下は一方通行なので、脇に避けることもできない。顔を固く俯けて、だけど耳はそばだてて、二人の会話の内容を盗み聞く。

「今年の立候補、何人になると思う?」

「さあ。でも何人だろうと関係ないわ。次期会長は朝顔で、副会長は私で決まりだもの」

「会長じゃなくて副会長なわけ? 自信があるんだかないんだか」

「だって、事実でしょ。仮に私が副会長になったとしたら、そのときは辞退するわ」

 話の内容が自分には関係ないとわかって、ホッと胸を撫で下ろす。が、引いた波が押し寄せてくるように、今度は自己嫌悪に襲われた。自分がひどく浅ましい行いをしていたようで、ばつが悪かった。

 というか、会話の内容から察するに、この二人って。

 ちら、と。前髪の隙間から前方の二人の姿を確認する。ああ。やっぱり生徒会の二人だ。右側の二つ結びの生徒は、比良朝顔。今の生徒会の書記であり、不登校の私でさえ認知しているほどの有名人。そしてその隣が、名前は忘れたけど同じく生徒会役員の子だ。

 比良ともう一人の生徒会役員は、廊下の中央付近を小走りで駆けていく。私は肩を縮こまらせて、必要以上に距離を取りながらその二人とすれ違った。

 下駄箱の方に移動しようとしたところで、左肩を壁にぶつけた。あいた、と小さく叫ぶ。大した痛みはないけれど、面映ゆいような、苦々しいような心象に襲われて、唇を軽く噛む。

「先輩って、実はドジっ子属性持ちだったんですか?」

 反射的に顔を上げる。佇んでいた人物は当然、柳の下の幽霊などではなくて。

「そんな隅を歩いてるからですよ。他に誰もいないんだから、もっと真ん中通ればいいのに」

「……蓮。もしかして、ずっと待ってたの?」

「まあ、そうですね。なんか、入っちゃいけなそうな雰囲気だったので」

「……その、ごめん。今日はバイト、行かないつもりだったの。実験することになったから」

 嘘は吐いていない。でも、真実を伝えてもいなかった。実験くらい、来週や再来週に延期したって良かった。だけど私は、その選択をしなかった。

 逃げたのだ。蓮に面と向かってノーと告げるのが、気まずくて。

「構いませんよ。連絡先、交換してませんでしたから、仕方ないですし。それより、考えてもらえましたか、立候補の件」

「……それさ。やっぱり、無理がない? 不登校が、生徒会役員を目指すだなんて」

「無理かどうかは訊いていません。私は、先輩の意志を訊いてるんです」

「……私の気持ちとか、関係なくない? だって、不可能なものは不可能でしょ。たとえば、生身で空を飛びたい人間がいたとする。その人は自力で空を飛べる? 無理でしょ。飛行機とかグライダーとか使わない限りは。それと同じだよ」

「いいや、同じじゃないですね。これは私の持論ですけど、物事の可能不可能は事実によってのみ定まるんです。空を飛ぼうとして失敗した人たちは沢山います。その失敗があるからこそ、人間が生身で空を飛ぶのは無理だとわかった。だけど私が知る限り、不登校のまま生徒会選挙に立候補した人間はいません。前例が一つもない以上、わからないじゃないですか。本当に不可能かどうかなんて」

 ……こいつ、やっぱり弁が立つ。明らかに暴論なのに、どうしても上手く否定できない。

 ああでもない、こうでもない、と蓮を言い包めるための理屈を考えていると、次第に腹が立ってきた。屁理屈捏ねるのもいい加減にしてよ、なんで察してくれないんだよ。

「先輩は、本当にそれでいいんですか? 不利益を被ったまま、のこのこと逃げ帰るような真似をして。恨みとか心残りとか、そういうの一切ないっていうんですか?」

「っ、ああもう、しつこいなぁ……! さっきから鬱陶しいんだよ、蓮は……!」

 思った以上に大きな声が出て、驚いた。慌てて周囲を見渡して、誰もこちらを見てないことにホッとして、周りを気にしてビクビクしてばかりの自分になんだか無性に嫌気が差して、諸々の負の感情が蓮に対する怒りや憎しみに転じて、口先から泥のようにあふれ出した。

「恨み? 心残り? そんなの……いくらでも、あるに決まってるでしょ。成績表をもらう度、いっつもふざけんなって思ってたよ。なんで学校来てないってだけで、私より点数低い奴らに評定で負けなきゃいけないんだろうって。実験室を使えなくなるのだって困るよ。会えなくなるのが嫌な人もいるし、親にだって申し訳が立たない。でもさ……仕方ないんだよ。私は、不登校なんだから。教室行きたくないんだよ。皆と一緒に登校したくないんだよ。そんな人間が生徒会選挙に立候補とか、どう考えても無理だって。大体、出たところで勝てるわけ――」

「いいえ。勝たせます。私が、先輩を勝たせます」

 蓮が、私の身体を両腕で挟みこむように、両手を力強く壁に叩きつけてきた。

 顔が、近い。獲物を捉えた爬虫類のように、炯々と光る双眸を真っ直ぐに向けてくる蓮。黒曜石のような、深い黒色をした瞳。すっと伸びる睫毛は長く、くっきりとしていて、湛えられた意志の強さを体現しているかのようで、その獰猛さに私は飲まれる。

 ドクドク、と。沸々と込み上げる憤りと反感で、心臓が熱い血液を全身に輸送する。

「勝たせるって、なに、馬鹿なこと……。そもそも、どうして蓮は私を選挙に出させようとするわけ? 私が生徒会に入ったところで、蓮には、何のメリットもないじゃん」

「私、曲がったこととか道理の通らないこととかが嫌いなんです。私は、先輩が学校を辞めざるを得ないような体制が、おかしいと思う。だから変えたい。それだけの話です」

「なら、自分が来年出ればいいじゃん。今すぐに変える必要もないでしょ」

「駄目です、それじゃ。先輩が学校を辞めてからじゃ、遅いんです」

「……そんなの、蓮には関係ない話じゃん」

「そんなことないです。私は、先輩と話すのが好きです。好きな相手と同じ高校にいたい。少しでも多く繋がりを持っていたい。そう思うのは、そんなにおかしなことですか?」

 あまりにもストレートにぶつけられた好意を前に、心臓が麻痺したように息が止まった。

 途方に暮れた心地で蓮の右腕をゆっくりと横に押しのける。脇に避けて距離を取り、顔を足元に伏せながら、言う。

「……距離、近い。そういうことするの、やめて。苦手だから」

 ごめんなさい、と素直に蓮が謝罪する。私は大きく息を吐きだす。

「ねえ。私と蓮って、ついこの前会ったばかりだよね。それなのに好きとか、一緒に選挙に出ようとか……本当、わけわからない。何もかも意味不明だよ、蓮は」

 目眩に襲われているかのように、頭の奥がぐるぐる回って考えが纏まらない。眼の前の光景は紛れもない現実なのに、やけに現実感がない。理由もなく顔のいい後輩に絡まれて、選挙に出ようとか言われて、壁ドンされて好きとか言われて。これで混乱するなって方が無茶だ。

「本当に、思い至らないんですか?」

 打って変わって、か細い声で問いかけてくる。こく、と小さく首を縦に振って、私は答える。

「そりゃそうじゃん。私には、蓮の行動理由が何一つとしてわからない」

「そっか。――なら、いいです」

 とん、と。軽やかに、飛び越えるように前に出る蓮。流れる髪の毛から匂い立つ香りは、ミント系。甘くはなく、優しくもなく、けれど蟠るような淀んだ臭気は一切なくて。

「ごめんなさい、夢先輩。意味もなく絡んでしまって。私のことは忘れて下さい」

 今までの全てを、綺麗さっぱり断ち切ろうとでもいうかのように、後を引くものがない。

 一歩ずつ遠ざかっていくその背中を見つめつつ、私は乱暴に右手を額に押し当てた。

 ……ああもう。本当になんなんだよ、あの女は。距離感をわきまえなくて、デリカシー一切なしで、いつもいつも強引で鬱陶しくて馴れ馴れしくて意味不明で。

 なのにどうして――最後の一歩だけは、絶対に踏み込んでくれないんだよ。

「待って、蓮」

 踵を返し、残り香の糸を追いかけるかのように、前に出る。

 それに呼応するかのように、蓮は足を止め、くるりと身体を反転させた。

「……いいよ。わかったよ。そこまで言うなら、蓮。あんたの口車に乗ってやる」

「え。それって、つまり」

「ただし。やるからには、絶対勝たせて。中途半端なことして、学校中の晒し者になるだけの結果にあったら、……蓮のこと、死ぬまで恨み続けるから」

 ただでさえ大きい両目を、更に見開きながら、蓮は無言で私のことを見据えてきた。口元を緩め、「望む所です」と大胆不敵に嘯くと、ガサゴソとリュックサックを漁りだす。

「じゃあ夢先輩、早速ここに氏名を」

 立候補希望届とボールペンを差し出してくる蓮。若干の気まずさを感じながらも受け取ろうとした手が、直前で静止する。だって、いくらなんでもこれは、ねぇ?

「先輩? どうかしました? もしかして、気が変わったとか――」

「いや、そうじゃなくて。……あのさ、蓮。プリントを鞄に直入れするの、やめたら?」

 リュックサックの中で教科書やノートの荒波に飲まれていたのか、あの日見せつけられた用紙はシワだらけになっていた。「クリアファイル使おうか」と先輩らしいアドバイスをかけてみる。すると蓮は、気恥ずかしそうに両頬を赤らめて弁明をし始めた。

「……だって、面倒くさいじゃないですか。そういうのに、いちいち入れるの」

 結局、新しい用紙を取って、改めて名前を記入してからボックスの中へと入れた。蓮の字はあまり綺麗じゃないし、応援人の欄も私が書こうかとも思ったけれど、やめておいた。直筆でなければ駄目なんて注意書きはしてないけれど、こういうのは本人が書くのが筋だと思うから。

 流れで一緒に下駄箱へ向かう。ふと気づく。私、今は廊下の隅を歩いていない。蓮がど真ん中を歩くから、必然、中央寄りを歩くことになるからだ。

 これまでに判明している蓮の弱点は、コーヒーが飲めない、字が汚い、整理整頓ができないの三つ。ちなみに私は、コーヒーはブラックで飲めるし、字も乱雑な方ではないし、どちらかというと几帳面な性格をしている。

 常識はずれのファーストコンタクトから、今日でおおよそ一ヶ月。

 私達って、意外と相性いいのかも知れないな、なんて。

 そんな馬鹿げた考えが、ほんの一瞬でも脳裏によぎったのは、これが初めてのことだった。

 蓮は電車通学だったので、私たちは連絡先の交換を済ませてから、駐輪場で分かれた。

 帰り道。きこきこと自転車を走らせながら、思い立ってマスクを顎下へとずらす。新鮮な空気を肺一杯に吸い込んで、体内に充満した熱を排出するかのように、息を吐く。

 胸の中の蝋燭には、物事の始まりを告げる赤い炎が、音もなく燃えていた。

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