不登校に生徒会は務まらない2
私の心からの願いに反して、次のシフトでも、そのまた次のシフトでも蓮は店を訪れた。ただし今度は、バットもグローブも携えてはいなかった。セーラー服にリュックサックという、今どきの女子高生としてはごくごく一般的な装いでの入店だった。でも普通なのは装備だけ。なぜなら羽賀蓮という女には、白地に青のラインが入ったセーラー服が尋常じゃないほど良く似合うのだ。私の読んでる漫画や小説の世界から飛び出してきたかのような、イデアルな黒髪ロングJK。そんな言葉で表現し得る高校生が、一般的なわけがない。
「あのさ。そもそも蓮って、どこで私のバイト先知ったわけ?」
「職員室で先生から聞いたんです」
うちの高校はバイト禁止ではないけれど、担任への申請が必要になっている。学校経由で知ったというのも、あり得ない話ではない。でも、不可解であることに変わりはない。方法がわかっても、私のバイト先を聞き出す動機が全くもって謎なのだから。店長拘りのコーヒーが目当てじゃないのは、明白だったし。明白すぎて失礼なくらいには。
多分、蓮は私目当てにこの店を訪れている。それはなんとなく察してる。でも、心当たりが一切ない。慕われているというよりストーカーでもされてる心境で、正直言って不気味だった。
だからといって、法律的な正当性を振りかざしてまで追い払う気にもなれない。この店唯一の客である蓮を失って、バイト先が潰れるような事態になっては困る。街を出歩けばアルバイト募集中の張り紙はそこここにあるけれど、日当たりの良いカウンターで文庫本を呼んでいるだけで給料が発生する簡単なお仕事が、そう簡単に見つかるとは思えない。鬱陶しい客の相手をするという業務が追加されつつあるとはいえ、恐ろしく楽なバイトであることには代わりはないのだ。家から近いという付加価値もある以上、この職場を失うわけにはいかなかった。
ところで、蓮の辞書にデリカシーという言葉はない。店員とお客さんという一線を軽々と踏み越えて、プライベートな質問を平然と投げかけてくるのが常だった。私はその度に閉口したけど、零細喫茶店の経営環境を少しでもマシなものにすべく、我慢して相手をしてあげていた。多少、ぶっきらぼうな対応になりはしたけれど、そのくらいはご愛嬌だろう。
「夢先輩って、暇なときいつも小説読んでますよね。文学少女なんですか?」
「そういうわけじゃ。これ、ただの娯楽小説だし。そもそも私、理系だし」
「じゃあ逆ですね。私は文系で、理系はあんまりだから。そうだ。折角だし、今度、数学とか教えて下さいよ」
「いや、なんで私が」
「だって先輩、暇そうだから」
違いますか? と言わんばかりに猫みたいに大きな瞳を差し向けてくる蓮。
繰り返しになるが、蓮の辞書にデリカシーという言葉はない。
でも意外なことに、「先輩ってなんで学校来ないんですか?」みたいな私の逆鱗を右ストレートでぶん殴ってくるような問いかけは、一度もしてこなかった。逆鱗の輪郭を指先でなぞるような発言は繰り返すくせして、最後の最後の一線だけは、絶対に踏み越えてこなかった。
蓮のそういう態度が、私には忌々しくて仕方なかった。弄ばれてるみたいでやきもきした。
そんな蓮が、初めて私の不登校に言及する発言をしたのは、五月の中旬。蓮が初めて店に来てから、三週間がたった日のことだった。
「その関数は、エックスの二乗を変数とする定義域がゼロ以上の二次関数と見ればいいから」
「あ、なるほど。さすが先輩、わかりやすいです」
「あのさ。前から思ってたんだけど、先輩呼びやめてくれない? 私、学校行ってないんだし」
「でも、在籍はしてるじゃないですか。なら先輩は先輩ですよ」
「……けど私、今学期いっぱいでやめようと思ってるから」
蓮が音もなく顔を上げた。私は、床の溝に嵌ったコーヒー前のかすを、爪先で軽く払った。
「退学、するってことですか?」
「通信制に変えようかと思ってて。去年はなんとか進学させてもらったんだけど、今年どうするかはわからないって、脅されたから」
私は自分のことを話すのが嫌いだ。にも拘わらず、このときに個人的な事情を話してしまったのは、退学したら遅かれ早かれ伝わると予想したからでもあるし、……迷惑なことこの上ないけど、一応は私を慕ってくれている蓮に対して、義理を通そうとした結果なのかもしれない。
「そう、ですか。……先輩って、いつから学校行ってないんですか?」
「去年の夏休み明けから。不登校でも、自宅で学習してさえいれば登校扱いにしてくれるって制度があってね。そのおかげで去年は進級できた。でもその制度って、学校に復帰する意志があることが前提だから。今年度も進級させてあげられるかはわからないって、校長に言われちゃって。……いい機会かなって思ってさ。何かと不自由することも多い身分だしね。不登校じゃ授業が受けられるわけでもないし、テストでいい点取っても成績は低くなるし」
いつもはペラペラ話を振ってくるのに、こういうときは黙るのか。おかげで、やけに長々と自分語りをする羽目になってしまった。……ああもう、気に食わないなぁ。
そうなんですね、と相槌を打ったきり、蓮は口を開かない。私もそれ以上は喋らなかった。
蓮と出会う前までは心地よかった静寂が、今は、やけに気詰まりに感じられてならなかった。
その次のシフトのとき、蓮は店に来なかった。シフト中に客が一人も来ないのは、蓮とのファーストコンタクトがあった日以降、初めてのことだった。
私は読みかけの小説を何度も何度も中断し、ボロっちい扉へと目をやった。小説の内容は一ミリも頭に入らなかった。折角、主人公の女の子が同級生の子に思いを打ち明ける、山場だったというのに。
私はため息を一つ吐いて、ブックカバーのついた文庫本をカウンターに置いた。頬杖を付きながら、ぼんやりと窓の外の景色を見やった。
あいつ、風邪でも引いたのかな。金欠って線もあるか。単純に、店に通うのに飽きたのかも。まさか、私が学校辞めるって言ったから……じゃ、ないよね?
確証も確信も持てない推論が、水槽を回遊する水族館の魚のように、ぐるぐると円を描く。
身勝手なやつめ、と。蓮に対する反感が募る時間が、何日か続いた。
蓮が最後に来店してからちょうど一週間後に当たる今日になって、蓮はようやく、私のバイト先に姿を見せた。そして、初来店時のように意気軒昂とカウンターまで歩み寄ると、出し抜けにこう言った。
「夢先輩、私と一緒に生徒会選挙に出ましょう」
「は? 生徒会選挙って、……いや、なんで?」
「先輩、前に言ってましたよね。不登校だと、不自由することが多いって。でもそれ、おかしくないですか? 不登校であっても勉強はちゃんとしてるし、テストだって受けに行ってる。にも拘わらず、学校に来ていないと言うだけで不利益を被って退学しなきならないなんて。そんなのは不平等です。登校しなきゃ必要な教育が与えられない? だったら登校せずとも最低限の教育ができるよう、学校側が環境を整えるべきなんです。それをしないのは明らかに学校側の職務怠慢です。問題を生徒一個人に押し付けて、あまつさえ放逐することで責任を放棄しようだなんて、暴力的な仕打ちにも程があると思います……!」
ガン、と。力強く拳をカウンターに打ち付けて、顔面をぐいと近づける蓮。切れ長の目を真っ直ぐに私の顔面に差し向けて、宣託を告げる預言者のように、朗々と口にした。
「このクソみたいな学校に、革命を起こしましょう。私と先輩の、二人で」
かつてないほどの勢いで捲し立てる蓮を前に、私はただただ呆気に取られる他はなくって。
「悪いけど、注文しないなら――」
「あ、コーヒーお願いします」
そして、物語は冒頭へと回帰する。
お冷で舌先の苦味をリセットし終えた蓮に対し、私は嘆息交じりに話を切り出す。
「そもそも私、別に学校に通えるようになりたいなんて思ってないんだけど」
「そんなこと端から求めてないですよ。私が言いたいのは、不登校だからといって先輩が退学する必要はないだろってことです。登校せずとも卒業できるようなシステムが備わってないなんて、時代錯誤も甚だしいと思いませんか?」
「でも、学校ってそういうものでしょ」
「先輩はコロナ禍をお忘れですか。流行の一年目では、多くの学校がリモート授業を余儀なくされました。だけど、それを理由に進級や卒業を断念した、という話はありませんよね?」
勿論、その記憶は私にもある。今から三年前の二〇二〇年、通っていた中学でも一時期リモート授業が行われていたことがある。あれから三年。現在も変異型が蔓延ってはいるけれど、五類への引き下げや効果的な治療薬の承認により、生活様式は徐々にコロナ以前のものへと戻りつつある。街中ではマスクを着用している人のほうが少数派になっているし、個人経営の喫茶店の店員がマスクなしで接客しても、とやかく言われることはない。
「でもそれは緊急事態というか、やむを得ない措置だったのであって――」
「可能であることには代わりありませんし、何らかの事情があって登校できない生徒のために、同等の措置を取らない理由もありません」
毅然と反駁する蓮を前に、私はう、と言葉に詰まる。
こいつ、無駄に弁が立つ。少なくとも筋は通ってる。極論ではあっても、曲論ではない。
口喧嘩したらクソ面倒くさいタイプだろうなぁ、と心の中で呟いた。
「立候補希望届の締切は、今週いっぱいです。応援人には私がなります。先輩が頷いてくれさえすれば、私は明日にでも、こいつを提出箱に放り込みます」
A4サイズのプリントを眼前に突きつけてくる蓮。応援人の欄には乱暴な走り書きで羽賀蓮と記されていて、その上の立候補希望者の欄だけが空白になっていて、どこか寂しい。
蓮はその後も、熱っぽい語り口で滔々と学校の体制を批判し続けた。来店から一時間半が経過したところで、「とにかく、そういうことです」と蓮は話を切り上げた。
「金曜日、また来ます。そのときに名前を書いてくれたら、私が学校に戻って、責任持って提出しますから、そのつもりで」
カップの中には、冷めきったコーヒーが半分以上も残っていた。蓮はそれを一気に飲み込んで「ゲッホゲッホ……ッ!」泣き出す直前の幼稚園児みたいな表情で、激しく噎せた。
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