マイセルフ
小杳燈露子
第1話
サクサクサクサク。
軽快なリズムととともに玉ねぎを刻んでいると、強烈な痛みを目に感じたまらず目を瞑る。すると、閉じた目の隙間から痛みを絞り出すように涙が零れるが、痛みが和らぐことは無い。涙を流しても痛みを取り除くことは出来ないようだ。
しまった、冷蔵庫に入れておけばよかった
後悔先に立たず。玉ねぎを大量に料理で使う時、事前に冷蔵庫で保存しておく。すると切る時に目が痛くならない。しかし、今回は玉ねぎを冷蔵庫に入れることを忘れてしまい、常温で切ることに。案の定涙が止まらない。
すべて手でみじん切りにする予定だったものの、フードプロセッサーによるみじん切りへ変更。玉ねぎだけでなく、生姜とニンニクも一緒にフードプロセッサーへ。
フードプロセッサーを使えばみじん切りは簡単に作れるものの、準備と後片付けが面倒に感じる。
そして何よりフードプロセッサーを使う事にためらいを感じさせるもの。
ガーーーー。
台所に轟く騒音。フードプロセッサーによるみじん切りの際に発生する音。何故こんなにもうるさい音がするのだろうか。一分もかかっていないはずの時間を酷く長く感じる。
体感時間は長いものの、あっという間にみじん切りが完成する。早速フライパンにサラダ油を加えて熱し、先ほどのみじん切りを炒め始める。すると急激な眠気が襲ってきた。
本日二度目の失敗。先ほど小腹が減っていたので食べてしまったお菓子が原因だろう。
まだ完治とはいかないか
玉ねぎがきつね色になった段階で眠気の限界が超える。
(ゆっくり大丈夫ですよ)
そうだった、焦らず一歩ずつ
料理を中断し、寝室へと向かう。
横になると球速に意識がブラックアウトする。
ガサガサガサガサ。
袋に手を入れてお菓子を机に並べる。
透明な包装紙に包まれた様々なお菓子がテーブルに並ぶ。
声が聞こえる
(まさか本気にしていたわけじゃないよね?)
適当な一つを袋から取り出す。
甘い匂いが鼻をかすめ、胃液が喉にせりあがってくる。
食べたくない。
食べなきゃ
反する思いをかき消すように口いっぱいお菓子を頬張り、胃液を押し戻すように一気に飲み込む。
(ありがとう。君に相談して良かったよ)
役に立つことがあるなら嬉しいと思っていた。でも同時に人の意見に振り回されずに自分らしくいてほしいとも思っていた。例え、その意見が私のものであったとしても。
(そういえば言っていなかったかもしれないけれど、この前結婚したんだ)
祝福したいと思った。彼が幸せになるなら、それを喜びたいと思った。例え、その相手が私ではなくても。
(実は本社への異動が決まったんだ。それでいい機会だと思ってね。)
この先会えなくてもいいと思った。今まで過ごしていた時間は私にとって幸福だったから。それでも私の人生には十分だと思った。
なのに
それなのに何で、私が考えて誰にも話していないはずのアイディアが陳列されているのだろう。
私のアイディアが盛り込まれた商品をコンビニで見かけたのは、彼が異動して暫くしてからだった。
入社直後から少しずつ思い付きのアイディアを書き留めていたノートがあって、彼から相談を受けた際にはそのアイディアノートを見せることもあった。
それまでは誰にも見せることも話すことも無かった。出来なかった。
そのアイディアは本当に思い付き程度で、それだけで商品が出来るような代物ではなかった。だから他の人に話しても偶然、たまたまだと思われるだけだろう。
それでもアイディアは間違いなく私が考えたものだ。だって自分のアイディアだから。私の中から出てきたものだから。私だけはわかる。私だけしかわからない。わかってもらえない。
なぜ
なぜこんな事が出来るのだろう。
私のアイディアが、考えが、気持ちが、感情が、心が売られていく。
取り戻さなくちゃ。
ザクザクザクザク。
いくら食べても満ち足りない。埋まらない。
どれぐらいたっただろうか。ひたすらに目の前のお菓子を食べ続けていたところ、急激な眠気が襲う。
食べる事を辞め、寝室へ向かう。
そうか、私だけが分かっていなかったのか
私はずっと赤の他人どころか人間ですら無かったのだ。なら、人間でないのなら、この掴みどころの無い感情を何と呼べばいいのだろう。私はこの先、この感情が衝動に変わらないようにと、祈ることしか残されていないのだろうか。
ベッドに辿り着くと、倒れこむように横になる。
これで、暫く何も考えなくて済む。
ブクブクブクブクブクブクブクブク。深く沈む。
クンクン。
お菓子が無くなると更に補充するため、コンビニへ買いに行く。
その繰り返しを送り日々の中。ある日コンビニまでの道の途中、微かに鼻孔をくすぐる香りに気づく。
何だろう
スイーツとは違った甘く、それでいて食欲をそそる刺激的な香り。
香りに誘われ、今まで入ったことのなかった裏道を進む。匂いを優先したため結果的に遠回りしながらも、たどり着いた先には一軒のお店があった。
「カレー屋・ペパーミント」
カランコロン。
吸い込まれるように扉を開けると「いらっしゃいませ!」と元気な声が返ってきた。
窓際に数個のテーブル席とカウンター席で構成された小さなお店。
「お好きな席にどうぞー」
何となく他の客から遠いカウンターの奥に座る。メニューを開くとメインであるカレーとサイドメニュー、ドリンクのシンプルな内容。
ビーフカレー、ポークカレー、チキンカレー、シーフードカレー、野菜カレー、スペシャルカレー、お家のカレー…
(おねえちゃん!今日のごはんはカレーライスだって!!)
「お決まりでしょうか?」
顔を上げると、カウンター越しの店員さんと目が合う。いつの間にか水が置かれていた。急いでメニューに目を戻し、注文を伝える。
「あっ、えっと。じゃあ、この『お家のカレー』で。お願いします。」
「はーい。」
壁にかかった時計は14時の少し前であることを示していて、数名の客が食事を食べ終わろうとしていた。
窓からは午後の柔らかな日差しが差し込んでいて、十分に日干しされた直後の布団に包まっているような暖かな空気が満ちている。
「お待たせしました。『お家のカレー』です。」
ほんの少しの間のような気がしていたが、どうやらぼんやりしていたらしく気づくと注文したカレーが目の前に置かれていた。
『お家のカレー』は、ジャガイモ、ニンジン、肉の入ったオーソドックスなカレーライスといった風体だ。
けど、やっぱり「家の」カレーとはちょっと違う。
少しがっかりしながらも、期待していた自分に気づいて少しだけ笑う。
味はどうだろう?
スプーンですくって口へ運ぶ。
(やったー!ボクおかあさんのカレー大好き!)
味もやっぱり「家のカレー」とはちょっと違う。違うんだけれど、なんでこんなに。
「あれ。お客さん大丈夫ですか?」
気づくと店員さんが目を丸くしてこちらを見つめていた。そこで初めて自分が泣いていることに気づく。
「もしかして辛かったですか?」
心配そうに見つめている。
「いえ。そうじゃなくて、ただ…」
言葉が浮かばない。目の前の顔を見ることが出来ない。
「あの、お…」
もう帰ろうとしたとき、目の前に白い飲み物が入ったグラスが置かれた。
「良かったらどうぞ。辛さが和らぐと思いますよ。」
顔を上げるとにこやかな笑顔がこちらに向けられていた。
「あっ。サービスですのでご心配なく」
小さな声でそう伝えると、カウンターの向こうに移動して行った。
私はほとんど手付かずのカレーに目を戻し、ゆっくりと食事を再開した。
私が食事を終える頃、店内に他の客はいなくなっていた。
「よかった。辛さ大丈夫だったみたいですね」
きれいに平らげられたお皿をみて、店員さんが話しかけてくる。
「先ほどはすみませんでした。あれは辛かったわけではなくて…」
「そうなんですね。じゃあ、ご実家のカレーと味が似ていたとか?『お家のカレー』は自宅で作るカレーライスを意識していて、似てるって言われること結構多いんですよ!」
「いえ、味も似ていたわけではないのですけど…」
そう。見た目も味も「家のカレー」とはちょっと違う。けれど。
「すごく懐かしい気持ちになったんです。それで気づいたら泣いていたみたいで…」
店員さんが少し驚いた顔をしている。
取り繕うように言葉が零れる。
「あのっ。実は最近ずっとコンビニのお菓子ばかり食べていて。最初はやけ食い?みたいな感じだったんですけど、今は食べたくなくても食べなきゃいけない気がして。食べずにいられなくて。辞められなくて…。それで、今日、久しぶりにご飯を食べた気がしました。だから、だと思います。」
私は何を話しているのだろう。初対面の相手に。
取り繕うどころか墓穴を掘ってしまう。赤の他人に現在の自分の恥部を話すという醜態を晒しまた顔を上げられなくなる。
顔を見なくても今度こそ困惑が伝わる。
「あー。何か、甘味料には依存性があるらしいって聞いたことがありますよ。だからかもしれませんね。」
そうだったのか。知らなかった。
「でも今日みたいに他の物を食べておなか一杯にしていれば、甘いものも食べられなくなって、依存も消えるかもしれませんよ」
顔を上げると少し困惑が浮かんでいる。
「また食べに来てください。」
けれど、やっぱり笑顔が向けられていた。
しかし、すぐにまた表情が曇る。
「あっそういえば、辛味にも依存性があるって聞いたことあったな。そうなると今度は辛い物しか食べられなくなっても困るなぁ」
そうなのか。依存から依存へ。もう、そんな風にしか生きていけないのかもしれない。
糸口が見えていただけに、周囲の色が失せていく。
「そっか。わかった!」
私の気持ちを対照的に、店員さんは何かに気づいたような表情を浮かべていた。
「お客さん、さっきのカレー美味しいって言ってくれましたけど、もっと美味しいカレーがあるんです。」
そして、少しいたずらっ子のような表情を浮かべながら店員さんは言った。
「世界で一番美味しいカレー、食べたくないですか?」
ザー。ザー。ザー。
目が覚めて台所に向かうと、弟が玉ねぎを炒めていた。
「おはよう。玉ねぎ、飴色でいいんだろ?」
「ありがとう。うん。飴色でお願いします。」
手元のフライパンをのぞき込むと、玉ねぎはほとんど飴色になっていた。
弟は私を振り向くとトマト缶を指さす。私が頷き返すと、トマト缶を開け半分の量をフライパンに入れて玉ねぎと混ぜ合わせる。
その横で私は香辛料を取り出しフライパンに注いでいく。
(世界で一番美味しいカレーに巡り合いたいと思った場合、その最短ルートは自分で作ることなんです。何故なら「一番美味しい」を知っているその本人だからです。)
店員さんは実は店長で料理長でもあった。
(だから、自分で美味しいを追求しながら作ったカレーは自分にとって「一番美味しい」カレーになるのです。)
なんだか楽しそうに。
(そして、自分が作ったカレーなら体調に合わせて、辛味や香辛料を調節出来ます。この方法なら依存症にならずにカレーを食べていけると思います。)
なぜだか誇らしげに。
(ただ、カレーは奥が深いですからね。究極の一品に辿り着くのは難しいかもしれません。でも焦らずともゆっくりで大丈夫ですよ。)
そして何より優しかった。
「焦らず一歩ずつ」
怒り、悲しみ、憎しみ、虚しさ、絶望。
やり場の無い感情が調味料と一緒にフライパンの中に消えていく。これから世界で一番美味しいカレーを目指して煮込まれていくのだ。
「あれ、具は?」
弟の質問には答えず、冷蔵庫から取り出した具材を弟に見せる。弟も無言で親指を立てる。
カット済みのニンジン、ジャガイモ、肉を鍋に入れて蓋をする。あとはじっくり煮込むだけ。
作業がひと段落してお茶でも入れようとしていたら、質問が飛んできた。
「今日は何時間ぐらい寝たんだ?」
「えっと、4時間ぐらいかな?昼食後に作り始めたんだけど、なんとか夕飯に間に合いそうで良かった。手伝ってくれてありがとう。ごめんね。」
「いいよ。それより前より大分短くなっている。良かったじゃん」
弟にはいつも迷惑をかけてしまって申し訳ない。
感情が表情に出てしまったのだろうか。弟は一段明るい声で続ける。
「でも、これからこの前食べたカレーより美味しいカレーが食べられるっていうなら、手伝ったことをチャラにしてやってもいいかな」
弟の気遣いに遠慮なくのせてもらい、私も声のトーンを上げる。
「うーん。前回より美味しいカレーを目指して作ってはいるけれど、一番美味しいカレーは作れないかな」
私の雰囲気が変わったことを察して弟も幾分安心したように続ける。
「まあ、母さんのカレーは越えられないだろうな」
その言葉に誇らしげに答える。
「いや、お母さんのカレーは美味しいけれど、もっと美味しいカレーがあるの」
「は?あるわけねーだろ」
本当にお母さんのカレーが好きなんだな。半分本気でイラっとしているのが伝わってくる。
しかし、弟のそんな態度もどこ吹く風、少しいたずらっ子のような表情を浮かべながら私は言った。
「世界で一番美味しいカレー、食べたくない?」
マイセルフ 小杳燈露子 @koharubi-tsuyuko
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