第26話

 足の痛みは引くどころかさらに強まり、爛れたところは焼かれた鋼のように赤く熱くなっていた。

「熱い。足が焼けている。銀、わたくしの足はもう駄目かもしれない」

「待っていろ、仙人は聖水を持っているはずだ。それをかければ……」

 そう言って屋敷内を探し回った。厨の隅で蓋がされた水瓶を見つけた銀は、中を確かめた。その匂いを嗅ぐと銀には分かるらしい。

「たぶんこれだ」

 そう言って、ひしゃくで掬った水を自分の人差し指にかけた。ジュッ、と音がして銀の指からは白い煙が細く昇る。

「何をしたのです?」

「俺には聖水は毒のようだ」

 銀の白い指は赤くなり、やけどをしているようだ。その水をりんの爛れた足にかけると熱さが嘘のように引いていく。

「どうだ?」

「痛みが和らぎました。ありがとう」

 鈴は何やら嫌な汗をかいていたことに気が付いた。あれは毒ではない。人の怨念が、鈴の身体に取り憑こうとしていたのかもしれない。


 仙人が留守になったこの山が、あのようなものの侵入を許したのだろう。仙人がいない今、また山へ何者かが侵入してくるかもしれないと、鈴は思った。銀はというと、もう何事も起こらないと思ったのか、屋敷の外で子猿と戯れていた。獣の勘は鋭いもので、鈴が今朝、嫌な気を感じる前に姿を隠していた。あの子猿も今ああしていられるのは、安全である証拠かもしれない。


 陽が落ち、静かな夜を迎えた。

「月が見たいのだ」

 銀はそう言って、屋根に上った。銀は夜、寝床におらず、外で月を見ていた。


 朝陽が昇り始めた頃、鈴は目を覚ました。

 銀は夜通しの番をしていたのだろう。今はよく眠っている。


 昨日の不気味なものを見てから、鈴は食欲がなく、何も口にしていなかった。そのせいで、今はとても腹が空いていた。しかし、寝ている銀を置いて、外に出る気にはならない。もちろんあんな化け物がまた現れようと、銀は殺られやしないだろう。けれど、鈴は少しも離れていたくはないのだ。このような綺麗な顔を見ているだけで幸せを感じていた。そのとき、不本意にも、腹の虫を鳴らしてしまった。聞こえていなければいいと思ったが、銀はピクリと鼻を動かし目覚めた。

「腹が空いたのか?」

「……」

 鈴は少し恥ずかしくなって、無言でコクリと頷いた。

「そうか」

 銀はそう言って、沢へ向かった。しばらくして、魚と小枝を手に持って帰ってきて、

「これを焼くのだったな?」

 と言いながら、屋敷の表でしゃがみ込む。鈴はどのようにして火を起こすのかが気になっていた。それを確かめるため、銀のそばに行くと、シュッ、何かが強く擦られたような音がした。火花が散り、小枝に飛ぶ。それに息を吹きかけると炎が生まれた。

 擦れたものは銀の爪のようで、そこから火花が出たのだと分かった。


「鈴。足はもう良いのか?」

「ええ。傷はもう痛みません」

 鈴が足に目をやると、焼け爛れた部分にはもう赤みはなく、かわりに皮膚が引きつっている。

「そうか」

 銀も鈴の足に目をやると一言そう言った。それからしばらく、二人は黙って火を見つめた。バチバチと小枝のはじける音、風のそよぎに若葉が微かに鳴る。鈴は醜い痕の残る足が銀に見えないようにしゃがんだ。


 香ばしく焼きあがった魚を、二人は静かに食べ始めた。

「焼いた魚もうまいのぉ」

 銀は屈託のない笑顔で、魚にかぶりついている。鈴は気持ちが落ち込んでいた。何も話す気にはならない。それを気にしてか、銀は独り言のように喋る。

「やはり、そのままより焼いた方がよい」

 銀のそばに小鳥が一羽降り立ち、土をついばむ。

「そんなもの食っても旨く無いだろう?」

 銀は小鳥に向かってそう言い、魚をちぎって放る。小鳥は少し様子を見るようにきょろきょろと首を回し、魚のかけらを咥えると、こずえへと舞い上がった。身を隠して安全なところで食べるのだろう。

「鈴、もっと食え」

 鈴が一つめの魚を食べ終えるのを見て銀が言った。

「いえ。わたくしはもう……」

 醜い足のことを考えると、鈴はこれ以上食べる気にならない。悲しくなって涙があふれてくる。

「泣いておるのか?」

 銀は、火を消し、鈴を抱き上げた。裾がはらりとめくれ、隠していた足が露わになった。それに気付き、銀は裾を直し、そのまま屋敷へ戻った。


 茶の間で鈴を降ろすと、足の傷跡を手で撫でた。鈴はすかさず足を引く。

「やはり痛むのか?」

「そうではありません」

「では、どうしたのだ?」

「醜いものを見られたくないのです」

「足の傷のことか?」

「そう」

「我は醜いとは思わない」

「わたくしは醜いと思います」

 鈴はもう耐えられなかった。傷のことに触れてほしくない。しかし銀は、その傷に手で触れ、頬をつけて、愛おしむように唇を寄せた。

「やめて! それに触れては駄目。あなたが穢れてしまう」

 鈴が身体をよじると、着物が僅かにはだけ、帯が緩む。

「何をそんなに怖がっておる。お前は清らかだ。傷が醜いこともない。我が穢れることもないのだ」

 銀は鈴に唇を重ねた。

「……」

「我はお前のすべてが愛おしい」

 銀の腕が優しく鈴を包む。その手は髪に触れ、頬に触れ、背中に……。どこを触れられても、心地よい刺激に身体が微かに震える。

「わたくしもあなたを愛おしいと思います」

 思わず鈴も言葉にしてしまった。女子おなごがそのようなことを口にするなど、はしたないこと。しかし、その想いは止められるものではなかった。二人の想いが重なり、融けあい、愛を確かめ合うように絡み合った。今の鈴にはもう何も考えられない。ただ彼の肌の温もりと、香りと、優しさだけがあれば何もいらない。銀との愛の交わりに、鈴はとうとう気を失った。


 鈴が気を取り戻したのは、もう陽が高く昇った頃だった。銀は隣で眠っているようだ。微かな寝息が聞こえる。二人とも何も身に着けていなかった。明るい陽の中では、それがあまりにも淫らな気になり、急いで着物を着た。寝ている銀の艶めかしい白い肌に、鈴はしばらく見惚れていた。

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