第22話

りん、もう行かねばならぬ」

 銀はそう言って、鈴の肩に手を置いた。おん婆が小屋から出て、

「丑寅の方へ」

 と手で方向を示した。銀は頷いてそちらの方角へ走り出す。鈴もそれに続いた。朝陽の眩しい光の中を銀は走り続ける。髪がきらきらと輝くのを、鈴は見惚れていた。山の尾根伝いに二人は休むことなく走り、そのうち陽も高く昇っていく。


 鈴はもう体力の限界がきていた。土を踏む足に力が入らない。走っていた勢いで転がった。体中に鈍い痛みと気だるさが広がる。

「鈴!」

 その様子に気付き、銀が走り寄る。気が遠くなるその中で、彼が抱きすくめるのを感じた。


 気が付くと、水の流れる音と水を含んだ清らかな風を感じる。

「鈴、気が付いたのだな?」

 銀は沢の中にいた。身体には何も身につけてはいない。

「腹が減っているのではないか?」

 銀はそう言って、魚を捕まえて水から上がった。鈴は目のやり場に困り、下を向くと、

「それとも、身体の具合が悪いのか?」

 銀はより近づき、心配そうに聞いた。

「いえ。そうではない。そのような格好でわたくしの前に……」

 鈴は紅潮した顔を手で覆った。

「着物は洗って、そこに干しているのだ」

 裸を見られることに、何の恥じらいもなく、銀は魚にそのまま頭からかぶりついた。

「お前も食え」

 そう言って手渡されたが、鈴にはそのまま食べることが出来ない。

「どうしたのだ? 腹が減っているのだろう?」

「このままでは食べられない。魚は焼いて食べるもの」

「そうか。焼けばよいのだな?」

 銀はそう言って、雑木林の中に入り、小枝を集めて来た。どのように火を起こしたのか分からなかったが、間もなく小枝は赤々と燃えだした。細い枝に魚を串刺し、火炙る。ほどよく焼けたところで、

「これでどうだ? 食えるだろう」

 と、香ばしい匂いの魚を鈴に手渡した。

「ありがとう」

 熱々の魚をほおばる。思えば自分はいつから食べていなかったのだろう? 鬼である銀は何日も食べなくても平気なのかもしれない。

「もっと食うだろう?」

 銀は嬉しそうな顔で魚を捕まえて串に刺していった。

「わたくしはそんなに食べられぬ」

 鈴の喜ぶことをしたいのだろうが、少し度が過ぎている。もう十本以上は串に刺していた。

「そうか。もうよいのか。しかし、たくさん食わぬと、また倒れてしまうのではないか?」

 鈴は結局、腹が苦しくなるまで食べる羽目になった。これではかえって動けない。しかし、このような時間が久しぶりな気がする。銀は腹ごなしのためか、沢でなにやらしている。

「鈴も一緒に水を浴びぬか?」

 楽しそうに、水と戯れるさまは、まるで童子そのもの。

「わたくしは後で浴びる」

 鈴がそう言うと、

「誰も見ておらぬ」

 鈴が人目を気にしているのだろうと思ったのだろう。

「嫌です。あなたが見ているもの」

「気になるなら、背を向けているから」

 そう言って、銀は少し離れたところへ行き、岩陰にいる小動物に水をかけて揶揄った。それを見て、鈴は着物を脱ぐと水に足をつけた。冷たい水が疲れた身体から熱を奪う。身体を洗うのもいつぶりだろうか。鬼とのかかわりが、より深いものになって、今は鬼を追う側から追われる側へと変わり、奇妙な感覚だった。銀の方へ目を向けると、先ほどの言葉通りに、背を向けたまま、あちらこちらに水を飛ばしては笑っている。迷惑そうに飛ぶ小鳥と、濡れた身体をぶるぶると震わせている子猿。銀と戯れる動物には、鬼を恐れる様子など微塵もない。銀は鬼というより、やはり人に近い。そんな穏やかな時間を過ごせたのもつかの間、銀は何かを感じたのか、沢から音もなく跳躍し、鈴のそばに来た。

「着物を着ろ。何か来る」

 銀はそれほど慌てた様子ではないが、神経をどこかに集中しながら、着物を着ている。鈴もそれに倣い、何かの気配のする、雑木林の奥に目を凝らした。それはゆっくりと近付いてくる。ガサリ。朽ち葉を踏む音がして、木々の中から現れた者は……。

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