第10話

 その日の夜。りんは床に就かずに、一人で屋敷の屋根の上で、月の良く見える空を見上げた。

「美しい月じゃのぅ」

 鈴の隣には、知らぬうちにあの金の鬼が腰を下ろしていた。

「お前、いつの間に? 気配が感じられないなど、お前が初めてのこと」

 驚きはしたが、この鬼を恐ろしい化け物とは思えなかった。

「鈴、と申したな? 雪という女を知っておるか? 似ておる……」

「お前と言葉を交わすのは、初めてではないような気がするが?」

「今朝も会うたではないか。忘れてしまったのか?」

「そうなのですか? わたくしは覚えていないのです。母のことも話したでしょうか? 雪というのは母の名です。お前は母を知っているのですか?」

 金の鬼は、美しく怪しい目で鈴を見つめた。鬼は鈴の中に雪を見ているのか? それとも他の何かを探しているのか。

「わたくしは母の顔を知りませぬ」

 それを悲しいと思ったことはなかった。だが、見た事もない母に似ていると言われても、自分にはよく分からないことが切なかった。

「雪は死んだのか? 人というものは脆くて儚い……」

 そう言って、鬼は空を見上げた。雪の死を知って、悲しんでいるのかも知れなかった。

「金の鬼よ。わたくしに会いに来たのは、それが聞きたかったからか?」

 鈴の中では嫉妬のような感情が湧いてきて、胸を締め付けた。初めての感覚で、鈴にはそれが何なのか、その時にはまだ分からなかった。

「それだけではない。お前に興味があっての。女子おなごの身で鬼を相手にするとは勇ましいこと」

 金の鬼はそう言って、鈴を包むように優しく抱いた。懐に抱かれた鈴は、その温もりと何やら正気を無くしてしまいそうなほどの芳しい香りで、我を忘れ堕ちていった。


「よう、じじい。悪いな、そいつは我のものだ。手を出さないでくれ」

 鈴は朦朧とした意識の中で、銀色に輝く何かを見た。



 いつもと変わらぬ朝を迎えた鈴は、夕べのことを思った。確かに金の鬼の腕に抱かれ、着物を脱がされていったが、その後のことが良く思い出せなかった。

「あれは、夢だったのだろうか?」

 鈴はふわふわした気持ちから、未だ抜けられずにいた。

「鈴、起きているのか?」

 障子越しに声をかけてきたのは正尚まさなお

「何の用だ?」

 現実に引き戻された鈴は、少々不機嫌であった。

「昨日は僕に用があって探していたのではないか? 用があったのはお前だろう?」

 正尚にそう言われるまで、そのようなことはすっかり忘れていた。鈴にとっては、もうどうでもよいことだった。鈴は障子を開けて、正尚を庭へと誘った。


「用というのは大したことではない。それより、夕べわたくしは金の鬼に会うて話をした。あれは他の鬼とは、ちと違うようだ」

「なんだと! なぜ鬼と会うたのだ。話などできるものか。あれは化け物。人と分かり合えるものではない。惑わされているのだ。そのくらいお前なら分かるだろう。しっかりしろ!」

 正尚は鈴の肩を掴み揺さぶった。彼の目には激しい嫉妬の色が見える。

「放せ。わたくしは惑わされてなどおらぬ。だが、あ奴は危険なにおいがする。正尚、わたくしはやはり変か?」

 鈴の心は揺れていた。鬼に対してどのような感情が自分の中で芽生えているの分からなくて。

「鈴。お頭とも相談したのだか、女子のお前にはこれ以上鬼討ちを続けるのは難しい。そろそろやめたらどうだ?」

 正尚には鈴を危険な目に遭わせたくないという思いと、もう一つの思いがあった。

「馬鹿なことを言うな。お前よりもわたくしのほうが鬼討ちとしての腕は確かだ」

 正尚が言っているのは、もちろん腕の良し悪しではない。鈴にもそのことは分かっていた。

「もう良いではないか。お前は僕の気持ちを分かっているのだろう?」

 そう言って、正尚は鈴の身体に手を回した。

「何をする!」

 鈴は咄嗟に正尚の腕を振り払った。この時初めて、男に触れられることが怖いと感じた。

「なぜだ? 僕では駄目なのか?」

 正尚は激しい憤りと、嫉妬の念が膨らみ、どうしようもなく、ただ拳を強く握りしめた。

「正尚……」

 鈴はそんな彼にどのように言葉をかけたらよいか分からなかった。その時、金の鬼の言葉を思い出した。桜の木の下で確かに言葉を交わしたことを。『あの男はお前を好いておるようだ』鬼は鈴にそう言った。正尚が鈴を好いていると。


 二人の心のすれ違いが、微妙な空気を作り出していた。鈴はいたたまれず、その場から逃げ出してしまった。自室に戻った鈴は、誰も部屋に入れず、物思いに耽っていた。金の鬼に抱かれたときは、少しも嫌な気はしなかった。それは鬼を好いているからではないか? とさえ考えた。

「鬼を好いておる? そのようなことなど、あってはならぬ」

 鈴はそうつぶやいて、自分に言い聞かせた。このような思いなど、誰にも打ち明けることは出来ない。もしかしたら、鬼に心を食われてしまったのかもしれない。

「どうしたらよいのだろうか?」

 鈴は一人で、ただ揺れる心に悩んでいた。そんな気持ちではやはり、鬼討ちなど出来るものではない。そう考えて、鈴は謎の多い龍という男を訪ねてみようと思った。

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