心の葬送

三屋城衣智子

心の葬送

 ある秋のことだ。気流のように乱高下する相手の心に尽くしてもう随分と長い。自分の気を散らす手段を幾度も幾度も構築したが、まるでまたたびに寄る猫のように男が近づいてきては引っ墓標ぼひょうにしていく。


「なぜ俺に心を砕けない。配慮をしなければ可笑しいだろう」


 呪文は都度、形を変えて女を襲ってきた。


「料理に塩気が足りない」


 男の基準は自身だけのモノで、そこに相手への配慮は幾分も含まれてはいない。男と自分だけならまだ対応できていたであろうそれも、今は幼子おさなごの食事も同じものだ。応じれば子の舌は壊れてしまうだろう。幾度となく塩味はギリギリを攻め、またそれが味わえないなら自分でやってくれと言うが理解はされない。

 女は疲れていた。とても。それでも子が二人いてまだ幼く、また女は子供を自分のようにはさせまいとも思っていた。男の結婚前の甘言と行動の齟齬そごを、見抜けぬ自分のようにはと。


 男は子供にも無理解であった。少し特徴的な上の子に女でさえ時に怒り狂い、ハッとしてはさめざめと泣いていた。だがしかし一番の被害者は子である。女は奮起した。市役所の子育てページを読み漁り、発達障害の専門書を紐解いた。定型発達の子にも良い、という一文に実践もした。

 やがて、子にあった対応の仕方がわかってきた。わかると楽しかった、子供というものはスポンジのようなもので、与えたら与えただけ吸収し還ってくる。面白みのある生涯の仕事であると感じてきていた。


 そのことはつぶさに男にも伝えていた、雑談として生活の話の中に入れていて「そうなんだ」という相槌も返ってきていて。まさか聞き流していたとは思いもよらず、大事な話だのに軽く扱われているなぞ、ついぞ思いつきもしなかった。それ位男はこちらに関心がなかったし、女は相手が少しはこちらに関心があるのだと思い込んでいた。


 四年も五年も経ってようやっと、男が子等の誕生日を覚えたというのに、だ。




 ※ ※ ※




 上の子のことについては、何度も話し合いをもっていた。人間の発達の段階から話し、具体的数値の載った大学病院などの確かな情報のページを見せ、理解を仰いだ。

 結論から言えば無駄だった。関心がないので一度は「わかった」と言われども、その約束は簡単に「俺がそう思ったから」でくつがえされた。

 その度に、必死になって説明をした。相手の「俺がそう思ったから」は、「年齢にそぐわなくとも俺が納得できる行動ができるようになれ」だったし、両手を掴んで動けなくして詰め寄って「なんでこう出来ないの?」と般若はんにゃとなり、相手の言い分なんて関係なく同じ台詞を繰り返す「自称躾」だった。

 子の心が壊れてしまう、そう思い女が必死に理解を取り付けようとしたのも少し仕方がないとも言えた。


 なんとか慣れない折り紙で作ったかのような不恰好なその箱、千切れそうな切れ込みの入ったそれを、大事に整えながら生活は順調かのように見えた。

 これははたから見ただけの、なんとも滑稽こっけいな総評ではあったが女は気づかない。




「今のままじゃ、俺はあの子達を愛せない」


 今あるそのままで、存在で、命。

 じゃ、ないの? ではあのキラキラなあの子達は、何。

 私は、誰。


 女は壊れた。


 その限界は、とうに超えていたのだろう。相手の怒気は、どんな時にも容赦なく。

 ひと月、またひと月と降り積もる。

 溶けることのない雪のように、踏み固められた上にしづしづと、降る。




 男にそう言われても、子から見た視点で物事を考えることをやめることができない。男の言う「品行方正な女とその子等」は、なんといっても血の通わないただの偶像だ。そこに近づいてなんとしよう、何となろうか。どうして一人一人を観察し、知り、尊重しては貰えないのか、女は分からなくて壊れたように以前と同じ説得を延々とした。片時ももうタブレットが離せなくなっていた。

 子の朝ご飯は菓子パンになり、昼食は残り物。それも訴えられたらのタイミングになった。おむつとて例外なく言われて初めて気づく有様で。しんどいとしょうがないですよ、と電話越しに市役所の保健師は言うが女にとってそれは重くも軽くもなく間違いのないネグレクトであった。ネチネチと男の怒気が来るのは分かりきっていたので、それでも夕方にはなんとかほうほうのていで取りつくろって夕飯が出来る。

 自分の方がおかしい気がし出していて、ネグレクトのことは現実の知り合いの誰にも話せなかった。勿論時折訪問してくる自分の親にすら。


「事情? それはただの言い訳で、わかっててやっている言い逃れだろう。人はみんなそうだ、俺以外はな」


 女のしつけに関する話には「俺はすぐに言葉が出ない」「出来ないものは出来ない」と言う男は、いつも相手のことだけそう言う。


 以前、見知らぬ土地での〇歳の育児、その最中さなかに一ヶ月、片時も休まず家の中全てを完璧に回したことがある。幼子を二人抱えてである。やりがいは幾許いくばくかはあったが男からの反応は無く寂しかったことを覚えている。土地勘がないので普段はどこにも行けぬ。楽しみは週に一度連れ出してもらえる買い物であった。

 それも男の基準で取り上げられそうになったこともある。少しばかり「疲れた」と愚痴っただけで家で休めと言うわけだ。愚痴だった、と理解を得るのに小一時間以上かかって、なんとか外出はできたが、男は納得出来なかったようだった。自分は「家族と離れての時間が欲しい、無いと嫌だ、誰がといるより一人がいい」そう言うのになぜ、相手には「息抜きがいるのかもしれない」と思えないのか。女にもよく理解ができなかった。




 ※ ※ ※




 寒い。


 まだ雪も降るはずのなく、また気温も上がったりと下がったりと忙しなくはあるが、秋成りのトマトのなる時期である。日差しは時に暖かく、下手をすると夏のようにじりじりと照りつけることもある。

 だのに。


 擦っても擦っても、指先のかじかみは止まらない。

 いや、これは震えだろうか。

 いや、これは悲しみだろうか。


 もう、怒っていいのか泣いていいのかすらわからなくなって、涙を流しながら微笑んでいる。

 何度目だろうか、何回も何回も何回も説明がループして、細かな内容などは違えども、その本質はただの一つっきりだ。「俺が納得できない」ただそれだけ。なのに女は説明をしなければならない、尊厳と、当たり前の為に。


「行動も言葉も、もう尽くしきったの。これ以上あなたに何を尽くせというの。命差し出せば満足するの」


 男は答えない。


 もとより言葉をそんなに持っていない男は、語彙ごいだけはきっとアインシュタインよりも豊富というのに、人間としての温もりある言葉とはとんと無縁で生きているようだった。


 しづしづと、悲しい時間だけが積もっていく。


「共感力ないんじゃないの? 俺に共感出来てないよね」


 どっちが、とはもう言葉にすらするのも億劫おっくうだった。透明な言葉をどれほど尽くそうとも、相手には見えないのだ。決して。

 かちこちかちこち、とアナログ時計の秒針がやけにこだまする。これが男の答えとでもいうかのように、ただひたすらに、時間だけが積もっていく。


 女は怖くなった。


 雪崩れてしまう。つぶれたトマトの汁のように、それはきっと拾い切れはしないかもしれない。その恐怖に、救いを求めたのは文字にだった。悲しみを降り積もらせた言葉に、けれど復讐はしない。もとより、諸刃もろはの剣である言葉に、攻める場所などないはずだから。

 だからひたすら書いた。きっと溶けやしない、けれど隠すように。ただひたすらに、ひたすらに、隠すように書く。忘れられはしないから、しづしづと文字を降らす。

 かじかんだ指が、ただひたすらにキーボードを叩き、ビットの海のただなかへと心を沈めていく。


 洗いざらい女が話したこれまでとどう思ってきたかは、やはりまるで男からすればピンと来ない、異世界の話らしかった。自分で体験していないこと、体系だった科学の話でないことは、男の頭の中でうまく像を結ばない。世界は男の瞳からだけ映り、外界にある瞳のピントはどれも虚像か嘘に近いらしかった。

 女は男の言葉に芯があると信じるのをやめた。


「普通に生活がしたかっただけなんだけどなぁ」


 男の呟きは嘘。

 嘘ではなくてもそれを信じるにはもう、女の澄んだ瞳はどす黒く焼け焦げ落ちてしまっていた。




 ※ ※ ※




「まるで葬儀のようね」


 誰かが言った。

 その通りかもしれない。ひっそりと、息を吸っては吐くのでさえ、初春にできるのを間違えた氷のように割れずにするのがひどく難しい。書いているうちにその言葉は自分が言ったのかもしれないと思った。もしくはただ、心の内で思っただけだったのかもしれなかった。

 雪は降らない。ただしづしづと、心が降っては砕け散っていく。積もった破片では自分をやがて刺し割れさせてしまうだろう。


 それまでには。


 女にはまだやるべき事があった。壊れた脳と瞳に、それでもその輝きは眩しく、見ている間だけは自身の両の目は以前と同じ澄んだものであると錯覚ができた。


 たった二つ、これだけは幾度の怒気ループの中であれど、必ず護ると決めていた。


 既にだいぶ傷つけてしまっただろう子等のその生傷を、なんとか舐め清め塞ごうと努めながら、壊れた中での正常をて、諦めてなるものかとただそれだけを思う。

 たくさんぎゅうをして、たくさん言祝ことほぎたい。


 女の世界はしづしづと凍えるけれど、子等がまるで暖炉のように。まるで毛布のように。芯のその深くだけは守ってくれるから。だからもう、腐って落ちてゆくだろう外側のそれを「これは雪なのだ」と思いながら切り離す。


 そう、これは雪なのだ。

 硬く凍ってしまってそして暖炉の炎で溶け雪崩なだれていく、雪なのだと。


 だからどうか。どうか気づかないでいて欲しいと思う、私にあるのがもうただ芯の奥深いだけということを。あったかいあなたたちはどうか、気づかずこの日常を享受するままにいて。あったかい布団のような人はきっといるよと、どうか、冷たいなけなしの灯火で、どうか、伝わりますように。




 女はまるで消し炭の聖職者のように祈り生活する。子等も多分気づいている、自分の母親がどこかおかしくなっていることを。それを受容し包みながら生活が続く。

 せめてもの抱擁と、たくさんのプラスある言葉をと願い発現させようとする日々が、続いていく。


 しづしづと。

 しづしづと。


 女は祈り、行動する。


 せめて思春期の頃には、あれは現だっただろうかそれとも夢なのか。というくらいに、底の底の底に沈めて縄で縛って出てはこれないように。この男と女の行いが、子等に影響しないよう男に邪魔されず今後も動けますように。




 これは私の、貴方への信頼と愛してるの墓標ぼひょう

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心の葬送 三屋城衣智子 @katsuji-ichiko

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