第43話 ありったけを流して

目を覚ました桜利は今が何時か知りたくなり右側の壁を見つめたが、そこに時計はなかった。桜利はここが自分の部屋でないことを数秒遅れて思い出した。恐る恐る部屋の襖を開けると窓から少しの光が桜利の部屋に差し込んだ。照らされた自分の手を桜利は目で追った。桜利は数日前に目を覚ましたが、実感がまったくと言っていいほどなく記憶もほとんど残っていなかった。


どれだけ寝ていたのだろう?


そもそもここはどこだろう?


自分以外に生き残った人はいるのだろうか?


桜利はいろいろなことを考え始めた。壁を伝いながら立ち上がると外に出たくなり、縁側に出てみることにした。少し肌寒い中、大きく息を吸うと体が新鮮な空気に驚いているような気がした。


「今はだれかに監視されていないんですか?」


「あれ?ネアじゃん。何の話?」


いつの間にか縁側に座っていたネアは桜利の返しに一瞬動揺した。


「あれ?昨日あたりに布団にくるまって叫んでましたけど?」


「ごめん。全然記憶がない」


「なら大丈夫ですよ」


ネアは今話している桜利が目覚めてからの桜利と別だということに気が付いた。


「桜利さん。一度起きた時のこと覚えていますか?」


「まったく覚えていないんだけど、今日は何月何日でここはどこ?」


ネアは一番最初に桜利が眠りから覚めた時に場所の説明をした記憶があるが、当の本人に記憶がないためネアはさらに記憶を閉じ込めてしまったのか、それともただ忘れただけなのか区別がつかなかった。


それでもネアがやることに変わりはない...桜利の心を閉じ込めている透明な氷を溶かすこと


「桜利さん、どんな試験を島でやってきたんですか」


桜利からの質問を無視する。「今日のテストがどうだったの?」とまるで自分の子供にテストができたかを聞く母親かのようにネアは問いかける。


「...」


無言の桜利を見てネアは縁側から立ち上がり桜利の横を通り過ぎた後くるりと振り返り桜利を見た。


「先生からお電話をいただいて心配で飛んできたんですよ。あんなに傷だらけになって何があったのかと思いましたよ」


「...」


心の周りの氷にネアが少し触れてみるがその氷はネアの思ったよりも分厚いと感じた。それでもこの氷を崩せるのは彼女しかいなかった。


「何があったのか情報が無くて先生も私も打つ手がなくて何もできなかったんですよ」


「...」


氷を指で小突いてみるが反応はない。


「でも、何より桜利さんが無事で戻ってきただけで嬉しいです」


そう言ってネアは優しく桜利の手を握ってゆっくりと桜利の手を引き、桜利の体を自分のもとに手繰り寄せた。ネアに抱き寄せられた桜利はネアの体に特に何も考えずに抱きつくと、優しい香りが桜利の鼻を襲う。




その温かさに思わず、その氷が少し解け始めた。




「...怖かった」


「え?」


「怖かった。すっごく怖かった。もうダメだって何回も何回も思って...」


桜利の声が小さすぎたためネアが聞き直したことによって氷が解け始める。氷に両手で触れたことにより、じんわりと溶け始めた。


「いっぱいね、いっぱい人が死んじゃってね」


上ずる声を出す桜利にネアは今度は何も言わずただ桜利の背中をさすり続けた。


言葉をかける必要はない。


何か特別な行動をする必要もない。


「殺されそうになってね...それで俺ね」


嗚咽の止まらない桜利にネアは何も声をかけない。ただ先程よりも強く抱きしめる。それ以上に何かする必要はない。ネアは氷をすべて溶かす気はなかった。あくまできっかけを作り溶け始めるのを見守るだけでいい。一度溶け始めれば、後は時間とともにゆっくりと本人が向き合い、氷は完全に溶ける。


「おかえりなさい。桜利さん」 


氷にひびを入れることがネアのできる仕事だった。










桜利が泣き止んだ後、ネアは欠伸をしながら部屋に戻ることを伝えて居なくなった。桜利は縁側に座りぼんやりと空を眺めていた。そろそろ日が昇り始めるのか空の縁が少し明るくなり始めていたその時桜利の目が捉えた。




艶やかな紫色の蝶がその目に映り込んできた。




桜利は息を飲むのを忘れ、その蝶がこちらに来ることを願った。


もう出会えないと思っていた、何度も何度もくじけた自分を励まし助けてくれたあの人柿沼の炎でできた蝶。


「待って」


桜利の目の前まで来た蝶は急に回って桜利から逃げるようにひらひら飛んでいったため、桜利は慌てて追いかける。まだ、暗い山道を蝶を追いかけて走り続ける。ぬかるんでいる土の道をはだしでは駆け抜ける。途中で転んでも痛みも感じる暇もなく、細い道では草をかき分けて蝶を追い続けた。



紫色の蝶はいつの間にか消えており、太陽ひかりが桜利を照らし始めた。



いつの間にか桜利は頂上まで来た。来たというよりは蝶に導かれたと言うほうが正しかった。上り始めた太陽は氷を照らし続け、氷は溶け始めた。




あの日見たかった...みんなで一緒に見たかった朝日を桜利は目に焼き付けていた




「おっさんたちー聞こえるかー」


桜利は体の底から声を出し、朝日に向かって叫び始めた。


「俺、生きてたよ。生きて帰ってこれたよ。ありがとう」


泣いたら笑われてしまうと思い、桜利は泣くわけにはいかなかった。ただ、氷が溶けているだけだった。


「もし、もういないならさぁ」


ありったけの感情をこめて息を吸い


「必死に生きるから、必死に頑張るから、もう誰にも負けないくらい強くなるから」


もう一度呼吸を整えて



「見守っててくださーーーい」



満面の笑みで太陽に向けて微笑むと一段と強く輝いたように桜利は思えた。

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