第4話
スーパーの店の前に、値下げになったミニバラの鉢植えが売っていた。もうとっくに花は終わっていて、葉っぱに黒い点々がにじんでいる。香歩さんはその汚い苗を、迷うことなく買い物カゴに入れた。
こんな枯れかけの鉢植え買ってどうするの、ってあたしが聞くと、大丈夫よ、任せて、と香歩さんは言う。私はね、元気のない植物を復活させるのが得意なの。
もしかしてベランダに並んだ鉢植えは、どれも香歩さんに拾われた子たちなのかもしれない。香歩さんに復活の呪文をかけてもらって、元気にきれいな花をつける。
その中に、ちいさなちいさな緑の粒がぎゅうぎゅう詰めになったつぼみがあった。
これは去年、花が終わってから値下げになっていた紫陽花。紫陽花はとても生命力が強いから、今年はきっときれいに咲くわね。
なんだか急に泣きたくなって、トイレの中に立てこもった。
あたしもあの子たちと同じ、枯れる寸前で道端に捨てられていた鉢植えだ。きっといつもの癖で拾ってきてしまったのだろう。
でもあたしは、紫陽花みたいにきれいに咲ける気がしない。水をあげても肥料をあげても、すぐに自分で枝を折ってしまう。きっと香歩さんだってお手上げだ。
腕の傷は治らない。でもほんとうは、治したくないのかもしれない。
珍しく電話がかかってきた。相手はイギリスに留学中の娘さん。あたしはリビングの隅っこで、気配を消すようにからだを縮めた。
あたしと同じ、二十一歳。香歩さんに似た美人で、留学先は世界中が知っているような有名大学。
同じ歳なのに、あたしとは天と地ほど違う。
電話を切った香歩さんは、夏休みに一時帰国するんだって、と言った。
「娘にも、ララちゃんを紹介するね」
香歩さんが何を言っているのかわからず、一瞬目の前が真っ白になった。
家族の留守中に家に住まわせているメンヘラ自傷女を――しかも娘と同じ歳で、人にはとても言えないようなことをしている女を、自分の娘に紹介する、って。
いったいどういう状況? そのせいで家庭が崩壊したらどうするの?
馬鹿なあたしにだって、こんなの普通じゃないってわかった。香歩さんは常識があるように見えて、実はあたしよりずっと頭がイカれてるのかもしれない。
寝室の電気を消して、同じベッドに入って、香歩さんの呼吸に耳を澄ませた。
寝返りを打つと、香歩さんの指があたしの指のあいだに絡みつく。
しっとりと、肌に張りつくような、いつも冷たい細い指。洗い物をするたびに、香歩さんはハンドクリームをたっぷり両手に塗りつける。
香歩さんにかわいがってもらった働き者の指が、あたしの肌の上を滑る。
「さわって、香歩さん」
その指先を掴んで、パジャマの中に導いた。おへそよりちょっと上のあたりに、香歩さんの指が触れる。
その感触が、ブラジャーをつけていない両胸の谷間へ滑った。
「すべすべ。ララちゃんは、ほんとうにかわいい」
柔らかい夜の向こうで、香歩さんがふんわりと笑う。
胸が苦しくてうまく息が吸えない。
瞬きをしたはずみで、目尻から涙がすうっと流れた。
香歩さんだけだ。こんなふうに優しく、丁寧に、あたしに触ってくれるのは。
きっと香歩さん以外の誰も、こんなふうにはしてくれない。
香歩さん。香歩さん。
酸素が足りない胸の中で、なんども名前を呼んだ。
香歩さんの肌に手を伸ばす。皮膚の薄い、沈む込むような、優しい肌。
香歩さん。
だいすき。
だいすき。
香歩さんが食べた豆腐になれたらよかった。
香歩さんちのベランダの鉢植えになれたらよかった。
香歩さんちの図鑑に。香歩さんのハンドクリームに。
香歩さんの魔法の中に。
香歩さんの、世界のいちぶになれたらよかった。
あたしがこんなに好きになるのは、
きっと、香歩さんだけだよ。
香歩さんが出かけているあいだに、そっとマンションを抜け出した。
彼氏の家を追い出されていたときに着ていた古いTシャツとショートパンツを、久しぶりに引っ張り出して。
さらさらと、明るい雨が降ってた。でももう夏が近いから、雨に濡れたってぜんぜん寒くない。
腕の傷はまだ完全に治らない。でもこれだけ薄くなれば、ファンデーションでごまかせるかもしれないし。
ベランダに咲きはじめた紫陽花の花を、ごめんねと謝りながら一本だけチョキンと切った。ふんわりと丸い、あの日の香歩さんのコートの色に似た薄紫の花。
こんなに大きくて丸い花って、押し花にできるのかな。ぶ厚い本に挟むことを想像したら、すこし可哀想な気持ちになった。
でも押し花にすれば、きっとどこにでも持っていけるから。
ポケットには、香歩さんがお小遣いにくれた千円札。古本屋だったら、辞書か図鑑が買えるかもしれない。
植物の図鑑がいい。香歩さんちにあったような、ぶ厚い、重しみたいな図鑑。
ぺったんこになって、きっと香歩さんの肌みたいな匂いになる。
完
紫陽花を挟む 鹿森千世 @CHIYO_NEKOMORI
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