第3話
香歩さんはときどき家で仕事をする。
金持ちの奥さま向けの雑誌に、ガーデニングや季節の植物についての短いエッセイを書くのだ。世の中にはそんな素敵な仕事があるんだと驚いた。
〈春の魔法〉が気に入った香歩さんは、あたしに花の名前を尋ねるようになった。
これは?と、香歩さんが開いた季節の花図鑑を指差す。ネモフィラという、青くて小さなお星様みたいな花。
「お空の金平糖」
そう答えると、すっごく素敵、と嬉しそうに笑う。
じゃあこっちは? こんどは派手な濃いピンク色のシャクナゲという花。
「ハートの女王様」
情熱的ね!と香歩さんはかわいらしく両手を合わせた。
じゃあこれは? 人差し指の先には、雪がこぼれ落ちるような白い花。ユキヤナギと名前が書いてある。
「ユキヤナギはユキヤナギのままで素敵だよ」
そう言うと、そっかそうだね、と香歩さんは笑った。
ずっと一生、香歩さんとふたりで花の名前ばかり考えていられたらいいのに。
香歩さんの暮らす世界は空の上の方にあって、あたしはずっと足もとがふわふわしている。
日曜日の夜、はじめて香歩さんの旦那さんから電話があった。むだなおしゃべりのない、短い、事務的な受け答え。
そう言えば、旦那さんがこの家に帰ってくる予定も、香歩さんが旦那さんに会いにいく予定もないみたい。香歩さんもめったに旦那さんの話をしなかった。
熟年の夫婦ってこんなものなのかな。そう思ったとき、ぽっと頭の中に「不倫」の二文字が浮かんだ。
関西に単身赴任というのも、実は嘘だったりする? 実は旦那さんは他に家庭があって、香歩さんもそれを知っていて――
わかんない。ぜんぶあたしの妄想。香歩さん本人にそんなこと聞けないし。でも男の人ってみんな飽きっぽいから。
もし香歩さんみたいに優しくてきれいな奥さんが不幸なら、神様はちょっと残酷だと思う。
お庭みたいに広いベランダには植木鉢がたくさん並んでいて、香歩さんは毎日丁寧に手入れをする。腰を下ろして、チョキンチョキンとしおれた花を切り落としていく。
その背中に寄り掛かるように抱きついた。
「どうしたの、ララちゃん」
香歩さんの背中がクスクスふるえる。
あたしがここに来るまで、香歩さんは広いマンションの中にひとりぼっちでいたのかな。
いっぱいのお花に囲まれて眠っている、塔の上のお姫様みたいだって思った。
「ララちゃんがくっついてると、あったかいな」
そんなふうに言われて、なんだかちょっと泣きそうになった。
香歩さんをあっためてあげたい。香歩さんを幸せにしてあげたい。
あたしが香歩さんの旦那さんだったらよかったのに。
ときどき香歩さんと一緒に買い物に行く。すれ違う人が、あたしの腕の傷に驚いて振り返る。
今日の昼間、あたしはまた新しい傷を作った。だけど香歩さんは気にしない。痛いの痛いのとんでけって呪文を唱えながら、傷薬を塗ってくれる。それなのにあたしは、懲りずになんども傷を作った。
香歩さんは怒らない。いつも優しい呪文をかけてくれる。
駅前の雑貨屋さんで、泡の入浴剤を香歩さんと選んだ。その日の夜、一緒に泡風呂に入ろうって香歩さんに誘われた。
明るい場所で裸になるのはちょっと恥ずかしい。ぱっと服を脱ぎ捨てて、もこもこの泡が立ったお風呂に飛び込んだ。作ったばかりの腕の傷がピリッと痛い。
裸になった香歩さんも、あたしの前にからだを沈めた。
雲の中みたい、って香歩さんがはしゃぐ。泡を両手にとって、あたしの頭の上に乗せた。生真面目な顔をして、もうひとつの泡を。
「かわいい。泡の国のうさぎちゃんみたい」
そう言って、いつものようにあたしを褒める。
なんだか急に、いろんなことをぶちまけたくなった。
「香歩さんあたしね、フーゾクで働いてたんだよ」
そう言うと、香歩さんは視線を落として泡をすくった。
「辛かった?」
香歩さんが心配そうな声を出す。
「ううん、あんまり。いつも自分とカラダが、バラバラなんだ。嫌なのも痛いのもカラダだけで、あたしはちょっと遠くからそれを見てる。だから別に平気だった」
香歩さんがあたしの肩に泡を滑らす。
「でもね、カラダの中に居場所がないから、ずっと気持ちがふわふわしてる。自分がどこにいるのかときどきわかんなくなって」
お湯に馴染んだ傷は、もう痛くない。
「不安が限界をこえると、切っちゃうんだ。そしたらちゃんと痛くて安心するんだけど、でもやっぱり悲しくなる」
うえぇ、とかわいくない声が口から飛び出した。泣き出したあたしの背中を香歩さんが抱き寄せる。
「よしよし」
香歩さんが背中を撫でてくれる。
「だいじょぶ、だいじょぶ」
香歩さんの声は、優しい魔法だ。ぼろぼろのあたしに魔法をかけて、治そうとしてくれる。
「ララちゃんはえらい。よく頑張ったね」
ぜんぜん偉くないよ。フーゾクやるなんて、馬鹿で貧乏で取り柄のない子がやる仕事で。
だから男の人はいつもあたしをどうでもよく扱った。
こんなふうに大事にされたことがないから。嬉しくて、幸せで、足もとがふわふわして。
空から落っこちそうで不安になる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます