第2話


 香歩さんの家は、駅近のタワーマンションの二十三階だった。見た目通りの、お金持ちの奥さん。高級ホテルみたいなつるつるぴかぴかのエントランスを滑るように歩いて、高層フロア専用のエレベーターに乗った。


 エレベーターの階数表示がぐんぐんスピードに乗って、両足が宙に浮いていく。考えてみたらいままでそんな高い空の上へ昇ったことがなくて、ちょっとだけ緊張していた。


 唾を呑み込んで耳の詰まりを治していると、香歩さんはあたしににっこり笑った。


 夫は関西の支社に出向中で、娘はイギリスに留学中なの。だからいまはひとり暮らし。緊張しなくても大丈夫よ。


 緊張していたのはエレベーターのせいなんだとは、恥ずかしくて言えなかった。


 香歩さんが、どうぞ、と部屋のドアを開けて、靴箱からお客様用のスリッパを出してくれた。真っ白でモコモコの、お金持ちの家のトイプーみたいなスリッパ。


 スニーカーを脱ごうとして、ふと思い出した。彼氏が窓からスニーカーを投げてくれるまで、裸足で歩いてたんじゃなかったっけ?


 足の裏が汚れていないか確認したかった。でもそんなことしたら行儀が悪いのかな? どうしたらいいかわからなくて、そのままスリッパを履いてしまった。


 もし汚しちゃったら弁償しなきゃ。このモコモコスリッパいくらしたんだろうって、そんなことばかり考えながら。


 どうぞどうぞ、と言いながら、香歩さんはずんずん廊下を歩いていく。突き当たりのドアを開けた瞬間、明るい光に目がくらんだ。


 ドアの向こうは、ドラマのセットみたいなオシャレなリビングだった。やたらと明るいのは南側全面が窓になっているせいで。窓の向こうのベランダはタワーマンションだと思えないくらい広くて、地面に生えるような大きな木も茂っている。


 リビングの真ん中には、インテリア雑誌で特集されていそうな趣味のいいソファとテーブルと、作り物みたいなつやつやの観葉植物。部屋の右側は、アイランドキッチンって言うんだっけ、お料理教室でも開けそうなピカピカの調理台。


 明るくて清潔すぎて、身の置き場がなかった。触ったら壊しちゃいそうだし、座ったら汚しちゃいそう。


 好きなところに座ってって言われたけど、勇気がなくて座れない。


 ソファのサイドテーブルにふんわり大きな薄ピンクの花が三輪、ガラスの花瓶に挿してあった。だから、立ちっぱなしのままそれをじっと見ていた。


「ララちゃんはお花が好きなの?」


 香歩さんがアイスティーをグラスに注ぎながら、あたしに質問した。


「これ、何て言う花ですか?」


 花の名前は、チューリップとひまわりとバラと桜くらいしか知らない。その中でどれに近いかと言えば、バラ、かな?


 香歩さんはこう答えた。


「芍薬」

「しゃくやく?」


 変な名前。チューリップだって桜だって見た目も名前も可愛いのに、こんなにきれいな花が苦い薬みたいな名前なんて。


 そう思ったのが顔に出ちゃったのかもしれない。アイスティーのグラスを両手に持ってパタパタと近づきながら、香歩さんがあたしに尋ねた。


「どんな名前だったら似合うと思う?」


 そう尋ねるから、じっとを見ながら考えた。


 重なったひらひらの花びらが、お姫様のドレスみたいだなって思った。きっときれいで優しい女の子だったから、魔法使いのおばあさんが魔法を――


「えっと、春の魔法」


 そう答えたら、香歩さんは目を丸くした。


「わぁ、素敵ね。ララちゃんは名前を付けるのがとても上手」


 花の名前にするのは変かなって思ったのに、素敵、素敵、となんども褒める。嬉しくて、恥ずかしくて、身の置き場がない。「素敵」なんて言葉を使う人、いままであたしの周りに一人もいなかった。


 香歩さんは、素敵という言葉がよく似合う。春の魔法より香歩さんの方が、ずっと素敵だ。


 夕食に、香歩さんは白湯鍋パイタンなべというものを作ってくれた。


 お鍋がしたかったんだけど、ひとりだとちょっと寂しいでしょう? 香歩さんはそう言った。


 そうか、鍋がしたかったからあたしを拾ってきたんだ。それがわかって、ちょっとほっとした。 


 だってそうじゃなきゃ、こんなメンヘラのホームレス女、拾って帰る意味がわからないから。


 熱々の鶏ダンゴを、はふはふと頬張った。香歩さんは上品なくちびるをきゅっと尖らせて、ふうふうといつまでも豆腐を冷ましている。


 そんな優しい冷まし方じゃいつまで経っても食べられないじゃんって、なんだか妙におかしかった。 


 でも、香歩さんに食べてもらえる豆腐って幸せな気がする。


 ていねいに、ゆっくりと、香歩さんのからだのいちぶになっていく。


 白湯鍋を食べ終わると、香歩さんはジェラート・ピケの猫柄パジャマを貸してくれた。娘のだけど、あんまり使ってないから大丈夫って。こんなに値段の高いパジャマをパジャマとして使う人が、ほんとうにこの世にいるんだって驚いた。


 お風呂上りに一緒にハーゲンダッツを食べて、歯を磨いて、同じベッドに入った。クイーンサイズ、と香歩さんは言った。女王様のベッド。


 あまりにも静かで清潔で、うまく寝つけなかった。香歩さんの方に寝返りを打つと、暗闇の中で香歩さんと目が合った。


 その指が、あたしの頬を撫でる。


「かわいい。すべすべ」


 そのとき、はっと気づいた。


 香歩さんは、若い女の子が好きなのかもしれない。旦那さんも娘さんもいるけれど、きっと女の子も好きなんだ。


 納得した。鍋なんかよりもずっと。それならあたしも得意分野だし、堂々とここに泊まる理由ができる。


 男の人とは違う、女の人のくちびる。いままで相手にしてきた男の人の荒っぽさとは、なにもかもが違って。


 ゆるんだ薄い皮膚の下には、冷えた脂肪の感触がした。しっとりと、じんわりと、癒えない傷を包み込んでくれる。


 静かで、穏やかで、寂しくて。香歩さんの肌は、きれいな押し花によく似ている。

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