紫陽花を挟む

鹿森千世

第1話


 香歩さんの肌は、ずっと挟んだまま忘れていた、押し花のような匂いがする。


 そう思ったところで、ふと考える。


 押し花に、匂いなんてあったっけ? 匂いなんてしないんじゃないかな? 


 ぶ厚い、重しみたいな図鑑のあいだで、ながいながい夢を見て、つぎに太陽を浴びるときには、もうどれだけ経ったか覚えていないような、むかしの花。あったはずの色も匂いも思い出せなくて、ぺったんこになったからだに染み込んだのは、きっと古い本の匂いだ。


 古い、本の匂い?


 古い本の匂いって、どんなだったっけ?


 知らないよ。あたしんちに古い本なんてなかったもん。


 香歩さんの指が、そっとあたしの肌を撫でる。脇の下から、腰をとおって、太腿のほうへ、滑るみたいに。いつも半分、眠りについたまま。


 ララちゃんはかわいいよ、と香歩さんは言う。若いから、肌がすべすべだって。うっとりと、お気に入りの毛布を撫でるように、あたしの肌に触る。


 全然かわいくないよ。よく見てみて。化粧を落としちゃったら、目だって小さくて一重だし、鼻だってすこし上向いてるし、すきっ歯だし。どっちかと言えばブスなほうだと思う。


 そう言うと香歩さんは、ララちゃんは若いから、って笑う。若い子って、それだけでかわいいもの。


 ねえ、じゃあ若くなくなったら? 年取ったらどうなるの? あたしはもうかわいくないから、香歩さんに捨てられちゃうのかな?


 そう聞こうとしたけど、やめた。そうだねって言われたら、どうしたらいいかわからないから。


 春のはじめに、あたしは香歩さんに拾われた。半年同棲していた彼氏の家を追い出された、春の夕暮れに。


 せめてもう一枚、上着を持って追い出されたかった。肌寒くて、ショートパンツから出た両脚を抱えながら、公園のベンチの上で丸まっていた。


 地面につもった桜の花びらが、風に舞い上がってきれいだなとか、あの子、友だちに突き飛ばされて転んだけど、お母さんたちお喋りに夢中で見てないなあとか、ポケットに入ってる小銭を外がわから触って、合計いくらになるか想像したり、腕につけた切り傷がむしょうに痒くなってかきむしったり。そんなことをしているうちに日が暮れた。


 春だけど夜になれば寒いし、さすがに外で寝るのは無理かもしれないって思った。睡眠薬、持ってきたらよかったな。まだけっこう残ってたのに。久々に店に出勤したら、とりあえず寒さはしのげると思う。一晩でお金も稼げるし。でも、腕がこんなんじゃ仕事させてもらえないかも。


 ひじの内がわから手首まで、すきまなく並んだカッターの跡。


 いつになっても自傷をやめないあたしにブチ切れて、彼氏はあたしを玄関の外に蹴り飛ばした。


 気持ち悪いから寄るな。エグいもん見せんなって。なんであんなに怒るのかわかんない。自分のからだでもないくせに。


「寒くない?」


 香歩さんは、とつぜんあたしに声をかけてきた。


 とろんとした薄紫のスプリングコートが、クレープの生地みたいだなって思った。長い黒髪をキュッとひとつに結んで、耳たぶには葉っぱの形のイヤリングが揺れてる。薄化粧だけど眉毛はきれいに整っていて、淡いピンクのリップが色白の肌によく似合っていた。


 四十代、どちらかといえば後半。おばさんだけど、きれいなおばさんって思った。上品で、賢そうで、お金持ちそうで、あたしの母親の対極にいるようなひと。ネギの先っぽが飛び出した緑色のエコバッグを、片手にぶら下げていた。


「寒いけど、帰るとこないから」


 無視してもよかったけど、誰かと喋りたかったからそう答えた。


「泊めてあげようか?」


 まさか二言目でそんな話になると思わなくて、さすがに驚いた。


 駅の方に向かってふたりで歩いていると、名前は、って聞かれた。だから正直に、ララですって答えた。


 名前を教えると、馬鹿にするように聞き返されるか、キラキラネームだって爆笑される。でも香歩さんは、かわいい、って目を細めた。目もとに皺がよると、優しげな顔がさらに優しくなる。  


 兄貴がキキで、あたしがララ。頭のイカれた母親がイカれた名前をうちらにつけた。


 怒鳴るか殴るかの二択しかない、さいあくの母親。好きだと思ったことがいちどもなくて、中学の頃からあまり家に帰らなくなった。


 香歩さんはうちの母親よりちょっと年上のような気がする。きっと同じ四十代。生きている長さもそんなに変わらないのに、どこをどう間違えればうちの母親になって、どこをどう直したら香歩さんみたいになるんだろう。

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