10話 『山に潜むモノ 後編』
血に塗れた服から神官服に着替え、俺たちは宿を出発した。
人間を
三人目の老爺が、鉱山の場所を知っていた。
カザンブルクを出て、モスロ・ビンスクとは反対側に進む。
日はとっくの昔に沈んでいて、雪の積もる道は真っ暗だった。
手の周りに霧を展開し、その中に小さな
青白い光に照らされながら、エトレナは微妙な表情を浮かべていた。
「……アルさんの『能力』って便利ですよね」
「ん? まあ、たしかに応用はききますね」
「さっきの、フォークを飛ばしたのも、『能力』ですか?」
「そうですよ」
エトレナの顔には、どうやったのか教えろ、と書いてあるが……真面目に説明しようと思ったら、一刻以上かかる。そんな時間はない。
あれは、前世の某女性キャラをパクったものだ。
魔素を体内でしか使わないので気配を絶ちながら使える点と、初速の早い点がメリットだ。
一方で、魔素効率は絶望的に悪い。
一回射出するだけで、ごっそりと魔素を持っていかれる。
役に立つ場面はほとんど無いが、今回は役に立ってくれた。
数年がかりで練習してきたかいがあったというものだ。
――エトレナとぽつぽつ話しながら雪道を走っていると、四半刻ほどして目的地が見えてきた。
鉱山の入口は、拳大の岩で埋まっている。
その前には、数本の花が置いてあった。カザンブルクの住民が供えたものだろう。
「ここ、ですよね?」
困惑した声を出しながら、エトレナは岩の壁を見つめている。
その視線が上に向いた時――
「あっ! アルさん! 上の方、穴が開いてますよ!」
エトレナは跳ねるような声を出して、真っ白な指で、真っ黒な穴を指差した。
砕石の山を登って、二人で暗闇を覗いてみる。
「これは……」
「……聖女様に、文句を言う必要がありますね」
暗闇の奥に、濃厚な魔物の気配がある。
大した力は持っていないはず――そう説明されて、俺たちはこの任務に臨んだ。
その割に、知能がやけに高いと思っていたが……なんてことはない。こいつは、力に見合った知能を持っているだけだ。
暗闇の奥から感じる気配は、俺がこれまで出会ってきた中でも、上位に入る大きさだ。
「私たちだけで、倒せますか?」
エトレナが不安そうな声で聞いてくる。
「……私たちを簡単に殺せるなら、そうしているはずです。攻撃能力は、それほど高くないのだと思います」
行くべきか少し迷うが……ここでこいつを取り逃したら、もっと大きな被害が出てしまう。
ここで、叩いてしまうべきだ。
エトレナに目を向ける。
置いていくよりも、俺と一緒にいた方が安全だろう。
「私から、絶対に離れないでください」
エトレナが頷くのを確認して、俺は闇の中に飛び込んだ。
地面に着地すると、足元で何かが砕ける音がした。
「ひぅッ……!?」
エトレナが、引き攣った悲鳴を上げる。
そこには、数え切れないほどの
「これ……生き埋めにされた」
「……行きますよ」
坑道の中に、俺たちの声は反響している。
エトレナはできるだけ骸骨を踏まないようにしているが、地面の全てが覆われているので、どうしても踏んでしまう。
骨が折れるたびに、その音が暗闇に響く。
十メートルほど進むと、ようやく地面が見えてきた。
青白い雷に照らされながら、黒っぽい岩の地面を歩く。
すぐ右隣を、エトレナが歩いている。
ほとんど触れ合うほどに、距離が近い。
ほんのりと、エトレナの体温を感じる。
――奥に進むほどに、気配は強くなっていった。
どこまで、この暗闇は続いているんだろう?
もう、かなり歩いた気がする。
一言も話さないまま、一歩ずつ、暗闇を進んでいく。
いつしか……エトレナが、青ローブの袖口を掴んできていた。
邪魔だから放せ、と言う気にはならない。
エトレナの手は震えていた。無意識に掴んでいるんだろう。
――その音に気付いたのは、ほぼ同時だった。
足を止めて、暗闇の奥に目を凝らす。
……足音。
足音が、聞こえる。
暗闇の先から、誰かが歩いてくる。
エトレナが、俺の袖を強く握りしめている。
左手に、碧色の剣を発現させる。
剣先を、足音へと向けて――
エトレナの手から、力が抜けるのを感じた。
「エトナ……私の言ったことを、考えてくれたか?」
そこには、陛下が立っていた。
王国千八百年、最後の王。
狂王――ヴィルヘルム・ハインエル。
陛下は、慈愛のこもった眼差しを、エトレナに向けていた。
隣を見る。
神官服に身を包んだ、若い女性。
綺麗な金髪を、紐で一つに括っている。
真っ赤な、炎のような瞳は……陛下のことを見つめていた。
「……エトナ?」
そう呟くと、エトレナは嬉しそうな、それでいて怒っているような表情を浮かべた。
「やっと、気付いたんですか?」
「えっ、でも……」
俺が混乱していると、陛下がこちらへ歩いてきた。
「エトナ、私と――」
「近寄らないでください」
エトレナは、青色のナイフを陛下に向けた。
陛下は足を止めると、困惑したような表情を浮かべる。
そんな陛下を強く見据えながら、エトレナは迷いの無い口調で言った。
「あなたは、私のお父様ではありません。あなたの口車には乗りません。私は……アルさんと一緒に、あなたを倒します」
陛下は、視線を岩の地面に落とすと……小さく、ため息をついた。
「そうか。それが、エトナの選択か。余ではなく、アル殿を取るのだな」
落としていた視線を、持ち上げる。
憎しみに満ちた表情で、陛下は言った。
「エトナは余を捨てるのか。余を忘れて、自分だけが幸せに生きていくのか。そんなことは許さない。許されない。――お前は余の娘だ。狂王の娘だ。幸せに生きる資格など存在しない。人の幸せを奪っておいて、自分だけ――」
陛下が縦に割れた。
両断された黒い岩が、そこに残る。
俺は碧色の剣を左手に握ったまま、エトレナの傍に戻った。
「……ごめんなさい、私……お父様を――」
「自分で選べただけ、立派ですよ」
手巾を手渡すと、エトレナは震える手で涙を拭った。
そんなエトレナを背中に守るようにして……暗闇に剣を向ける。
「――失敗か。人間の心とは、実に奥深いな。上手くいくと思ったのだが」
淡々とした口調で話す幽霊は……ついさっき俺が殺した、宿屋の主人の姿をしていた。
「……危害を加える意志は無い、さっきそう言ってなかったか?」
「ああ。それは言葉の
無言で睨み付けていると、魔物は平坦な声で笑った。
「元より、理解している。アル・エンリ。
儂がどれだけ揺さぶろうと、己の瞳は、一度たりとも揺らぐことは無かった。だから、己を味方に引き入れることなど、とうの昔に諦めている」
魔物は岩壁まで歩くと、それを手のひらで触った。
――轟音。
遠く背後から、何かが崩れる音が聞こえた。
「己らには悪いが、儂にも欲望がある。無駄だと分かっているが、そこに少しでも活路があるならば、せいぜい足掻かせてもらおう」
「欲望? ……人間を殺すことか?」
挑発するように言うと、魔物は感情の無い目を向けてきた。
「人間を殺す? 何を馬鹿なことを言っている。己は、もっと
抑揚のない声で語りながら、魔物はまんじりともせずに、俺の顔を観察していた。
「ふむ。儂と己の認識の違いに、活路があるやも知れぬな。己は理性的な人間だろうから、下手に飾らぬ言葉で説明しよう。
人間は、
己はアナスタシアに言っていたな。儂が力を蓄えた後に、人間に害成すことがあればどうするのか、と。
ここで断言してやろう。そんなことは有り得ない。儂にとって人間は、大事な食糧だ。共存する対象であって、害成す対象ではない」
淡々とした口調で言って、魔物はガラスのような視線を向けてきた。
……おそらく、魔物は事実を言っている。
仮に人間を皆殺しにして利があるなら、こいつは
だが、それに利が無いのならば、決してそんなことはしない。
こいつにとって、人間はただの食糧だ。憎悪や哀れみを向ける対象ではない。徹頭徹尾、食糧としてしか見ていない。
そういう点で言えば……こいつは、聖女様と似ているのかもしれない。
「残念ですが、あなたを見逃すことはできません。仮に私が見逃したとしても、聖女様は確実に、あなたを消しに来ます」
俺の言葉に、魔物は何も感じていないようだった。
ただただ無感情に、合理的な思考で、俺の言葉を
「そうか。であれば、やはり己らには、ここで死んでもらうことにしよう。
己らが死んだ後、アナスタシアを通して、カザンブルクの魔物は死んだと報告してもらう。次の者が来るまでに、多少の時間稼ぎにはなるだろう。
己らの力を摂取すれば、幾らか儂の力も増すと思うが、聖女なる存在に比肩するには、全く足りないのだろうな」
「……そこまで理解していて、それでも私たちを殺すのですか?」
「ああ。儂は――消えたくないのでな」
最後の言葉には、ほんの少しだけ、感情がこもっているように聞こえた。
地面が、壁が、天井が揺れ始める。
俺は右手でエトレナを抱き寄せて、左手で地面に触れた――。
○○○
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