09話 『幸福 後編』
ラッセン神官の実力では、アナスタシア神官とスキンヘッド神官を止めることはできないだろう。
ラッセン神官が何かを言ったところで、二人の気持ちを変えることもできないだろう。
二人の行動を少しでも抑制できたら、万々歳って感じだ。
まあ、俺がここに来た最大の目的は暇つぶしだし、効果のほどはどうでもいい。
ラッセン神官とアナスタシア神官に軽く剣の稽古をつけてやると、二刻ほど経っていた。
――
気配を完全に絶った俺は、街門の上に身を潜めていた。
眼下では、青みがかった髪の毛の女性が、カロルさんと話している。
ジッと、女性に意識を向けていた俺は、静かにまぶたを閉じた。
……やっぱり。
あの女性は、ただの幽霊だ。魔物本体ではない。
予想していたことだけど……ガッカリするな。
白いため息をついて、俺は空を見上げた。
そろそろ、日が暮れそうだ。
街門から道に下りると、数百メートル先に宿がある。
宿の扉を開けると、受付には誰の姿も無かった。
奥の食堂から、女の子とエトレナの声が聞こえてくる。
顔を覗かせると、楽しそうに笑っていた少女は、ハッとした顔をした。
「あっ、私ったら……ちょっと待っててくださいね!」
そう言って奥の部屋に消えた少女は、すぐに食堂に戻ってきた。
手には、熱石タオルを持っている。
「どうぞ!」と渡されたタオルを受け取りながら、俺は食卓に目を向けた。
机の上には、果実水の入ったグラスが二つと、
「どうでした? 楽しめましたか?」
対面の椅子に座りながら聞くと、エトレナは少し不満そうな顔で言った。
「二つ目のお店でお金が無くなっちゃったので、しばらく街を歩いた後は、宿に戻ってきてました」
「そうですか……」
台所へと目を向ける。少女は、俺にタオルを渡した後、そちらに消えてしまった。
「……あの子と、どんな話をしましたか?」
「ここでの生活のことや、お友達のこと……あと、算額をできるようになりたいって言われたので、教えてあげてました」
エトレナは、算盤を見つめながら、ゆっくりとした口調で続けた。
「お父さんのお仕事を手伝いたいって、そう言われて……」
「あの子は、幽霊ですよ」
「分かってます」
エトレナはグラスを机から取ると、勢いよく飲んだ。
グラスを机に置いて、赤い瞳を向けてくる。
瞳の中では、
「アルさん、私――」
「エトレナ」
最後まで言ってしまう前に、俺は口を挟んだ。
目と目を真っ直ぐ合わせながら、冷静な声で続ける。
「気持ちは分かります。ですが、一時の感情に揺さぶられてはいけません」
ジッと、俺を見つめていたエトレナは……力が抜けたように、視線を机に落とした。
小さな声で、聞いてくる。
「……アルさんは、どう思ってるんですか?」
「私は、すでに決めています。ですが、エトレナはエトレナで……今晩、一人で考えてみてください。冷静に、どうするべきかを」
――
いつもと比べると、エトレナの食事のペースは遅かった。
色々と、考えているのだろう。
……まあ、食べ歩きをしすぎて、さすがのエトレナもお腹がいっぱいなのかもしれないが。
――夕食を食べ終わった時だった。
大きな瓶を持って、おじさんが台所から現れた。
そのすぐ後ろには、落ち着かない様子の少女が立っている。
おじさんは、ぎこちなく笑いながら言った。
「神官様たちに頼むのもどうかと思ったのですが……実は、今日は娘の十回目の誕生日なんです。一杯だけ、お付き合いしていただけないでしょうか?」
「えっ、ワルワラちゃん、誕生日だったんだ」
エトレナが驚いた様子で言うと、ワルワラは恥ずかしそうに頷いた。
「はい……えっと、迷惑じゃなければ、お姉ちゃんたちとお祝いしたいなって」
「迷惑なんかじゃないよ!」
完全に幽霊に
「そういうことなら、構わないですよ」
「ありがとうございます」
おじさんはペコペコと頭を下げて、机の上に瓶を置いた。
ワルワラはグラスを机に置いて、エトレナの隣の席に座る。
「お姉ちゃん! さっきの――」
早速、ワルワラはエトレナに話しかけている。
おじさんは優し気な目でその様子を見ながら、グラスの一つ一つに、黄色い液体を注いでいく。
「これは、どういう物ですか?」
「
「……そういえば、カザンブルクの
「ああ、
そんなことを話しているうちに、四つのグラスがいっぱいになった。
おじさんは俺の隣に座って、グラスの一つを手に取った。
俺、エトレナ、ワルワラがグラスを持つと、おじさんは俺に顔を向けてきた。
「神官様。それでは、お祈りの言葉をお願いします」
……えっ、俺?
困惑しつつも、俺はその場の雰囲気を読んで、真面目くさった顔で言った。
「ワルワラが誕生し、無事十年を迎えることができました。聖女様に感謝を」
グラスをぶつけて、中身を一口飲む。
蜂蜜水というだけあって、甘い味が口いっぱいに広がった。
だが、甘すぎるというわけではない。
シンプルな甘さを残して、冷たい液体が喉を滑り落ちていった。
――パリン。
二度、同じ音が響いた。
割れたグラスの散乱する床に、エトレナの身体が倒れ込む。
俺は……全身が痺れるのを感じながらも、なんとか椅子の上に座っていた。
「えっ……お姉ちゃん?」
ワルワラは、呆然としているようだった。
両手でグラスを持ったまま、エトレナのことを見下ろしている。
それとは対照的に、おじさんは落ち着いていた。
ゆっくりとした手付きで、グラスを机に置くと……ワルワラを見つめながら、口を開いた。
「神官様。昨日の晩、私が言ったことに、嘘は無いんです。あの言葉は、全て私の本心でした。
――ねえ、神官様。娘はいい子でしょう? 優しくて、気が利いて、頑張り屋で、時々は失敗をして、落ち込んで、でも笑顔は絶やさなくて……私の自慢の娘なんです。
だからね、分かるんですよ。娘はこんなことを望んじゃいないって。この街に、娘の思い出に、囚われてちゃいけない。私は私の人生を歩まないといけないって。それが分かってたから、私は何ヶ月も前から、ずっと悩んでたんです。
娘を置いて、カザンブルクを出ようかとも思いました。……でもね、いくら偽物だとしても、娘を置いていけるわけがないでしょう? 寂しい思いなんて、させたくありませんよ。だから――」
おじさんは、懐からナイフを取り出した。
刃に、蜜蝋の炎が反射している。
それをジッと見つめながら、おじさんは淡々とした声で言った。
「娘を殺そうと思ったんです。寝ている時に、できるだけ苦しくないように。
でもね、それも駄目でした。寝顔を見ちゃうと、どうしてもできなかった。何度も、何度も、今日こそはと思っても、駄目でした。
だから、神官様たちが来てくださって、本心から嬉しかったんです。私がやらなくてもいいんだって、心の底からほっとしました」
風の音が聞こえる。
凍てついた風が、分厚い石壁にぶつかっている。
その音に混じって、おじさんの声が聞こえた。
「この数ヶ月、私にとって、娘の寝顔を見るのは苦痛でした。
……ああ。だから、昨日の晩は嬉しかったなぁ。今日は、幸せを噛み締めながら、娘の寝顔を見ることができるんだって。そう思うと、本当に嬉しかった。
でね。娘の寝顔を見てる時にね……ふと、思ったんです。今日は、できそうだなって。
どうしてなんでしょう? 昨日からずっと考えているのですが……どうしても、分からないんです。――ねえ、神官様。神官様は、どう思いますか?」
おじさんは俺に目を向けると、直後に笑顔を浮かべた。
「ああ、すみません。話せませんよね。ははは。馬鹿だなぁ、私は」
独り言を呟くおじさんは、優しい表情を浮かべていた。
ナイフを持ったまま、椅子から立ち上がる。
「……お父さん?」
視線を向けられたワルワラは、不安そうに身を縮めている。
おじさんは、よりいっそう笑みを深めると、幸せそうな声で言った。
「たしかに殺しました。あの感触は、夢じゃない。私はこの手で、娘を殺しました。
そのはずなのに……朝起きたら、いたんですよ。おはようって、いつものように笑顔で言ってくれたんです。
それを見てね……もう、これでもいいかなって、思ったんです」
俺とワルワラが無言で見つめる中、おじさんは歩き始めた。
ゆっくりとした足取りで、石床を歩く。
コツ、コツ、と足音を響かせて……エトレナの傍で立ち止まった。
エトレナを見下ろしながら、おじさんは弾むような声で言った。
「どうしたらいいのか、マキシム神官に相談しました。単に、あなたたちを殺しただけでは、新しい人がやって来るだけで意味がない。どうしたらいいのか……考えました」
その場にしゃがんだおじさんは、エトレナの頭を抱え上げた。
白い首筋に、ナイフを食い込ませる。
「神官様。神官様から、教会に報告してくださいよ。ここには、何もいなかったって」
「……そんなことをしても、意味がありませんよ」
俺がそう答えると、おじさんは目を見開いた。
「どうして、話せる……」
「昔、毒を盛られたことがあるので、その時の経験が役立ちました」
言いながら、皿に乗せてあるフォークを、左手で掴む。
「――動くな!」
エトレナの首に、強くナイフが押し付けられた。
ツー、と。
赤い液体が、白い肌の上を流れる。
俺は身動きを止めたまま、目だけを……ワルワラに向けた。
ワルワラは、おじさんの腕を握っていた。
両手で、おじさんの震える腕を、優しく包み込んでいた。
「……お父さん」
苦しそうな笑顔を浮かべながら、ワルワラはおじさんの顔を見上げた。
「どうして、お父さんがこんなことをしてるのか分からないけど……私は、お父さんの味方だよ」
「ワルワラ……」
「――殺してしまったら、人質にはなりませんよ」
冷徹な声で、俺は割り込んだ。
おじさんが、揺れる瞳を向けてくる。
その瞳を覗き込みながら、俺は嚙んで含めるように言った。
「エトレナは、子どもではありません。こんな仕事をしている以上、死ぬことを覚悟しています。
もう一度言います。そんなことをしても、意味がありません。私はエトレナを見捨てて、あなたを殺します」
「――お父さん」
おじさんの耳に口を寄せて、ワルワラは囁くように言った。
「お父さんも、朝の、聞いたよね? お兄ちゃんが、お姉ちゃんを呼ぶ声。……できっこないよ。お兄ちゃんには、できっこない」
あどけない、少女の声だった。
「神官様が、もう少しで来てくれるって。それまで、このまま待つの。――殺しちゃダメだよ。お父さんがお姉ちゃんを殺すところなんて、見たくないから。……神官様が来るまで、このまま待つの」
やっぱり、駄目だ。
この魔物は、駄目だ。
心優しい存在なんかじゃない。
人間の心を操って……何かをしようとしている。
俺は深く息を吸い込んでから、それを細く吐き出した。
おじさんの顔を、強く見据える。
「これが、最後の忠告です。三つ数える内に、エトレナを放してください」
フォークを握り直して、俺は固い声で言った。
「――ひとつ」
おじさんは、迷っていた。
ナイフを持つ手は震えていた。
俺は……その様子を見ながら、左手に魔素を込めた。
「ふたつ――」
体内で、魔素が電気に変化する。
ワルワラが、おじさんの肩に頭を寄せるのが見えた。
その瞬間、おじさんの覚悟が決まったようだった。
「――みっつ。……残念です」
爆音が響いた。
俺の左手が輝き、おじさんの頭が消えていた。
机の上のグラス、棚に置かれていた壺、ガラスのはめ込まれた窓――その全てが割れた。
衝撃波を受けて、ワルワラは壁際まで吹き飛ばされる。
……
おじさんの背後の壁は、真っ赤に染まっている。
その中央には、赤熱したフォークが刺さっている。
ワルワラは、それを呆然と見つめていた。
俺は碧色の霧を展開し、ワルワラの身体を包み込んだ。
「――動くな。動いた瞬間、お前を消す」
霧の中で、ワルワラは身を固めた。
「お、お兄ちゃん……」
「演技を止めろ。それを喜ぶ人間は……もう、ここにはいないんだしな」
少女は、恐怖に怯えていた。
父親を殺されて、自分も霧に包まれて……小さな肩を、震わせていた。
そんなワルワラを、目を逸らさずに睨みつけていると――
表情が落ちた。
のっぺりとした、なんの感情も伺えない顔で、ワルワラは唇だけを震わせる。
「それもそうだな。……して、なぜ儂をすぐに消さないのだ?」
「お前に聞きたいことがあるからだ」
「儂に聞きたいこと? ははは。なるほどな。儂に答えられることであれば、答えてやろう」
魔物の顔を見ても、そこからは何も読み取れない。
声音にも、何の感情もない。
ただただ平坦な印象を、魔物からは受けた。
「……なら、お前の本体はどこにいる?」
「この街の近くの鉱山だ。そこに、儂は根付いている」
揺さぶりをかけるための質問だったのに、答えが返ってきた。
逆に、俺の方が動揺してしまう。
そんな俺の様子を、魔物はガラスのような目で見ていた。
「なぜ正直に教えるのか――
単純なことだ。儂が教えずとも、己はいずれ儂を見つけるであろう。であれば、儂から教えることで、多少なりとも恩を売れるのではないかと、そう考えてのことだ」
「……恩?」
疑問を込めて呟くと、魔物は眉一つ動かさずに言った。
「そうだ。――その前に、一つ謝罪をしておこう。
そこの男が先ほどしたことだが、儂は何も関知していなかった。その男が、自らの意志で行ったことだ。儂には、己らに危害を加える意志は無い」
「それを、信じると思っているのか?」
「己が信じようと信じまいと、どちらでもよい。儂の言葉に一貫性を持たせるための、単なる前置きに過ぎぬ。
儂には、己らに危害を加える意志は無い。むしろ、己らには、儂の味方になってほしいと考えている」
「味方?」
「ああ。すでに二人の神官が儂の味方になった。己らにも、そうなってほしいと考えている。
なぜだか分からぬが、祭壇で己の心は読めなかった。仮に、再び
電撃が魔物の身体を貫いた。
ワルワラだった物は、黒い石になった。
俺は碧い霧を回収しながら、エトレナの傍に向かった。
「大丈夫ですか?」
「……」
口が痺れて、喋れないらしい。
俺は、エトレナの肩に触れながら言った。
「私が毒を分解します。エトレナは、魔素の動きを観察してみてください」
一分ほど経った時、俺はエトレナの肩から手を放した。
「話せますか?」
「……あ、はい……はなへはす」
「では、残りは自分で分解してみてください」
「え、やっへふへはいんへふか?」
「四半刻待って、まだ終わっていなければ……まあ、仕方がないので、私がやってあげますよ」
鼻で笑いながら言うと、エトレナが不機嫌になるのが分かった。
――
エトレナが毒を分解している最中に、スキンヘッド神官が宿にかちこんできた。
それを待ち構えていた俺は、即座に電撃で昏倒させた。
スキンヘッド神官を壁際に転がしていると……背後で音が聞こえた。
エトレナが、顔をしかめながら立ち上がっている。
「気分はどうですか?」
「……最悪です」
エトレナはおじさんの
黙祷するようにまぶたを閉じてから、俺に目を向けてきた。
「さっき、魔物が……自分の本体は鉱山にいるって言ってましたよね。それって……」
「おそらく、例の鉱山でしょう」
陛下が、千人以上を生き埋めにした鉱山。
多くの人が死んだら、そこで魔物が発生する。
けれど、十年以上前の話だ。
これまで魔物が発生していなかったのに、今になって突然現れたのか……?
疑問を感じつつも、俺は揺らぎの無い声で言った。
「終わらせに行きましょう」
○○○
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