22話 『ロンデル・エンリ 五』
証石を
大陸中の、数百の教会から溢れた力のそれぞれが、一筋の糸となって合流してくる。
徐々に徐々に太くなった力の奔流は、大陸と聖国を隔てる海峡を渡る頃には、華を横断する
その濁流に紛れ込んでいた僕の意識は、教会の眷属――デルタと呼ばれる存在の中へと滑り込む。
デルタは少しだけ変わったあり方をしていて、身体を複数持っている。大魔石を取り囲むようにずらりと並ぶ百余りの身体は、全てがデルタのもので、全てが自我を共有している。
どうして、わざわざ身体を複数に分けているのか――たぶん理由は複数あるんだろうけど、一番の理由は安全のためなのだと思う。僕みたいな存在が証石を通して攻めてくるのを見越して、異物を即座に切り離すことができるように。
いや、ほんと……こんな罠が仕掛けられてるなんて思ってなかったから、最初ここに来た時はめちゃくちゃ焦った。大慌てでデルタの『声』を書き換えて、どうにかこうにか僕の存在と行為を『認識できない』ようにした。
だから今回も、デルタは僕が入り込んだことに気づいてない。いつもなら、これからちょっとばかしデルタの『声』を弄って、エンリ村周辺の魔物出現に関する情報を消去してもらうんだけど、僕が今回やって来たのは別の目的のため。
僕は、デルタの身体の一つ――髪の毛を短めにまとめてる、活発そうな女の子――の制御を奪って、その子の身体に意識を乗せた。
椅子から立ち上がって、伸びをする。
「ん……しょ、と」
両腕をだらんと下ろして、その場でブラブラと何度か振ってから、僕は小さく頷いた。
ここ最近はロンデルとして活動してるから、女の子の身体にはちょっと違和感がある。だから、比較的使いやすい身体を選んだんだけど、この感じならすぐに慣れそうだ。
――
身体の制御を奪ったとは言っても、この身体はあくまでデルタのものだ。だから、デルタの自我はちゃんと、身体の中に残っている。
僕はデルタの『声』を聞きながら、中央教会の廊下を歩いていた。窓から見える景色は真っ暗。天井から吊り下がる豪奢な照明器具が、ぼんやりとした白い光で闇を切り取っている。
……それにしても。
窓から視線を外して、建物内を見回した僕は、ちょっぴり首を縮ませた。
建物や地面、樹木、空気、調度品の一つ一つに至るまで、その全てに、僕ではない魔物の力が染み込んでるのを感じる。
いつもなら、世界のほとんど全てが僕の味方だ。でもここには、僕の味方になってくれる存在が一つもいない。それが、少しだけ心細い――
「あら、デルタではありませんか?」
突然隣から声をかけられて、僕はもう少しで変な声を出すところだった。というか、喉が引き攣って、ちゃんとした声にならなかっただけなんだけど。
胸を落ち着かせて、隣へ視線を向けると、そこには白い長髪を腰あたりまで伸ばしている女性が立っていた。デルタ曰く、この女性はベータと呼ばれる眷属らしい。
身体の制御を明け渡して、デルタの自我の陰から、二人のやり取りを観察する。
デルタは無言のまま、ジッとベータのことを見つめている。ベータは、特に違和感を覚えた様子もなく、笑顔を浮かべた。
「珍しいですね、こんな時間に出歩いているなんて。遠くからデルタの姿が見えたので、つい来てしまいました。ひょっとしてサボりですか?」
「……」
「あっ、誤解しないでくださいよ。私はサボりではありませんから。イプシロンが暇そうにしていたから、私の仕事を分けてあげたんです。妹思いでしょう?」
「……」
ベータは、マジマジとデルタの顔を見つめた。
「デルタ? その……あの、怒らないでください。別にイプシロンに意地悪をしたいのではなく、困った顔が可愛いから、つい」
「……」
「む、それは聞き捨てられませんね。確かに、デルタはイプシロンのお姉ちゃんですが、私は二人のお姉ちゃんですよ」
「……」
「……それにしても、デルタがこんなに意地になるなんて珍しいですね。可愛いので、抱きしめてもいいですか?」
反応を待たず、ベータはデルタの身体を抱きしめた。
ふわりと、花のいい香りがする。
見ると、ベータの肩には黄色い花びらが一つ付いていた。たぶん、ついさっきまで、中庭の花壇のあたりを散策してたんだろう。
「……」
デルタは無言のまま、ベータの肩を押しのけた。
「もう、デルタは恥ずかしがりやですね。昔はあんなに甘えてきたのに」
「……記憶を捏造しないでください。それと、アルファが呼んでいます」
「あら、それは残念。もうちょっと、デルタと戯れていたかったのですが」
ベータは唇を尖らせたまま、出現した時と同じように、何の前触れもなく姿を消した。
――
それからは、誰に邪魔をされることもなく、緻密な彫刻の施された、濃褐色の大扉の前にたどり着いた。
持ち手を引くと、ほとんど抵抗もなく大扉は外開きに動いた。同時、扉の隙間から、濃厚な紙の匂いが漏れ出てくる。
中央教会図書館。教会の保有する全ての情報が、この施設に保管されている……と、デルタの『声』にあった。
図書館は三階建てになっていた。一階の中央部には、空っぽの机と椅子がたくさん並んでいる。そして、その周りを、莫大な数の本棚が取り囲んでいた。
見渡す限りの本棚。一階から三階まで、各階には僕の身長の何倍もの高さの本棚が数えきれないほど並んでいて、それぞれの本棚には、分厚い本がギッシリと詰まっている。
華にも書庫はあったけど、規模がぜんぜん違う。
こんなに沢山集めてどうするの、と内心思わないでもないけど……僕のことを取り囲む圧倒的な量の本を前にして、僕はぽかんと口を開けたまま突っ立っていた。
そんな僕が我に返ったのは、物音一つ無かった図書館に、カツカツと小刻みな音が響くのが聞こえたからだ。
音の方向に視線を向けると、こちらへ小走りで向かってくる小さな影がある。胸元には、苔が生えているみたいな、抹茶色の巨大な本を抱えていた。
僕の目の前で立ち止まった眷属――ニューは、少し息を乱しつつ、物凄く嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「で、デルタお姉ちゃん! どう、したんですか?」
「閉鎖書庫の情報を閲覧するために来ました」
どうやらデルタは、ベータ以外とは普通に会話するらしい。
「閉鎖書庫、ですか? デルタお姉ちゃんの頼みなら、いつでも開けますけど……」
ニューは、伺うような目をデルタに向けてきた。
デルタの中で、僕はほんの少しだけ迷う。ニューは見た目は幼いけど、教会の眷属だ。そこらの人間と違って、『声』を書き換えるにはそれなりに大きな力を使う必要がある。
デルタの場合は、大陸中から集まった大量の力に紛れて力を使うことができたけど、こんな所で同じことをしたら、教会の魔物に勘付かれちゃうかもしれない。
とはいえ……ニューに疑われて、あとあと面倒なことになるのを考えたら――
「先ほど、ベータに会いました」
デルタが話し始めたので、僕はひとまず力を使うのを止めた。ニューはキョトンとした顔で、デルタのことを見つめている。
「その時、ベータに言われたのですが、私は幼い頃ベータによく懐いていたそうです」
「……そうなんですか?」
「もちろん、私の記憶にそのようなものはありません。おそらく、ベータの妄想でしょう」
「うーん、私もそう思います」
ニューは苦笑いを浮かべた。
「とはいえ、私の記憶違いの可能性もあります。客観的な記憶を確認する必要があると考え、こちらに伺いました」
「なるほど、そういうことだったんですね。デルタお姉ちゃんらしいです!」
ニューはデルタの説明に納得してくれたらしい。僕はデルタの中でほっと息をついて、行使しようとしていた力を体内に戻……そうとして、ニューの様子がおかしいことに気付いた。
胸に抱えた本で口元を隠しながら、上目遣いでデルタのことを見ている。
その様子があまりにもイーナに似ていたので、僕は思わず笑ってしまいながら、デルタの制御を一瞬だけ奪った。
「わっ、わ」
突然抱きかかえられてびっくりしてるニューと同じように、デルタも困惑しているのが伝わってきた。
デルタはすぐにニューを床に下ろそうとしたみたいだけど、その直前にニューは花咲くような笑顔をデルタに向けた。
「デルタお姉ちゃんに抱っこしてもらうなんて、久しぶりです!」
「……一五五〇年ぶりです」
答えるデルタの頭の中に、当時の『声』が浮かび上がってくる。
一五五〇年前と言ったら、まだ僕でさえ生まれてない時代だけど、浮かび上がってきたニューの姿は、今の物と全く変わらない。
どうやら当時から、ニューはデルタによく懐いていたらしい。たくさんの幸せな『声』が、浮かんでは消えてゆく。それに応じて、普段は感情の希薄なデルタの中が、ほんのちょっぴり温かくなった。
ニューを抱きかかえたまま、デルタは書庫の奥へと進んでいく。
「ミューはどこにいますか?」
「ミューは控室で休んでます! 今の時間なら……たぶん、夜更かしして、本を読んでると思います」
それっきり、二人の間に会話は無かった。デルタは無口だし、ニューは恥ずかしがって、ちらちらとデルタのことを見るだけ。
静まり返った図書館に、デルタの足音が木霊する。
そんな様子を、僕はデルタの陰から眺めていたんだけど……不思議と、居心地は悪くない。デルタとニューの間には、和やかな空気が流れていた。
図書館最奥の司書机に辿り着いた時、ニューが身動ぎした。
「あの、ミューに見られたら怒られちゃうので」
床の上に立ったニューは、すごく残念そうな顔をしていた。ぶんぶんとかぶりを振って、胸に抱えていた大きな本を司書机の上に置くと、奥にある木製の扉を、小さな拳でコンコンと叩いた。
「ミュー、起きていますか?」
数拍の間をおいて、扉の奥からトテトテという足音が聞こえてきた。
「どうしまし、た?」
扉を開けたミューは、ニューの後ろに立っているデルタの姿を見つけると、ニューと瓜二つの顔で目を見開いた。
「デ、デルタお姉ちゃん! どうしたんですか!」
「閉鎖書庫に入りたいそうです」
「閉鎖書庫、ですか?」
先ほどのニューと全く同じ反応をするミューに、ニューが事の次第を説明すると、ミューは納得の表情を浮かべながらうんうんと頷いた。
「なるほど、そういうことでしたら……ひとまず、控室に入りましょう! ここだと、いつ聖官さんたちが来るか分かりませんから!」
言いながら、ミューはデルタの右手を握った。それを見たニューはむっとした表情を一瞬浮かべて、デルタの左手を握る。
二人に両手を引っ張られて、デルタは控室に連れ込まれた。
入ってすぐには小さな木製の机が一つと、二つの椅子。机の上には、古ぼけた分厚い本が一冊だけ置いてある。
机の奥には、真っ白な絹布で覆われた寝台があった。絹布が少し乱れてるところを見るに、ついさっきまで眠ってたのかな? 枕元には、小ぶりな本が一冊置いてある。
「あっ! ミュー、また寝そべりながら本を読みましたね!」
「……ちゃんと座って読みましたよ」
「本が痛むから止めてくださいって、何度も言ってるのに!」
「だから、ちゃんと座ってましたよ! 本はそこに置いてあるだけです!」
それぞれが僕の右手と左手を掴んだまま、デルタを間に挟んでミューとニューの言い争いが始まった。
二人の声の背景に、室内には、チク、タク、という小さな音が響いている。見ると、寝台の脇に大きな振り子時計が置かれていた。
時計の針は、夜の九刻過ぎを指している。ウスラたちが起きる前――朝の四刻くらいには家に戻りたいから、あと五刻くらいしか時間がない。
「ミュー、ニュー、あまり時間がないので、そのお話は後にしませんか?」
「う、ごめんなさい」
「……ごめんなさい」
僕の左右で、ミューとニューが全く同じしょんぼりとした表情を浮かべる。
……というか、二人とも全く同じ顔だから、どっちがどっちか、こんがらがってくるなぁ。
僕には全く区別がつかないんだけど、どうしてかデルタには違いが分かるらしく、その『声』を聞いてなんとか区別を付けてる状態だ。
ミューとニューは名残惜しそうにデルタの手を放すと、二人並んで僕と向かい合った。
「デルタお姉ちゃんなら大丈夫だと思いますけど、決まりなので説明しますね。――アルファお姉ちゃんに怒られちゃうので、閉鎖書庫の門はすぐに閉じます」
「そうしたら、外界とは完全に隔絶されます。私たちが門を開けるまで、外に出られませんし、外に出たいと伝えることもできません」
「なので、何か用事があれば、先に済ませておくことをおすすめしています」
どうですか? と二人が灰色の瞳を向けてくるので、僕は無言で頷いた。
「それでは、何刻後に門を開けましょうか?」
「四刻後にお願いします」
ニューはコクリと頷くと、申し訳なさそうな顔をした。
「事前の届け出がなかったので、案内はできません。迷ったら、入口に戻ってきてくださいね」
「はい、分かりました」
僕の返事を聞いたミューとニューは、互いの手を取り合って、開いている方の手で床を指差した。同時、径二メルほどの、青色の光を放つ円陣が床に出現する。
音もなく、その場でゆっくりと回転していた円陣が一際強い光を放ったかと思うと――床から、門がせり出してきた。
門の色は青色。どうやら魔石で形作られているらしい。門柱には、蔓が巻き付いているかのような彫刻がされていて、ところどころには、薔薇らしき花まで彫り込まれている。
扉の中央には教会の三円環があった。その周りを、見たことのない六つの紋章がぐるりと取り囲んでいる。
普通に扉を押し開けたらいいのかな? って思ってたら、デルタ曰く違うらしい。
手のひらを扉に向けて、力を放出する。すると、扉の中央の三円環がぐるりと回って、カチリと鍵が開くような音がした。
扉が開く。
○○○
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