23話 『ロンデル・エンリ 六』
門をくぐり抜けると、背後で扉の閉じる音が聞こえた。扉から光が差し込まなくなったせいで、一気に周囲が暗くなる。
「……ここが閉鎖書庫か」
眼前に広がる空間を見回しながら、我ながら気の抜けた声で呟く。
正面には、果てしなく続く直線の通路。通路の左右には無限の高さの棚が整然と並んでいて、それぞれの棚には青色の魔石が隙間なく収めてあった。
魔石の発する青色の光が、唯一の光源として、閉鎖書庫の中を薄く照らしている。
ひとまず、僕は正面の通路を奥に向けて歩き始めた。
足取りは軽い。歩幅や速度、腕の振り具合、足裏の突き方――そういった部分を意識する必要がない分、中央教会の中を歩いていた時と比べて幾分気楽だ。
というのも、デルタの『声』いわく、この閉鎖書庫と呼ばれる空間は周囲から完全に隔絶されているため、僕の存在がバレる心配はないらしいからだ。
これで、ようやく肩の力を抜くことができる。
僕はのんびりとした足取りで、すぐそばの棚に近づいた。そこから、一個の魔石を手に取ってみる。
魔石の中では、煙のような物が渦を巻いている。軽く力を注ぎ込むと、煙は意志を持ったかのように動き始めた。
瞬きもせずにその様子を見つめ続けていると、徐々に凝集した煙は、魔石の中に像を形作った。
そこに映ったのは、イプシロンと呼ばれる眷属の姿。困ったような表情を浮かべている。おそらく、この記憶の持ち主――ベータに何かをされたのだろう。
もっと詳しく知りたければ、魔石に収められている記憶を吸収することで追体験ができるらしい。
けれど、これは僕が求めている記憶ではない。
手に持っていた魔石を棚に戻して、僕は顔を上に向けた。
青い魔石の並ぶ棚は、頭上遥か彼方まで続いている。次に左右へ視線を向けると、やはり無数の棚が立ち並んでいる。
閉鎖書庫と呼ばれるこの空間には、教会の眷属が過去に経験した、全ての記憶が保存されている。
各々が長くて二千年、短くて百年ちょっとの記憶を持つらしいから、合計すれば数万年分の記憶ということになる。人間で言えば千人分に足りないくらいの記憶だ。
数万年分と言えばもちろん膨大な量だけど、無限ではない。当然、その記憶を収めた閉鎖書庫も無限の大きさを持っているわけではない。けれど、見た目には無限に続いているように見える。
デルタによると、この書庫にはガンマと呼ばれる眷属の力によって『鏡面結界』が張られているらしい。限られた空間を互いに繋ぎ合わせることによって、空間を閉じる……とかなんとか。
正直、仕組みはさっぱり分からない。デルタも、自分の担当ではないので詳しくは分からないらしい。
けれど、どうすればいいかをデルタは知っていた。
僕は中空にデルタの力を放出すると同時に、書庫に向かって命令を下した。
「ガンマ、中央教会内での記憶」
瞬間、僕の身体は転移をした。大通路からは少し奥まった、細い――とは言っても、人が数人並んで通れるくらいの幅はある通路に僕はいた。
目の前の棚には、さっき指定した記憶の詰まった魔石が整然と置かれている。
「うわ、結構たくさんあるな……」
まあ、別に全部を見ようってわけじゃない。興味があるのは、この記憶のうちの極々一部だけ。ガンマが、過去に自分の妹たち――つまりは、眷属たちに対して、どういうふうに接していたかについての記憶だ。
デルタの『声』を覗いてみた限り、残念ながらデルタ、ミュー、ニューの三眷属は、誕生した後に今のイーナみたいな状態にはならなかったらしい。
でも、ひょっとしたら……他の眷属は、力を制御できない状態になったことがあるかもしれない。
期待を抱きつつ、棚に向かって力を放出する。すると、棚の色々な場所から浮かび上がった魔石が、一列になって僕の目の前まで飛んできた。
のんびりしてる時間はあんまりない。教会の眷属なら面白い記憶を持ってそうだけど、目移りしないように気を付けないと。
――
「デルタお姉ちゃん!」
閉鎖書庫から出ると、顔をキラキラさせたニューが話しかけてきた。ちなみに、ミューは寝ぼけ眼でボンヤリした表情をしている。
「ありがとうございました。目的の情報を閲覧することができました」
「それはよかったです! それで、ベータお姉ちゃんの言うことは本当でしたか?」
「やはり、そのような事実はありませんでした」
ガンマやイプシロンの記憶を覗いてみたけど、デルタは昔からこうだったし、ベータも昔からああだったらしい。
他の眷属も、生まれた時から今と同じ姿だし、扱うことのできる力も今と変わらない。
全ての眷属は生まれながらに力の制御方法を理解していて、今のイーナみたいな状況に陥った眷属なんてただの一人もいなかった。
デルタの精神の陰で徒労感に打ちひしがれながら、僕はデルタとニューのやり取りをぼんやりと眺めていた。
「では、今日はこれで戻ります。予約もなしに伺って、失礼しました」
「デルタお姉ちゃんなら、いつでも歓迎です! ね、ミュー?」
ニューが肩を揺すりながら声をかけると、寝ぼけ眼のミューがこくりと頷いたように見えた。ニューは困ったような表情を浮かべながら、控室の扉を開けた。
「ごめんなさい。一番負荷のかかる時間なので……」
デルタは無言で頷きつつ、ニューの開けてくれた扉から図書館へと出た。続けてニューが出てくるのを待って、図書館の出口へ向けて歩き始める。
デルタの隣に並んだニューは、こっちまで笑顔になってしまいそうな表情を浮かべながら、
「今日はデルタお姉ちゃんに久しぶりに会えて嬉しかったです!」
「そうですか」
「はい!」
ニューの弾んだ声が、他には誰もいない図書館に木霊する。
僕はデルタの中から、マジマジとニューの姿を見つめていた。ニューを見ていると……似ても似つかないけれど、その姿がイーナの姿と重なってくる。
半ば無意識に、僕はデルタの制御を奪っていた。
「ひゃっ……」
デルタの手のひらを使って、ニューの頭を撫でる。
「あ、あの……デルタお姉ちゃん?」
ニューが戸惑った様子で、両手を僕の手のひらの上に乗せた。子ども特有の高い体温が、僕の手に伝わってくる。
その体温を感じながら、氷のように固まっているデルタの顔を無理やりに動かして、僕はぎこちない笑顔をニューに向けた。
○○○
冬が過ぎ、春になった。
畑を持ってない僕は、いつもなら農作業の手伝いに駆り出されて大忙しなんだけど、今年はちょっとばかし『声』を弄って、さぼらせてもらった。
というのも、そんな余裕がなくなってしまったからだ。
僕は夜な夜な、各地の教会に貯蔵されている魔石を、ちょっとずつくすねてまわっていた。
身体に吸収した力を、エンリ村に帰ってすぐにイーナに注ぎ込む。それでも、イーナが求める力に足りなくて、少しずつ僕の力は削られていった。
そうやって、どうにかこうにか耐えていたけど、夏虫の鳴き声が聞こえてくる頃になると、どうしようもなくなっていた。
――
イーナを寝かしつけた後、僕は居間の椅子に一人で座っていた。目の前の机では、一本の蝋燭が光を灯している。
いつもなら、これから教会に行って魔石を頂戴してくるんだけど、今日はどうしてもそのやる気が出ない。
ここ最近、ずっと全身を包み込んでいる倦怠感が、僕を立ち上がらせる気力を奪っていた。
……どう考えても、今のままじゃマズい。日を追うごとに、どんどん状況が酷くなってる。とはいえ、僕には、どうすればいいか分からない。
教会には解決策はなかった。あるいは、弧帝なら何か知ってるのかもしれないけど、姿を現す気配はない。何度か、弧帝を誘うために美味しい食べ物を用意したこともあるけど、全く手応えがなかった。
「……ふぅ」
ため息をついて、僕は机の上に突っ伏した。
目の前には、暗闇が広がっている。それを見つめていると、蝋燭が揺らめく音に混じって、早鐘のように打つ、自分の鼓動の音が聞こえてきた。
……狐帝を呼び出す方法には、一つだけ心当たりがある。
本人が言っていた。もしも、僕がアルくんに害なすことがあれば、その時は報復をすると。アルくんを使えば、たぶん狐帝を呼び出すことができる。
でも、それだけじゃ駄目だ。単に怒った狐帝を呼び出すだけじゃ、何の意味もない。呼び出したうえで、僕に協力してもらう必要がある。
狐帝を――自分よりも強大な存在を、自分の意のままに操るには、どうすればいいか。
暗闇を見つめながら、記憶を探る。自分自身の経験と、これまで数多聞いてきた膨大な『声』。その中になら、何かしらの手がかりがあるはずだ。
七百年ほど前、
四百年ほど前、大陸中部で豪商として名をはせた老人はどうだろう? 彼は自身の腹心に盛られた薬によって、全ての財産を自ら差し出してしまった。
あるいは――
机に突っ伏したまま考え込んでいた僕は、ある記憶に思い至って呼吸を止めた。
窓の外では蛙の鳴き声。細く開いた窓から、生暖かい風が吹き込んでいる。その風が、蝋燭の炎を揺らす音が微かに聞こえた。
「……はぁ」
机に突っ伏したまま視線を横に向けると、そこに置かれている、布のかけられた木籠が目についた。
重たい腕を持ち上げて布を取る。すると、茶色い焼き菓子がたくさん中に並んでいるのが見えた。
この焼き菓子はイーナがくれたものだ。なんでも、クレアさんに教えてもらいながら、一緒に作ったんだとか。
……どうやら、イーナはクレアさんにすごく懐いているらしい。クレアさんにイーナを取られちゃったみたいで、ちょっと複雑な心境だ。
木籠から焼き菓子を一つ取って、それを突っ伏したままの口元に運ぶ。ポリポリと噛むと、甘い味が口の中一杯に広がった。
「……よし」
椅子から立ち上がって、蝋燭の炎を消す。
「今日も頑張らないと」
○○○
「お父さん、薬膳粥を作ってみたんだけど……」
寝台で横になっていると、部屋の扉を開いてイーナが室内に入ってきた。
居間の方でも火を焚いているらしく、暖かい空気が流れ込んでくる。その空気に乗って、生姜や八角の混じった独特の匂いが微かに香ってきた。
「……イーナが?」
重たい身体を寝台から持ち上げながら答えると、小走りで駆け寄ってきたイーナが僕の背中を支えてくれた。
「大丈夫?」
「うん」
頷いた僕は、イーナに視線を向ける。すると、イーナは恥ずかしそうに顔を背けて、
「えっとね、前にお父さんが作ってくれたのを、見よう見真似で作ってみたんだ。あんまり、美味しくないかもしれないけど」
「そんなことないよ。イーナが作ってくれた薬膳粥なら、ぜひ食べてみたいな」
笑顔で言うと、イーナは唇を少しだけ尖らせて僕に背中を向けた。
「すぐに持ってくるから、ちょっと待っててね」
イーナが部屋から出て行ったのを見送って、僕は背中を壁に預けながら、目を閉じた。
……ついさっき、イーナに背中を少し触られただけでも、ごっそりと体内の力を奪われてしまった。
額を流れる汗を拭う余裕はない。全身を苛む強烈な倦怠感を、眉間に皺を寄せながら堪える。
実際はたぶん、ほんの短い時間、けれど僕にとっては随分と長い時間が経ったころ、こっちに近づいてくる足音が聞こえた。
何事もなかったかのように柔らかな表情を顔に浮かべて、僕はイーナが戻ってくるのを待ち構えた。
部屋に入ってきたイーナの右手には、大きめのお椀が乗せられていた。白い湯気が立ち昇っていて、木製の
イーナはお椀を寝台横の小卓に置いて、代わりにそこに置いてあった水差しを手に取った。水を湯呑に注いで、お椀の隣に置く。
「お代わりもあるから、たくさん食べてね」
そう言うと、イーナは僕の隣に座った。落ち着きなく、僕と薬膳粥の間で視線を動かしている。
「それじゃ、頂こうかな」
お椀を手に取ると、中に入っている鮮緑色をした泥状の物体から、濃厚な香りが立ち上ってきた。少しだけ頭がクラクラする。
この薬膳粥は、僕が華にいた時に、黒狼衆の女の子に作り方を教えてもらった料理だ。その女の子は、号が蛇というだけあって、毒薬を作るのが得意な子だったんだけど、その技が転じて薬膳にも造詣が深かった。
黒狼としての僕は、唯一の趣味としてお茶を収集してたから、蛇が薬膳茶の作り方を知ってると『声』で知って、その作り方を教えてくれるように頼んだ。その時に、頼んでもないのに蛇が嬉々として教えてきたのが、この薬膳粥の作り方だ。
木匙を手に握って、ドロッとした粥を掬い取る。それを口の中に入れると、舌先にピリっと痺れが走った。
「どう?」
「……美味しいよ。本当に、料理が上手になったね」
頭を撫でてあげると、イーナは一瞬だけ嬉しそうな顔をしたけど、すぐにすました表情に戻ってしまった。
「そうかな?」
「そうだよ。ついこの間まではからっきしだったのに。これなら、いくらでも食べられそう」
お世辞でもなんでもなく、イーナの料理の腕は、この数月で飛躍的に伸びたと思う。やっぱり、クレアさんの教え方が上手だからかな? 少しだけ悔しいけど、イーナの成長を感じるのは純粋に嬉しい。
……それにしても。
僕は匙で粥を掬いながら、閉鎖書庫に行った時のことを思い出していた。
僕は閉鎖書庫で、教会の眷属の記憶を覗き見た。その時の目的は、過去にイーナと同じ状況に陥った眷属がいないか確かめることだったけど、副次的に色々な知識を得ることができた。
それぞれの眷属の力や、色んな地域の歴史や風土、教会がこれまでにやってきた多くこと――そして、魔物と眷属の関係について。
狐帝から聞いて知っていたのは、眷属がいる限り魔物が消滅することはないってことだけだった。それに加えて、僕は新しく二つの知識を得ることができた。
一つ目は、完全な眷属であれば、魔物が存在している限り復活できるということ。実際、教会の眷属は何度も死んで、その度に復活しているらしい。
二つ目は、眷属は魔物の力の対象になるということ。仮にどれだけ眷属が抵抗しようとも、魔物の力に全く抗えなくなってしまう……はずなんだけど。
匙を口に突っ込みつつ、イーナの緩んだ顔を盗み見る。
やっぱり、どれだけ集中してもイーナの『声』は聞こえてこない。イーナは僕の眷属だ。だとしたら、『声』は当然聞こえるはずなのに、初めて会った時から一度もイーナの『声』が聞こえたことはない。
――それから、イーナと話しながら、僕は薬膳粥を二杯ほど食べた。
残念ながら、今の僕に薬膳は効かない。でも、身体がぽかぽかと温かくなって、僕は満たされた気持ちで寝台に横になることができた。
お椀と湯呑を持ったイーナが、部屋の扉を開ける。
「何かあったら呼んでね」
「うん、ありがと」
イーナが出ていくと、火鉢で炭が燃える微かな音だけが室内に響く。僕は寝台に転がったまま、天井の木目を眺めていた。
三日前、僕は討伐の途中で、しばらく家で休むようウスラに命令された。ウスラの目から見て、僕がフラフラしてるのを危険に感じたかららしい。ずっと前から限界だったけど、あの時は取り繕う余裕さえ残ってなかった。
このままだと、来年の春が来る前に、僕の力はすっからかんになってしまうだろう。人間なら、力を使い切っても身体が残るけど、魔物にとって力は身体そのものだ。それが無くなってしまったら、どうなるのか?
眷属が生きている限り、魔物は消滅しないはずだ。だから、イーナが生きている限り、どうにかして僕は存在し続けられる……のかな?
正直なところ、分からない。イーナは眷属のはずなのに、僕の力の対象にすることができない。ということは、他の性質もイーナは例外でもおかしくないんじゃないかな、と思う。
いずれにせよ、一つだけ実感として分かることがある。もしも僕が存在し続けられたとしても……その時、僕には何の力も残されていないだろう。
僕の抑えが無くなったら、イーナの力は完全に解放されてしまう。あっという間にエンリ村は壊れて、遠からず教会はイーナの存在に気づくだろう。そして、その時に僕はイーナを守ることができない。
考えうる限り、最悪の展開だ。
この展開になる可能性が高いことは、数ヶ月前にはもう分かっていた。それでも、ずっと目を逸らし続けていた。だけど、いよいよ目の前に迫ってきて、直視せざるを得なくなってしまった。
今ならまだ間に合う。できればやりたくなかったけど、背に腹は変えられない。
「……ごめんね」
小声で、ボソリと謝る。
頭に思い浮かべるのは、金髪の少年の姿。
最初は接し方がよく分からなかった。狐帝の眷属だと知ってたから、どこか警戒しながらアルくんのことを見ていた。
けれど、そんなアルくんは僕によく懐いてくれた。そして、いつしか僕の大切な存在の一人になっていた。
……でも僕にとって、一番大切なのはイーナだ。アルくんじゃない。
イーナを守るためなら……。
○○○
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