19話 『ロンデル・エンリ ニ』
アルくんの中に狐帝の力を感じる。
正直なところ、意味が分からなかった。
もちろん、そんなに難しい話じゃない。アルくんの中に狐帝の力を感じるなら、狐帝が力を与えたということだ。
そんなことは、言われるまでもなく分かっている。
けど、狐帝がそんなことをするなんて、とても信じられなかった。狐帝は悪ふざけが好きだけど――こんな、明確に僕と敵対するようなことを、するはずがないと思っていた。
ギリッ、と歯を噛み締めると、アルくんが僕の腕の中で泣き始めた。
「どうした、ロンデル?」
ウスラが困惑した顔で声をかけてくる。
「……ごめん。ちょっと、急用ができたから……もう帰るよ」
――
誰にも呼び止められることなく自宅にたどり着いた。
僕の意思に応じて、玄関扉が開く。
勢いを緩めることなく部屋の中に入ると、狐帝は椅子に座って本を読んでいた。
「……意外だね。てっきり、もう逃げてるかと思ったんだけど」
僕が声をかけると、狐帝は黄金色の瞳を持ち上げた。微塵たりとも表情を変えずに、
「何を怒っていらっしゃるのですか?」
「あまりふざけたことを言ってると、怒るよ」
「既に怒っているではありませんか。我が何かしましたか?」
あくまでもすっとぼけるつもりらしい。
声を荒げそうになるのを堪えて、僕は狐帝を睨みつけた。
「……どうして、アルくんに手を出したの?」
「個人的な事情からです」
「事情? 何、それ」
「黒狼様には関係のないことです。……そもそも、アル・エンリは黒狼様の所有物でも何でもないでしょう? 我がどう扱おうと、勝手のはずです」
僕は衝動的に狐帝に攻撃を加えようとして……止めた。
意味がないからだ。
僕の力では、狐帝に傷一つ付けることができない。
逆に、狐帝は僕を消滅させられる。
実際に戦ったことは一度もないけど、それくらい大きな差を、僕は狐帝との間に感じている。
今ここで手を出した所で、狐帝を力で従えることなんて逆立ちしたってできっこない。
それ以前に、僕と狐帝が本気で戦ったらエンリ村ごと消滅してしまうだろう。本末転倒もいいところだ。
僕はふぅー、と息をはいて、
「狐帝だって、僕がこの村を特別に思ってることは知ってるはずでしょ? 逆に、狐帝にとっては特別でも何でもないはずだ。どうして、わざわざ手を出したの?」
「先ほど申し上げたではありませんか。個人的な事情からです」
狐帝の口調は突き放すようだった。
それに若干の違和感を覚える。
単に面白半分でこんなことをしたのなら、もっと楽しそうにしてるはずだ。でも、今の狐帝は全く楽しそうじゃない。
考えてみれば、狐帝はここに残っていた。僕が怒って帰ってくることを知ってたはずなのに、姿をくらますことなくここに残っていた。
『個人的な事情』が何か分からないし、狐帝も言うつもりがなさそうだけど……何らかのちゃんとした事情があって、それを申し訳なく思ってるから、わざわざ僕が帰ってくるのを待ってた、のかな?
そう思うと、自分の中の怒りが若干収まるのを感じた。
代わりに湧いてきたのは不安だ。
遊び半分でなく目的があるのなら、僕が何を言ったって狐帝は聞かないだろう。力だけでなく言葉もダメなら、僕にできることはほとんどない。
だからと言って、ただ黙って見てるつもりも……さらさらない。
「……で、狐帝はこれからどうするの?」
「心配せずとも、今のところは加えて何かをするつもりはありませんよ。アル・エンリにも、もちろんそれ以外の誰かにも、です」
狐帝は口元を押さえた。ふふっ、と小さく笑って、
「本当に、黒狼様は可愛らしいですね。いつになく敵意を剥き出しにして、それほどまでにこの村が大切なのですか?」
「……うるさいよ。それより、本当に信じていいの? 何もしないって」
「あくまで『今のところ』ですので保証はしかねますが。ただ、すでに成すべきことは成しましたから、何事もなければ何もしませんよ」
成すべきことは成したって……アルくんに力を与えたことかな?
ただ、アルくんに力を与えるだけ与えて、それ以降は何もしないだなんて、それって何の意味があるんだろう?
近くから観察して楽しむって言うんなら、狐帝の性格上分からないでもない。
でも、もしも、僕の感じた通り、悪ふざけでないんなら、何か別の理由があるはずだ。
……そういえば、ここ最近、狐帝はうちに来て巻物を書いていた。ひょっとして、あれは何かをしてた……のかな?
「ところで、黒狼様に一つ忠告が」
僕が考え込んでいると、狐帝が声をかけてきた。視線を上げると、意地悪な笑顔を浮かべる狐帝と目が合った。
「アル・エンリの中に我の力があるということ、それが何を意味するか、黒狼様はまだ思い至っていないようですね」
「……どういうこと?」
「黒狼様は、アル・エンリを力の対象にすることはできない、ということです」
……確かに、言われてみればそうだ。
僕は、自分と同等以上の存在を力の対象とすることはできない。
狐帝にいたっては、その欠片を持っているだけの眷属――アルくんに、僕は干渉できない。
「でも、だから何なの? 確かに『声』は聞こえないかもしれないけど、そんなことはもう慣れてるし」
「黒狼様の力はそれだけではないでしょう? 記憶の書き換え、こちらに関しても、アル・エンリに対しては行えません」
狐帝はいつの間にか右手で紅葉を摘まんでいた。クルクルと回している。
「黒狼様が記憶の書き換えをした時、アル・エンリだけは、正しい記憶を持つことになります。
その時、彼は自問自答することになるでしょう。世界が間違っているのか、自分が間違っているのか。
……人間の精神は非常に脆く壊れやすいものです。その選択を迫られた時、場合によっては発狂しかねません」
弧帝は、紅葉を回すのを止めて、
「アル・エンリは我の眷属です。もしも我の眷属に被害があれば……我も、黒狼様に相応の対価を支払っていただきます。例えば、そうですね――」
狐帝が、チラリと机の上に視線を向けた。
つられて見ると……いつの間にか、机の上には小さな人形が置いてあった。
大きさは十センほど。
変わった人形だ。
甲冑? のような物を着ているけど、見たことのない造りをしている。
その人形の首が、ゴトリと落ちた。
ごろごろと転がって……顔の正面を僕へと向けたまま、動きが止まる。
……何も言えず、僕は弧帝へと視線を向けた。
弧帝はニコリと笑うと、
「さて、我はしばらく姿を消すことにします。ですので、黒狼様の婚約者という大役、残念ながら果たすことができません。申し訳ありませんが……ご自分で蒔いた種ですからね。後始末は、黒狼様ご自身で行ってください」
◯◯◯
討伐からの帰り道。太陽は西の森の上辺まで傾いていて、並んで歩く僕とウスラのことを、橙色の光が照らしていた。
今は冬のど真ん中。まだ夕方の五刻になるかならないかって時間のはずだけど、日が沈むのは早い。僕が家に着くころには真っ暗になってるかもしれない。
ウスラは土がむき出しの畑を眺めながら、
「そういえば、昨日国から文が届いたんだが、来年の夏は雨が多いらしいぞ」
「え、そうなの?」
まあ、『声』を聞いて知ってたけど、知らんぷりだ。
ちなみに、夏に雨が降るのはあまりいいことではない。エンリ村の主な作物は小麦だけど、夏に雨が降ると生育に悪影響が出てしまうからだ。
小麦を育ててる土地の人間なら、夏の雨と聞いただけで仏頂面になるだろう。だから僕も仏頂面を浮かべておいた。
一方で、ウスラは淡々とした様子で、
「ここ数年は豊作だったから備蓄もあるし、いざとなれば南部が支援してくれるらしいから、あまり心配はしてないんだけどな。それより、くそ暑い上、雨が降る中討伐に行かないといけないのが今から憂鬱だ」
「あー、確かに」
頷きつつ、僕はウスラの横顔を見つめていた。
口ではこんなことを言ってるけど、頭の中でウスラは色々と考えている。
倉庫の備蓄の確認や、排水設備の点検修繕。他にも、夏が来るまでにやっておく必要のある諸々の仕事と、その優先順位。
怒涛の勢いで、ウスラの『声』が伝わってくる。
そういう『声』を聞いていると……エンリ村を継いだ当初と比べると、ウスラはずいぶんと成長したなと思う。
特に、五年前にサルマンさんが病気で亡くなってからは、他の領主に文を出したりして、積極的に成長するようになった。
やっぱり、人間はあっという間に変わってしまう。
それは人間のいいところでもあるけど……。
「ん、なんだ? そんなにジッと見て」
「……いや、ちょっと見惚れてただけだよ。ウスラは男前だなってね」
「お前に言われると皮肉にしか聞こえないな」
「そんなことないよ」
ウスラは憮然とした顔で、
「ふんっ。今はまだ若くても、二十年も経てば俺もお前もおっさんだ。そして、その時に笑ってるのは俺だ。なんてったって愛する妻と子がいるんだからな」
「あっ、言ったね。気にしてるのに」
「むしろ感謝してほしいくらいだ。面と向かって言えるのは俺くらいだからな」
確かに、このことに触れるのはウスラくらいだ。他の人たちは気を使って、この話題に触れてくることはほとんどない。
「気になるくらいならさっさとロンデルも誰かとくっつけよ。もう五年も経ったんだし」
「うーん、どうかな」
「というか、早くくっついてくれ。お前のせいで、変な期待を持ってる子が何人もいるんだからな」
「それはごめん。……でも、イリエルさんのことが忘れられないから」
うう、自分で言ってて反吐が出そうだ。確かに、狐帝のことは忘れたくても忘れられないけども。
でも、この設定は案外と都合がいい。
こう言っておけば、面倒な見合い話を持って来られることもないしね。
――
ウスラと別れて自宅に着いた時には、案の定日は沈んでいた。西側の空は紫で、真っ暗というより薄暗い。
ひとりでに開いた扉を抜けて部屋の中に入る。卓上の明かりを付けようと、部屋の中央へと向かった時――
「おとーさんっ!」
はしっと、何かが足に纏わりついた。
突然のことに身が固まる。
……何か暖かくて柔らかいものが、足に絡みついてる。
視線を下に向けると……黒い何か。
動いてる。
『声』は聞こえない。
これが何なのか、全く見当もつかない。
人型をしてるけど、『声』が聞こえない。ということは、少なくとも普通の人間ではない。
というか、『おとーさん』って何?
子どもを産んだ記憶はないし、そもそも産めないんだけど。
また狐帝の悪戯かな?
でも、それにしては……。
混乱しつつ、僕は黒い何かに手を伸ばした。
指先が頭に触れると同時、それはビクッと震えた。
ギューッと、足に絡みつく力が強くなる。
……でも、強くなったと言っても、その力は酷く弱々しい。
「……」
手をゆっくりと左右に動かすと……徐々に、それの身体から力が抜けていくのが分かった。
そのまま四半刻のその半分くらいの時間、僕はその子の頭を撫でていた。
身を屈めて視線を合わせる。
……知らない女の子だ。
少なくとも、知らない女の子の見た目をしている。
身長は一メル前後。ニ、三歳くらいに見える。
「君は、誰かな?」
「……」
「名前はあるの?」
「なまえ?」
女の子はキョトンとした顔で首を傾げた。
「そっか。でも、名前がないと不便だし……僕が名前を付けるべき、だよね」
この子は誰――いや、何なのか。
最初は混乱したけど……頭を撫でてる最中に、正体はすぐに分かった。
この子は、僕の眷属だ。
〇〇〇
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