18話 『ロンデル・エンリ 一』



「……ふぁ」


 目を覚ますと、欠伸が出た。こんなに長い夢を見たのは久しぶりな気がする。


 僕はなんとなしに、両腕に抱き締めていた魔石を手のひらで撫でた。


 四年前、ウスラから奪い取った『声』。そこに、僕が自分の力を大量に注ぎ込んじゃったものだから、この『声』は期せずして僕の初めての眷属になってしまった。


 まー、眷属と言っても、元は『声』に過ぎない。聖女さんみたいに魂そのものを眷属にするのと違って、自我なんて持ってない――というのが狐帝の言。


 僕は眷属を作ったことがないから、狐帝の言うことが本当かどうかは分からない。でも、少なくともこの四年の間に、この魔石が喋ったりすることはなかった。


 ずっと変わらず、ただそこにあるだけ。


 それがなんだか可愛くて、僕はよくこの魔石を抱きしめたまま眠っている。


 最後にもう一度魔石を撫でて、寝台から起き上が――ろうとした。


 僕は身体の動きを止めた。

 ジッと、魔石を見つめる。


 ……やっぱり、いつもと同じように、魔石は微動だにせずそこに転がっている。


 気のせいだったかな? 今一瞬、動いたような気がしたんだけど。



 ――



 寝室から居間へと繋がる扉を開けると、そこには当たり前のように狐帝がいた。


 狐帝は机の上に巻物を広げていて、筆で何やら文字を書いている。筆から禍々しい力が立ち上ってるのが見えて……朝っぱらからちょっとゲンナリした気分だ。


 僕が対面の椅子に座ると、狐帝は机から顔を上げた。


「おはようございます、黒狼様」

「今日も早いね」


 皮肉を込めた僕の言葉は聞こえなかったらしく、狐帝は再び顔を伏せて巻物に何かを書き始めた。


「それって毎朝何をしてるの? 筆で何かを書いてるけど」

「書道は乙女の嗜みですよ」

「……そんなに気合いを込めて?」

「我はいつでも全力ですから」


 適当な返事をする狐帝の頭を眺めながら、僕は思案を巡らせていた。


 四年前、狐帝は突然エンリ村に姿を現した。それからは、時折やって来ては僕にお茶をせびったり、逆にお土産を持ってきたりしてたんだけど……ここ最近は、なぜか頻繁にやって来る。そして、決まって巻物に何かを書くのだ。


 僕はチラリと、狐帝が書いている内容に視線を送った。


 筆から絶えず滲み出てくる墨は、狐帝の力が凝縮したものだ。それを使って描いた、どこか美しく感じる記号は――僕には判読できないけど、おそらく文字の一種なんだろう。


 狐帝は淀みなく文字を連ねてゆく。その度に巻物から感じる力の総量が……一方的に増えるのかというと、そういうわけでもない。増えたり減ったり、振り子のように力の総量は変動する。


 けど、前に見た時よりは着実に力の総量は増えていて、いったいどこまで力が膨れ上がるのか、若干不安を感じる域に達しつつある。


 そもそも、そんな物騒な物で何をするつもりなのか、知りたいような知りたくないような……そんな微妙な心境で狐帝が筆を動かすのを眺めていると、


「……悪いけど、今日はそろそろ帰ってもらってもいいかな?」


 『声』が近づいてくるのに気づいて、僕は椅子から立ち上がった。


 寝起きでボーッとしていたせいで気づくのに遅れた。ウスラが、もう家のすぐ近くまで迫っている。どうやら、僕に話があるらしい。


「あら、何を慌てていらっしゃるのですか?」

「何って……狐帝も分かってるでしょ。人が来るから、早く帰って!」


 慌てる僕をよそに、狐帝はのんびりと巻物を胸元にしまった。


「別に見られても構わないではないですか。以前のようにご自分の都合のいいように書き換えてしまえば、全て無かったことになるのですから。ねぇ、ロンデル様……でしたっけ?」

「っ、いいから早く――」


 僕がそこまで言った時、扉を叩く音が聞こえた。


「おーい、ロンデル。俺だ。開けるぞー」


 部屋に入ってきたウスラは、入口で固まった。柔和に微笑んだ狐帝は、軽く頭を下げながら、


「おはようございます」

「あ、ああ。おはよう」


 困惑の視線を狐帝に送っていたウスラは、僕の方を見て、


「こちらの方は?」

「えっと……これは、その――」

「わたくし、イリエルと申します。ロンデル様とは……そうですね、ただならぬ仲とでも言いましょうか」


 狐帝の返答に僕は言葉を失った。ウスラは驚愕の表情を浮かべたまま、僕と狐帝を交互に見て、


「た、ただならぬ仲? そんな相手がいたとは、初耳だったが……そもそも、エンリ村で見かけた覚えが」

「つい先日に来たばかりですから。偶然森の中でロンデル様と出会った瞬間、お互いに運命を感じたのです」

「あ、お……おう、そうか」


 そんな二人の会話を見ているうちに、僕は我に返った。


「いや、違うから! 僕とこて――イリエルはそんなんじゃないから!」

「……そう、ですよね。わたくしなんて」


 よよよ、とわざとらしく涙を拭った狐帝の姿に、単純なウスラは簡単に騙されたらしい。


「ロンデル……」


 ウスラの非難の眼差しから目を逸らした僕は、こちらへ向けて楽しそうに笑う狐帝の顔を見た。


 く、くそっ……この女狐。


 わざわざ『イリエル』だなんて名乗るところが、ほんと嫌味ったらしい。


 確かに狐帝の言う通り、ウスラの『声』を書き換えてしまえば、全て無かったことになる。つまり、今ここでどんな会話をしたって問題ない。


 それが分かってるから狐帝も悪ふざけをしてるんだろうけど……思い通りに動かされるのは、何だか癪に触る。


「……もう、分かったよ」


 机をぐるりと周った僕は、狐帝の後ろに立った。両肩の上から狐帝の頭を抱き締めると、ピクリと狐帝の身体が跳ねた。


「僕はこの人のことが大好きだ。機を見て婚姻したいと思ってる相手だよ」

「は?」


 狐帝が本気で驚いたかのような声をあげるが、ここまで来たら勢いだ。


 僕は狐帝の肩の上から身を乗り出して、左の頬っぺたに接吻をした。


 ピシリ、と身体を固める狐帝……の後ろで、僕は必死に吐き気を堪える。


 そんな狐帝と僕の姿を見ていたウスラは、若干感動したような面持ちで、


「そうか……ロンデルにもついにそういう相手ができたのか。その時が来たら教えてくれ。親友の婚姻だ。俺の全力で祝ってやる」

「うん、ありがとう」


 ウスラは満足気に頷いて、玄関扉に手をかけた。


 ……『声』を聞く限り、僕の家に来たそもそもの理由を忘れてしまっているらしい。


「ところでウスラ、何か用事があって来たんじゃないの?」

「あ、そうだった――いや、別に大した理由じゃないんだが」

「いいよいいよ。で、なに?」

「おう、それがな。だいぶ落ち着いたから、お前をアルに会わせたいと思って呼びに来たんだ」



 ――



「……まさか、黒狼様が我のことをそのように思っていただなんて、考えてもみませんでした」


 二人きりになった部屋で、狐帝がしみじみとした様子で呟く。


 僕らは後で行くと言ったので、ウスラは既に自宅に帰ってしまった。


「気持ち悪いからやめてよ。あ、お茶淹れるけど要る?」

「いただきます」


 即答した狐帝は、再びしみじみとした口調に戻って、


「しかし、申し訳ありません。黒狼様は少しばかり頼りないと申しますか……やはり自分よりも年を重ねた相手でないと」

「世界で一番の年寄りが何言ってるのさ。そこらの岩とでもつがいになるの?」

「それもよいかも知れませんね」


 適当な調子で言った狐帝は、一転真面目な表情になった。


「ところで、どうするおつもりですか? 記憶を弄る前に帰してしまうだなんて」

「別に何も考えてないよ。そもそも狐帝が自分で蒔いた種でしょ」


 鍋を火にかけ、湯呑みの準備をした僕は椅子へと戻ってきた。


 僕が座るのを待って狐帝は、


「それはつまり……先ほどの設定を継続するということでしょうか?」

「人が見てる前ではね。近所の女衆と一緒に洗濯をしたり、裁縫をしたり……しばらく苦行を味わってもらおうかな。僕を困らせた罰として」


 普段好き勝手してる狐帝からすれば、人間として他の人間と一緒に過ごすのは苦痛のはずだ。たまにはこうやって痛い目を見れば、少しは自重するようになる……と思いたい。



 ――



 僕がウスラの家に一人で向かう頃には、既に噂はエンリ村中に広がっているようだった。


 ウスラが僕の家を出てから半刻と経っていないのに……『声』を聞く限り、村人の十の三ほどは僕が謎の女性と婚約していることを知っているらしい。


 当然のことながら、渦中の人物が村をほっつき歩いていたら、放っておかれるはずがない。


 カサンドラさんをはじめ、色んな人に呼び止められ――結局、ウスラの家に辿り着くまでに、いつもの五倍くらいの時間がかかってしまった。


 扉を叩くと、数拍と経たずに扉が開いた。


「おー、ロンデル。遅かったな」


 ニヤつきながら言うウスラには、どうして時間がかかったのか心当たりがあるらしい。僕はウスラのことを睨みながら、


「どこかの誰かさんが言い触らしたからでしょ」

「俺が言わなくてもいつかはこうなってただろ。つまり、俺のせいではないってことだ。というか、お前一人か? イリエルさんは?」

「家に置いてきたよ」

「せっかくなら、二人で来ればよかったのに」

「また今度ね」


 ウスラはちょっと不満そうな表情を浮かべた。そんな顔をされても……文句なら狐帝に言ってほしい。嫌々ながらいちおう誘ってみたけど、昼寝したいから、と断ったのは狐帝だ。


「ま、ともかく、入れよ」


 ウスラに続いて部屋に入った僕を出迎えたのは、椅子に座る一人の女性と……その胸に抱かれている赤ん坊だった。女性は人懐っこい笑顔を浮かべて、


「ロンデルさん、こんにちは! 少し散らかってるけど、ゆっくりしてってね」 

「はい、お邪魔します」


 自分の表情が少し硬くなるのを感じながら僕は会釈をした。


 どうしてだか、ひと目見た時から僕はクレアさんのことが苦手だ。別に、クレアさんが悪い人だからってわけじゃない。むしろ、クレアさんはいい人だと思う。


 すごく人当たりのいい性格で、嫁いできてから一月と経たずにエンリ村に馴染んでしまったし、料理やら裁縫やら何にしてもそつなくこなしてしまう。


 『声』を聞く限り内面も悪い人じゃないのに、どうして自分がクレアさんのことが苦手なのか……我ながら不思議だ。


 僕はできる限り内心を顔に出さないように注意しながら、クレアさんの方へと向かって――その胸に抱かれている赤ん坊に目を向けた。


 赤ん坊はすやすやと眠っていた。髪の毛は金色でウスラと一緒。全体的に柔らかな顔立ちは……クレアさん似かな? 


「どうだ?」

「どうって言われても」

「赤ん坊ながら、中々どうして覇気があるだろ?」

「……覇気?」


 僕にはただの赤ん坊にしか見えないけど、ウスラにはそう見えるらしい。


 どうやら、クレアさんは僕と同じ意見らしく、可笑そうに笑いながら、


「この人ったら、アルをひと目見た時からずっと同じこと言ってるのよ? 恥ずかしいから止めてって言ってるんだけど」

「恥ずかしいことあるか。俺は事実を言ってるだけだ。日々剣を握ってる人間にしか、理解できないかも知れないけどな。だろ、ロンデル?」

「残念ながら、僕にもちょっと理解できないんだけど……」


 アルくんからは、ウスラが言うような覇気なんてものは感じない。普通の、そこらにいる赤ん坊と同じ――


「……クレアさん。アルくんに触ってみてもいいですか?」

「もちろん、いいわよ! 何なら抱っこしてみる?」


 僕の返事を待たずに、クレアさんは椅子から立ち上がって、僕へとアルくんを渡そうとしてくる。


「まだ首が座ってないから、気をつけてね」

「あ……はい」

「そうそう! そんな感じで」


 黒狼という立場上、皇帝の子どもなんかを抱っこした経験は何度もある。その経験のおかげで、僕はあまり慌てることなくアルくんを抱っこした。


 赤ん坊特有の熱い体温を感じながら、アルくんへと意識を向ける。


 一見普通の、そこらにいる赤ん坊――のように見える。


 ただ、上手く言葉では表現できないけど……そこはかとない違和感のようなものが、ついさっき一瞬だけ引っかかった。


 今、こうして目の前で注意して確認してみると……やっぱり。


 ごくわずかだけど、確かに、おかしな物がそこにはあった。


 ……アルくんの中に、狐帝の力を感じる。



 ◯◯◯

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